C.018 新天地の日常【Ⅰ】
“弦国生”として生きる日々も、三日目、四日目と順調に過ぎてゆき、各々の授業はいよいよガイダンスから本格的な内容へと足を踏み込み始めた。
それはすなわち、里緒たちに対する教師陣の認識と扱いが、『新入生』から『一年生』へと昇華してゆく過程でもある。
里緒にとっては初めて経験することになる、同性だけに囲まれた環境での学習と日常。隣の建物には男子たちがいて、部活ではこれまで同様に彼らと交わる機会もあるのだけれど、男女併学という風変わりなシステムは、里緒の学校生活に新鮮さの一味を加えるには十分なスパイスだった。
本当は、何を考えているのか分かってしまうから、同性は怖い。
何を考えているのか分からないから、異性も怖い。
恐怖の本質が違っていても、どちらも怖いことに変わりはないのだ。
(でも、あれから急に逃げ出したい衝動に蝕まれることもないし)
スカートばかりの並ぶ教室でペンを握りしめるたび、ほのかな期待に里緒は胸を膨らませるのだった。──このままクラスや部活の仲間たちに順応していって、いつか過去の自分を亡き者にできることへの、期待に。
三日目。全校生徒の健康状態を確認するため、身体測定と健康診断が行われた。
クラス単位での実施になるので、当然ながらそこに男子の姿はない。とはいえ、いくら女子だけの空間でも裸になるのは恥ずかしいだろうからと、生徒たちには測定時に『重量に影響のない服』の着用が許可されていた。
だが、言われなくても体格や体重を気にする年頃のこと、中にはなるべく軽くしたいからと最低限の下着だけで挑む勇者もいた。
花音がまさにその典型例だった。
「見よ、どうだこの理想的な美容体型!」
名前順での測定が行われる中、勝ち誇ったような顔をして里緒のもとへと帰還してきた花音は、チャートに記入された数値の羅列を眼前に押し付けた。
身長百五十七センチ、体重四十七キロ。ボディマス指数を算出すると約十九。なるほど、確かに美容体型の目安と一致している。運動部上がりの花音は身体も引き締まっていて健康的なので、実際の見てくれの評価はきっと数値以上に高くなることだろう。
それはともかく下着姿である。体育座りで順番を待っていた里緒は、顔を真っ赤に染めながら目を逸らしてしまった。
「その……すごいね……」
「でしょー。ふふん、花音様だから!」
「私、いくつなんだろう。体重」
膝を抱え込みながらつぶやくと、花音が見咎めるように里緒を指差した。
「まさかその格好で測定する気なの? そんなに着込んでたら重くなっちゃうよ」
「だ、だって恥ずかしいから」
里緒は身動ぎをした。薄着どころか、里緒の格好は制服のブレザーの上着を脱いだだけである。肌着、白ワイシャツと黒ネクタイ、膝丈のプリーツスカートにグレーのスクールベスト。さらにスカートの下にはチラ見え防止の短パンも着用している。これだけ着込んでいれば、『重量に影響を及ぼす』のは誰の目にも明らかだった。
「ダメだなぁ、里緒ちゃんには私みたいな割り切りが足りないよ。どうせ女子だけなんだし気にすることないじゃん!」
里緒を鼓舞するつもりなのだろう、ふんと花音は鼻息を荒くした。すると、不意に背後から現れた紅良が、キャミソール越しの花音の背中に毒針を突き刺した。
「青柳さんには羞恥心が足りないんじゃないの?」
あからさまに不快な顔になった花音と紅良の間に、見えない火花が青白く飛び交う。たちまち周囲が苦笑に包まれた。まだ入学式から数日しか経っていないのに、もはや紅良と花音の対立はすっかりD組お馴染みの光景になりつつあった。
「出たな、イチャモンロングヘア女め! 今度は何を言いに来た!」
「もう言ったけど」
「私に伝わるようにもう一回言えー!」
「悪いけど今は青柳さんと話す気持ちもあんまりないの。──高松さん、さっきから向こうで名前、呼ばれてる」
「ええっ!」
花音に気を取られていて聞き逃してしまったのか。困惑している場合ではなくなり、里緒は大慌てで立ち上がって計測所の方へと駆け出した。花音が珍しくばつの悪い顔をしていたが、きちんと目に焼き付ける前に横を通りすぎてしまった。
計測係を務めていたのは養護教諭の対馬先生である。彼女も里緒の服装には戸惑いを隠せなかったらしく、本当にそれでいいのかと二、三度は確認を受けたが、そのたびにうなずいて測定を受けた。
里緒にとって、衣服は着飾るためのものではなく、身体の視覚的な保護のための楯。女子高生らしからぬ考え方だというのは百も承知だった。
……里緒の身体測定の結果は、大方の予想を派手に裏切った。
身長は花音より六センチほど高い、百六十三センチ。対する体重は四十四キロであった。──つまり、ただでさえ理想体型なうえに里緒より身長が低い花音の体重を、あれだけ服を着込んだ状態で三キロも下回ったのである。
BMIは約十六・五。肥満度判定は文句なしの“痩せすぎ”。
「なにこれ!?」
驚愕のあまり花音が大声で数値を読み上げてしまい、周囲はにわかに騒然となった。
「嘘でしょ!? 軽すぎるよ!」
「そんなんでどうしてあんなに安定してクラリネット吹けるの!? 腹式呼吸ちゃんとできてる!?」
「てか、いったいどんな食生活送ってたらこうなるわけ?」
「羨ましい!」
方々から降り注いだ声の正体は、果たして字面通りの羨望か、それとも嫉妬か。ともかくプライベートの情報を派手にばらまかれてしまい、里緒は必死に肩を小さくしながら元の場所まで戻ってきた。
思いの外、面食らう感情は起こらず、「やっぱりな……」なんて独り言ちた。
家に帰っても家族の姿はなく、囲む食卓はいつも独りだけ。そんな生活で食欲が湧き起こってくるはずはなく、近頃は日増しに小食化が進行しているところだったのである。
「里緒ちゃん、今度一緒に何か食べに行こうよ。そのままだと里緒ちゃん、消滅しちゃいそうだよ」
花音が鬼気迫る表情で言い募ってきた。
「焼肉とかスイーツ食べ放題とか、ラーメンとか!」
花音がそれを食べたいだけなのではないのか。……とっさに紅良さながらの突っ込みが思い浮かんだが、面と向かってそんなことを里緒が言えるはずもなかった。開いた口が不自然に歪んで、言い訳に走ってしまった。
「でも……私、あんまりたくさん食べすぎると、気持ち悪くなっちゃうし」
「…………」
「あと、お金も……」
「私、そろそろ里緒ちゃんのことが可哀想になってきた」
花音の声があまりにも真剣だったものだから、いたたまれない気持ちに苛まれながら里緒は無言で目を逸らした。
少なくとも『お金がない』というのは大嘘なのだけれど、だからといって素直に誘いに応じられるほど、この心はまだ花音に馴染んではいない。そんな都合を上手く説明できる言葉が、見当たらなくて。
(焼肉もちょっと、楽しそうだけど)
シャツをちょっとたくし上げて、露出した貧相なお腹を撫でながら、里緒は静かにため息を漏らしたのだった。
「歌って、いいな。クラリネットほど場所を選ばないし、どんな人とも一緒にできる」
▶▶▶次回 『C.019 新天地の日常【Ⅱ】』