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クラリオンの息吹  作者: 蒼原悠
第五楽章 奏でよ、悠久のレクイエム
188/231

C.177 揺るぎない決意【Ⅱ】

 




「……じゃあ、あたしから」


 立ち上がった菊乃はフルートを席に置き、コンクール組の十五人を順に見回した。コンクール挑戦の発起人である菊乃は、フルート奏者でありながらコンクール組の実質的なリーダーでもある。

 その一挙手一投足に、誰もが注目する。

 しんと舞い降りた沈黙の真ん中で、菊乃は肩をなだめ、それから胸を張った。胸にはオレンジ色のドミノマスクが凛と輝き、里緒の目を釘付けにした。

 柔らかくて、温かくて、おおらかで、受け止めたものの緊張をみんな根こそぎ奪ってゆく。

 そんな菊乃の魔性に里緒は昨日、救われた。


「──この半年間、あたしの夢は、みんなでコンクールの舞台に立つことでした」


 うつむきがちに菊乃は切り出した。彼女の顔は、嘘のように平坦だった。


「ぶっちゃけて言うとね。最近、すごく葛藤してたんです。コンクールに出たいっていうのはあたしの個人的な夢でしかなかったはずなのに、それにいつの間にかみんなを巻き込んじゃって。あれは間違いだったんじゃないか、私はみんなを騙していたのかな、って。……今さら言うまでもないかもだけど、そう考えるようになった一番のきっかけは高松ちゃんの一件でした。音が出なくなるなんてアクシデント、あたしも初めて目の当たりにしてパニックだったし、何より、それが自分の勝手な夢のせいで引き起こされたものなんだとしたら……って怖くなった。毎晩、毎晩、不安と恐怖でいっぱいでした」


 憂いに満ちていた合宿初日の菊乃の顔付きが、里緒の脳裏を鮮烈に(よぎ)った。

 きっと菊乃にとって、里緒の一件はすべての象徴なのだろう。自分の夢の実現のために、こうして犠牲になっている部員がいる。里緒を通じて菊乃はその自覚を持ち始め、次第に一人で追い込まれていったのだ。──針を刺したように胸が痛んだが、その痛みは「でも」と菊乃の張り上げた声に蹴り飛ばされて消えた。


「今はきっと誰もが、今日の演奏の成功を夢見てくれていると思う。今、この場所に限って、あたしの夢はみんなの夢でもあると思います。それがあたしの夢に共感してくれた結果だとしても、あるいは偶然あたしと同じ夢を見ているだけなのだとしても、あたしたちのすべきことは何も変わらない。あたしたちはただ、一緒に抱いた夢を叶えることだけを考えて、あの舞台に立てばいい」


 菊乃はフルートを取り上げた。銀色の楽器を両手で握る彼女は、まるで押し寄せる情の波に懸命に耐えようとしているかのようだった。

 震えの混じる声を絞り、菊乃は続けた。


「『夢を見るから、人生は輝く』──。今回演奏する〈クラリネット協奏曲〉を作曲したモーツァルトは、そんな言葉を遺したと言われているそうです。もしもその言葉の意味が真実なら、誰にも負けない夢を描いてここに立ってるあたしたちは、きっと誰にも負けない輝きを舞台の上で放てると思います」


 里緒は唇を縛った。しっとりと煌めく菊乃の瞳が、クラリネットを握ったままの里緒を貫いた。


「高松ちゃん、独奏(ソロ)を引き受けてくれて本当にありがとう。おかげですごく、すごく、いい演奏ができそうだよ」


 菊乃は笑った。いつしか平坦な面持ちは拭い去られ、そこには偽りのない心からの笑顔があった。半泣きになりながら首を振ると、彼女の目は里緒を外れ、部屋中に集まる部員たちに向けられた。


「コンクール組のみんな、先輩方。一緒に演奏に取り組んでくれてありがとう。みんながいたからコンクールに挑む勇気を出せました。──須磨先生と矢巾先生。お二人の指導があったからこそ、今、あたしたちはこうしてここに立っているんだと思います。お礼を言っても言い切れません。──不参加組のみんな、先輩方、それから手伝いに来てくれた一年のみんな。あと少しだけ、あたしたちに頑張らせてください」


