C.178 コンクール本番演奏──前半
十八時二十六分。
定刻より二分ほど遅れて、弦巻学園国分寺高校管弦楽部の演奏が始まった。
長い演奏の幕を切って落としたのは、独奏者・高松里緒の放つクラリネットのC音だった。泣き止まない幼子を寝かしつける歌のように、優しく、波長の大きな波を描いて、A管バセットクラリネットの柔らかな音はホールに響き渡る。脳裏に浮かぶのは穏やかな昼下がりを過ごす貴族の姿であろうか。そこにあるのは確かな安寧の風景だが、聴き手の耳にはすでに、底冷えのするような切なさの予感が響き始めている。
はじめ、弦楽器の奏でる対旋律は決して波の上に顔を出さず、単調なテンポを刻んでメロディの背骨を形作ってゆく。けれども旋律が一巡すると、その主従関係はいきなり引っくり返る。独奏クラリネットに代わって膨らんだ第一ヴァイオリンの弦音が、全合奏の印に従って主旋律を歌い始めるのだ。それまで沈黙していたフルートが、ファゴットが、一斉に名乗りを上げて音の海に飛び込んでくる。
第一ヴァイオリンパートを務めるのは上福岡洸と池田直央である。長年の経験者の紡ぐ正確無比な音符運びを彩るように、滝川菊乃の率いる息の合った三人のフルートが、時おりトーンを巻き上げて跳ねる。完全な調和の取れた音楽の中にあって、その飛び出た音は不思議と曲の世界観を破壊せず、むしろ無限の奥行きすらも感じさせる効果をもたらす。後発で参加した白石舞香も、長浜香織も、見事なまでに一致した音でパートの底上げに貢献している。
伴奏の音が沈み、ふたたび頂に浮き上がってきたクラリネットは、冒頭の主題にややアレンジが加わったメロディへと没頭する。音と音の粒の隙間を埋めるように、弦楽器の波が絶え間なく出入りして独奏を支える。──かと思うと、第一ヴァイオリンの率いる管弦楽伴奏が一気に音を上げ、またもクラリネットを飲み込んで主旋律に返り咲く。直前の調べを正確に踏襲し、複雑に、かつ豊かに盛り上がる演奏。弱起したフルートの唄いが美しくも儚い。クラリネット独特の甘く切ない音色の面影はそこにはなく、ただ、深みと重みのある旋律が舞台上を吹き荒れて、聴き手の耳に強い悲しみを引き起こし、消えてゆく。
それはあたかも、かつて過ごした栄華の日々を懐かしむかのような、華やかで、優美で、胸が締め付けられる音の運びだ。どこか惚けたクラリネットの響きは、取り返しのつかない切なさを音の粒ひとつひとつに染み渡らせ、着実に迫り来る衰微の経過を巧みに物語っているようでもある。
ここまでが一つ目の楽節、提示部となる。繰り下がるような弦楽の音色が小休止の役割を果たし、演奏は次の展開部へと進む。
〈クラリネット協奏曲〉の第二楽章は三部に分かれている。文字に表せば“A―B―A”のように、第三部で冒頭の主題を再現する三部歌謡形式を取っているのが、この楽章の大きな特徴だった。演奏はまだ、冒頭の提示部を奏で終えたに過ぎないのだ。
舞台の上は黄金の光にあふれ、見る者の目を眩ませる。
その光の真ん中に、紬は里緒の姿を見つけた。
否、それが里緒であることは初めから分かりきっていた。〈クラリネット協奏曲〉にクラリネット奏者は一人しかいないのだから、クラリネットを吹いている子が舞台のどこかにあれば、それが里緒に決まっている。そうと分かった上で、それでもなお紬の目には、彼女が里緒であるようには少しも見えなかったのだ。
あの長いクラリネットを携え、楽団の中心に立つ里緒の姿は、紬の知っている里緒とはまるで違っていた。背筋は威風堂々とまっすぐに伸ばされ、口から放たれたクラリネットの音は客席中に力強く轟いて、どこまでも透き通った余韻を残してゆく。
紬の知っている里緒は、こんなにも芯のある音を発する子ではなかったはずなのに。
「……お姉ちゃんだ」
半ば放心したように、指をくわえた拓斗が独り言ちた。紬は思わず小声で尋ね返してしまった。
「分かるの」
「うん。わかるよ」
拓斗は身を乗り出した。
「お姉ちゃんの声がする」
この子は何か、自分には聴こえない音でも聴き取っているのだろうか。素直な驚嘆を胸に抱きつつ、紬は里緒に視線を戻した。こういうことに関しては、幼い子の感性は意外と侮れない。
モノレールの駅で離れ離れになって以来、里緒とは実に三ヶ月も会っていない。三ヶ月もの時間があれば、あのくらいの年代の少女はいくらだって変わるし、変われる。それだけのポテンシャルを秘めているのが、思春期の少年少女という生き物だ。