 目尻を抜けた涙が喉を下ってゆくのを感じながら、里緒は菊乃の感謝に聴き入った。うずくまるように腰かけていた舞香が、ぐす、と鼻を啜り上げる。琴線に触れる菊乃の言葉が強く響いて、リハーサル室は卒業式のような色に染まりつつある。

 すかさず菊乃は(おど)けた。


「うわっ、なに泣いてんの白石ちゃん。トナカイさんみたいになってる。かわいい」

「余計なお世話ですっ」


 鼻先を拭った舞香が吠え、部員たちの間には微かな笑いが浸透した。ここまでくると、舞香の口の悪さにさえ日常の残滓を感じて、重たく固まっていた心が羽根のように軽くなる。すべて狙ってやっているのだとしたら菊乃は相当な策士だと里緒は思った。彼女ならば本当にしでかしかねない。

 最後まで責任を持って、仲間を鼓舞し、励ます。それをやってのける菊乃はやっぱりすごいのだ。

 三十五人のそれぞれが、それぞれにカタチの違う『すごさ』を持っている。


「部長、いいですか?」


 菊乃の言葉にはじめは首肯して、拳を固めた。何が起きるのかを予想して、部員たちはいっせいに手を握ってゆく。それをひとしきり見守った菊乃は、


「それじゃ、行くよ」


 そう宣言して、拳を天に突き上げた。


「弦国管弦楽部、やるぞ!」

「お────っ!」


 夢中で里緒は叫んだ。矢巾も、京士郎も、誰もが拳を突き上げて叫んでいた。リハーサル室には地鳴りのような残響が轟き、叩き付けた決意の大きさを克明に物語ってみせた。

 ものの十秒もしないうちに扉が開いて、誘導係の女性が姿を見せた。「弦巻学園さん、お時間です」──。彼女の声に導かれ、コンクール組は一斉に立ち上がった。


 いよいよ、本番。

 ここから先は音を出すことも、時間を巻き戻すこともできない。




 満月の夜のように仄暗(ほのぐら)い舞台袖の空間には、ひとつ前の学校の演奏が皓々(こうこう)と響き渡っていた。

 プログラム十九番、都立赤羽高等学校管弦楽部。曲目は(リムスキー)・コルサコフ作曲〈交響組曲『シェヘラザード』より〉。国内の小中高では吹奏楽部に比べて少数派の管弦楽部が、このコンクールに限っては高校の部だけで十一校も出場している。さすが、『あらゆる演奏形態の出場可』を標榜する国内唯一のコンクールだけのことはあった。

 暗闇の一角に(たたず)みながら、唇を結んだ里緒は都立赤羽の演奏に聴き入り、出番を待った。


「ねね、あのクレームセーラーの人って呼んでないの」


 隣に寄り添っていた花音が、ひそひそ声で紅良に尋ねた。誰かに話し掛けていないと落ち着かないようだった。緋菜のドミノマスクの向きを整えていた紅良は、「守山のこと?」と尋ね返して、そっと制服のほこりを払った。


「……まぁ、一応ね。声だけはかけた。来てるのかは知らない」


 西元らしいなー、と呆れ顔で花音はつぶやいた。


「私、クラスの子にはしっかりチケット買わせたよ。芹香ちゃんと美怜と、あと久美子と莉華っち」


 無理に買わせているあたりが何とも花音らしい。大祐も聴きに来ているのを思い出しつつ、里緒は両肩に微かに乳酸が乗るのを覚えた。

 入口での会話を聞いていた限り、花音の知り合いの少女はドアマンとして客席最後列に控えているようだ。里緒たちが音を聴かせるべき相手は、ごく一部の知り合いに限っても本当に多い。