(そうよね、まだ高一なんだもの。無理もないか)
驚きがいくらか収まってくると、耳の痺れも次第に落ち着いて、演奏を素直に味わう余裕が生まれる。里緒から視線を剥がすことなく、紬は弦国管弦楽部の演奏に耳を傾け、没入していった。見る間に客席の風景は暗闇に溶け、流れ去る。やがて、空間の距離を無視して音楽が胸のなかに直接殴り込んでくるような感覚が、紬を襲って骨の髄に染みた。
それは、あまりにも美しい音だった。
クラシックにおけるクラリネットは、ビブラートのような特殊な奏法を使わない。そこにはただ、素朴で輝かしい音があるのみなのだ。透明な旋律は聴く者の心根にまで入り込み、細い琴線をそっと揺らして、どこへともなく消えてゆく。
紬はやけに泣きたくなった。
どうして泣きたくなったのかも分からなかったし、瞳が潤んで里緒たちが見えなくなるのも嫌だったから、膝をつかんで懸命に涙をこらえた。──だが、抵抗を許さない迫力で膨れ上がったヴァイオリンの主旋律が、里緒のクラリネットもろとも紬を飲み込み、結局、紬の目尻には滴が浮かんだ。
(なんで)
紬は里緒を見つめながら喘いだ。
(なんでこんなに泣けてくるんだろう)
里緒の成長した姿を目の当たりにして、心の中は浮き立っているはずなのに。言葉を交わすことはできなくとも、姿を拝む夢は叶った。たったそれだけで、どれほど嬉しいと思ったか分からないというのに。泣きたい気分などではないはずなのに。
ヴァイオリン、チェロ、ファゴット、ホルン。折り重なった幾多の音色は綺麗な和音を編み、大波を成してホールの中を対流する。だが、どんなに周りの音が大きく響いても、紬の耳には里緒の奏でるクラリネットの音が掻き消されることなく聴こえてくる。まるで紬の存在を探り当てるかのように、揺れる音と音の合間を掻い潜っては、紬にたどり着いて快さげに共鳴する。
そうか。
今、私、安心してるんだ──。
紬は涙を拭い、天井を見上げた。無数の波紋が回折と反射を繰り返し、ホールには天井いっぱいまで音楽が満ちている。耳を塞いでも、目を閉じても、里緒の音は紬を湯船のように包んで、決して逃れさせようとしなかった。
紬は小さな人間だった。
本当は誰よりも情けなくて、無力で、支えがなければ何もできない。
けれども、自らの怠慢のために夫が鬱病を悪化させ、二度と起き上がらない身体になってから、嫌でも弱いままではいられなくなった。だから、今は立派な一人前の保護者の体を装い、こうして偉そうに拓斗を連れ回している。
そんな真似をする資格など本当はどこにもない。
自らの手で傷付けてしまった大切な人たちは、もう二度と戻ってはこない。
この数年間、戒めの文句を欠かしたことはなかった。むろん、今も夫は昏睡から目覚めてはくれないし、里緒は紬たちに近寄ってきてはくれないから、あの戒めは確実に真実を言い当てたものだったのだろうと思う。
しかし里緒のクラリネットは違った。
こんなにも距離を隔てて座る紬のところにも、里緒の音は変わらず響いて、以前のように紬を楽しませてくれようとする。紬を拒む意思は、そこには少しも感じられないのだ。
当たり前のことと言えばそれまでである。そうだとしても嬉しかった。里緒は紬に、自分の世界に触れるのを許してくれた。あれほど傷付けたのに、また、こうして紬の生きる世界に戻ってきてくれたのだ。それも、決して誰にも劣ることのない、燦然と響く里緒だけの音を手に入れて。
(里緒ちゃんは……)
怒濤の感情の渦に飲まれ、息が浅くなるのを覚えながら、紬は里緒を見つめた。
(大きくなったんだね)
それが証拠に今、里緒の立ち姿はこんなにも眩しい。
あふれた涙が頬を伝って、膝の上に砕けて消えた。──紬はまだ、やり直すチャンスを手に入れられるのかもしれない。淡い期待にすぎない事実が、今はこんなにも嬉しくて、泣けてくるだなんて。
「ママ」
服を引っ張った拓斗が首を傾げた。
「なんでないてるの?」
「……何でもないよ」
泣き笑いのまま、紬は返した。
たとえ、どんなに語彙を駆使して伝えようとも、この感慨は誰にも理解されない気がした。
「……高松も今、演奏を楽しめてるといいな」
▶▶▶次回 『C.179 コンクール本番演奏──後半』