「たくさんいるといいね、お客さん」


 ドミノマスクの傾きを整え終えた緋菜が、薄明かりの中でファゴットを抱えながら微笑んだ。冗談ではない。里緒はクラリネットのキイに指を立てた。


「私は少ない方がいい……」

「気持ちは分からなくもないけど、実際すごく多そうだよ。そうでなくても最終組だし、仮面(これ)のおかげでうちは有名校だもの」


 そんなことは百も承知である。身を屈めた里緒だったが、昨日、菊乃のかけてくれた言葉を思い出して、圧し殺した息を腹の奥に沈めた。


「せっかく頑張って演奏するんだから。少しでもたくさんの人に、私たちの音を最後まで聴き届けてほしい。……楽しみだな」


 そうつぶやく緋菜の横顔は、彼女にしては珍しく火照り、浮き足立って見えた。

 演奏が途絶え、拍手の轟音が舞台袖の空気をかすかに揺らす。扉一枚を隔てた場所からも、その迫力は容易に推して知ることができた。かなりの数の客が入っているのは間違いない。

 舞台上の照明が暗く下げられ、生徒たちの退場する姿が遠方にちらつく。ステージ係のスタッフや補助役員たちが一斉に舞台へ乗り込み、余分な座席を運び出し、配置の調整に取りかかった。聞けば都立赤羽高校の楽団は一〇五人にも上っていたらしい。弦国の人数は十五なので、座席はここで一気に七分の一にまで削減される。

 弦国管弦楽部は、わずか七分の一の人数で、他校と同じだけの熱量を客席にぶつけるのだ。


「──行こう!」


 菊乃が静かに号令をかけた。

 開放された扉を抜け、管弦楽部は暗転中の舞台の上に躍り出た。

 舞台の上では足音さえ高らかに響き渡る。自分の立つべき場所を目指して、がむしゃらに里緒は歩いた。天井に並ぶ白熱照明の放つ赤外線に温められ、舞台上は霞のような熱気に包まれている。対照的に照明の落とされた客席には宏漠とした闇が覗いていて、何も伺うことができない。

 連れ添って歩く花音と紅良が、服装と楽器の最終確認をしてくれた。


「うん。問題、ないよ」

「大丈夫ね」


 二人の声は今にも引っくり返りそうだった。舞台袖での振る舞いが嘘のように、おろおろと花音は里緒にすがりついて訴えてきた。


「頑張ってね。私たち、すぐ後ろで聴いてる。姿は見えなくたって、ちゃんと里緒ちゃんのすぐ近くにいるから……」


 大丈夫、分かっている。うなずいてみせたが、それだけでは胸の奥の本心を伝えきれない気がした。

 里緒は深く息を吸い、吐き出した。

 狙ったわけでもないのに、自然と口角が持ち上がって笑顔になった。


「──頑張るよ」


 花音のためにも、紅良のためにも、自分を含む誰のためにも。

 花音は顔を歪め、うなだれてしまう。取りなすように彼女の肩を取った紅良は、一度だけ里緒を見て、笑ってくれた。そこに励ましの言葉がなくとも、里緒の身体には静かにエネルギーが(みなぎ)った。

 二人はおぼつかない足取りで舞台の上を去っていった。見回せば、カバーの外されたグランドピアノに腰を下ろした美琴が、ステージ係の男性と最後の調整を行っていた。激励の言葉を投げ掛けた翠とつばさを、舞香が真剣な色の瞳で見つめ返していた。緋菜と智秋は仲良く隣り合って譜面台の向きを整え、その奥では宗輔がはじめの補佐を受けながらチェロの弦の様子を確認していた。ヴァイオリンパートは早くもスタンバイを終え、四人揃って澄ました顔を(つくろ)っていた。

 里緒を取り巻くように、二列の座席が扇形に配置されている。前列には右から順にファゴット、ヴィオラ、第一ヴァイオリン。後列にはチェロ、ホルン、フルート、第二ヴァイオリン。やや扇形から外れた舞台の下手側に、グランドピアノが鎮座する。

 一分ほどの時間をかけ、全ての調節が終わった。

 最奥の席に座る菊乃が、まっすぐに里緒を見つめ、大きく首を振った。事前に取り決めておいた、“演奏開始OK”のサインだった。その仕草を確認して前を向くと同時に、最後まで残っていたステージ係の男性が、舞台の照明を上げるよう指示を出しながら退出してゆく。彼の姿が舞台から消えるや、天井から降り注ぐ金色の光が一気に強まった。

 舞台は明転した。

 煌々と輝く世界の真ん中に、里緒は、たったひとりで立ち尽くした。


 ──『プログラム二十番、弦巻学園国分寺高等学校』


 高々と鳴り響いたアナウンスの声に、見えない深淵の向こうから拍手が膨れ上がった。この拍手が止んでしまえば、あとは里緒の一存ひとつで演奏が開始される。そして最後の休符と終止線(ダブルバー)にたどり着くまで、決して止まることはない。

 指揮者の姿が見当たらないことに戸惑っているのか、客席には小波(さざなみ)のように声が行き渡っていた。その(さま)はまるで、高松家のベランダから望む深夜の川の景色のようだった。しかしそれも、里緒がクラリネットを構えた途端、鎮静剤を打たれたかのように鳴りを潜めた。小気味のよい反応に酔いかけながら、そのとき不思議と心のなかにゆとりが生まれているのに気づかされて、クラリネットを構えたまま里緒は一瞬、じっとその場に佇んだ。






 クラリネットは、里緒の生きるすべだった。


 漆黒の管をくわえ、リードに唇を宛がい、空気を吸い込み、送り出す。その営みをがむしゃらに繰り返さねば生きてゆけなかった日々があったことを、きっと里緒は生涯、忘れることはないだろう。

 学業も運動もできず、美貌もなければ自信もなく、頼れる友人さえまともに見当たらない──。存在意義を何一つ持たなかった中学生の頃、そして高校入学後の半年間、クラリネットは楽器であるのと同時に、自らの気管と繋がった一筋の息吹の通り道であり、里緒の命を明日へ繋ぐ呼吸器だった。

 この楽器を手放せば、その瞬間、息ができなくなって命を落とすに違いない。

 そこまで思い詰めたこともあるし、それは必ずしも間違いではなかった。三か月前、あらゆる過去に追い詰められて音を失った里緒はついにクラリネットを手放し、そこから数日間、本当に生死の境目をさまよった。

 それでも最後、花音や紅良や無数の人の手を借りて、里緒は生き延びた。クラリネットを口に宛がわなくとも、里緒はこうして生きることができているのだ。

 その瞬間、クラリネットは里緒にとって、“呼吸器”から“楽器”に変わった。“吹かなければならないもの”から“望んで吹くもの”に変貌を遂げた、とも言い換えられるだろう。その存在意義を大きく変えた形見のクラリネットは、今、太陽のような金の光を放ち、里緒の手の中に泰然と収まっている。




『夢を見るから人生は輝く』と、かつてモーツァルトは言った。

『夢を見ているあたしたちは輝けるはずだ』と、菊乃は言った。

 いつか聴きに行った春の定期演奏会で、舞台に立つ先輩たちの眩しさに目を細めたことを、今となっては懐かしく思い出す。あの頃、里緒が夢見ていたのは“前を向いて生きること”だった。

 そして今、里緒は一歩先の夢を見ている。それは、里緒が生きることを認めてくれた仲間に、家族に、この世界に、自分の音を届けること。

 ──そして。


(ひとりでは生きられなかった私の過去と、私の弱さに、訣別するんだ)


 ここから先の八分間だけは、心に決めた夢を見失わずに済む。自信を持って、里緒はそう言い切ることができた。なぜって、これから弦国管弦楽部が奏でるのは、ただの天国的な協奏曲などではない。

 それは、稀代の天才作曲家が渾身の力で紡いだ、至上の別れの歌(レクイエム)なのだ。






 息を吸い込む。


 肩が持ち上がる。


 演奏開始の合図が背後に伝わった。静寂は舞台の床に飲まれ、消え失せた。


 温もりを帯びた透明の息吹を、里緒は構えたクラリネットに送り込んだ。








「そうか。今、私、安心してるんだ」


▶▶▶次回 『C.178 コンクール本番演奏──前半』

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