C.176 揺るぎない決意【Ⅰ】
今度のコンクールでは、ホールのみならず館内の会議室や練習室もすべて借りきられ、控室として各校に割り当てられている。別途輸送していた大型楽器の引き取りを終えると、弦国管弦楽部は控室として宛がわれた館内の第一会議室に集合した。
早速、カバンやケースの類いを広げ、里緒たちコンクール組は楽器の組み立てに取りかかった。
取り出したパーツを口、下管、上管、俵管、マウスピースの順に連結。今日のためにとっておいた状態のいいリードを留め金に嵌めて固定し、サムレストに接続したネックストラップを首から提げ、紐の長さを調整する。
キイの動作、問題なし。
タンポの調子も問題なし。
里緒の手元には長さ九十センチの大型クラリネットが組み上がった。黄金のメッキを施されたキイは館内の照明を反射して燦然と輝き、マウスピース下部には太陽を模した純白のブランドロゴが燃えている。亡きアントン・シュタードラーの愛した楽器を現代技術で再現した、A管バセットクラリネット“Die=Sonne”である。
──格好いい。
見慣れた今でもそう思う。
胸を張って、そう言える。
「みんな組み立て終わったね!」
フルートを携えた菊乃が声をかけて回っている。
「調律は割り当てられた部屋に移動してやるよっ。ここは音出しダメだからねー」
ホール内では今もコンクールが進行している。彼らの邪魔をしないためにも、音は決められた場所でしか発してはならないのだ。なんとなく癖で背筋を伸ばすと、次いで、参加要項を手にした洸が声を張り上げた。
「このあとの流れを説明しておくと、案内が来たらチューニングBのリハーサル室に移動して、そこで出番待機します。チューニングAの部屋は他所が使ってるから、部屋を間違えないようにね。それと、このリハーサル室が最後の音出し会場です。今のうちから音を出したいなんていう血の気の多い人は、自由音出し会場の第一練習室か第二練習室に行っててください。滝川さんが場所を知ってるから行き方は彼女に聞いてね」
「ねー先輩、お腹空きましたぁ」
「さっき昼過ぎに昼食会場で食べたばっかりだろ。はいはい、説明の邪魔しないで」
洸は苦笑しながら、頬を膨らませる弦楽器勢の背中を押す。こんなところまで来てもなお、普段の管弦楽部と何も変わりのない景色がそこにある。
無意味に肩を張って立ち尽くす里緒の隣で、「あ──……」と舞香が不安げに身体をよじった。
「部屋の名前なんていちいち覚えてらんないっての……。めっちゃ緊張してきた」
「白石さん、コンクールみたいなのって経験済みじゃなかったんだっけ」
「合唱コンのこと? いやいや! あんなのぜんぜん質が違うから」
月色のフルートを握りしめ、舞香は嘆息した。
「声と楽器じゃ感覚がまるで別物なんだよ。声や歌なんて日常的に口にするものだし、狙った声を出せないことなんてそんなにないけど、楽器はそもそも扱うことそのものが難しいわけじゃん。息の仕方ひとつ間違えただけで音さえ出なくなるし。ただでさえ各パートの人数だって少ないんだから、わたしひとりミスしたら曲が簡単に台無しになっちゃう。だから緊張の意味がまるで違うし、こっちに関してはまだまだ初心者なんだよ、わたし……」
揺れる舞香の姿はなんだか妙に可愛らしくて、里緒は少し、肩の痛みが減衰するのを覚えた。普段、口の悪さを自負しながらキツい言動を振り回す姿も見せる舞香だが、こんな風に月並みに不安を覚えることもあるし、努力が実らなくて苦悩することもある。彼女とて中身は年相応の女子高生である。
「周りはみんな経験者だしなぁ。足とか引っ張ったりしたらマジ嫌だな……」
肩をすくめながら周囲のコンクール組を見回して、苦しげに舞香は吐露する。その胸に、「大丈夫だよ」と里緒は小さな声をかけた。不器用に震えたが、どうにか届く声になった。
「私も初心者だから。白石さんのこと、ひとりぼっちにはさせない」
「……あ、そっか。そういや高松さんもコンクール未経験者だったっけ」
舞香はまばたきを繰り返した。そう、出場経験がないのは里緒も同じなのだ。中学一年生だった頃、里緒のいた吹奏楽部はコンクールには出なかったし、翌年以降は里緒自身が吹奏楽部から姿を消してしまったから。
コンクールも経験していないような若輩が単独で舞台の真ん中に立ち、指揮者なしで協奏曲の独奏を吹き奏でる。そう考えると、弦国管弦楽部も実に無謀な賭けに出たものだと思う。けれどもその無謀さをすべて承知の上で、彼ら彼女らは里緒に独奏の大役を託してくれた。
「……わたしも、高松さんも、笑って控室に戻ってこられるような初舞台にしなきゃな」
低い声でつぶやいた舞香は、うん、と切り替えるように唇を結んで、口角を釣り上げた。
「頑張るか!」
いつもの強気な舞香を取り戻すきっかけを見つけられたらしい。負けじと笑い返すと、リハーサル室への移動予定時刻を指示するはじめの声が、人垣の向こうから高らかに轟いた。
『全国学校合奏コンクール』では、受付で到着手続きを済ませると特製のバッジが渡される。出場する生徒全員が制服の左肩に装着し、出演者証の代わりとして表示するものだ。リハーサル室への移動後、調律を終えて暇になったものから順に、里緒たちは服装の最終チェックに取りかかった。
左肩にはバッジ。
左胸にはドミノマスク。制服に穴を開けたくなければクリップ、確実に固定したければ安全ピンを使用して、演奏に支障のない位置に装着。譜面台の客席から見える位置に装着するのも可。
それから里緒に限っては、前髪の左上にセットした髪留めを確認する。髪留めには太陽を象った銀色の意匠が乗り、黒髪の間から太陽だけが覗くようになっている。
服装そのものは普段の制服と代わりない。ブレザーの胸元にはグレーのスクールベストと、それから真っ黒なネクタイが覗いている。これまで意識したことはなかったが、真っ黒なネクタイは葬式用の礼服で着用するフォーマルなものでもある。里緒たちの描こうとする〈クラリネット協奏曲〉の世界観に、存外ぴたりと合致しているようにも思える。
客席を占める二五〇〇人の観客の目に、大トリを務める弦国管弦楽部の姿はどのように映るのだろう。いささか不安でもあり、楽しみでもあった。
適宜、服装や髪型を直してもらいながら、ロングトーンを繰り返して唇に楽器を馴染ませた。全員の用意が整ったのを確認すると、真ん中に進み出てきた菊乃が手を叩いて合図を出した。
「よっし! 最後の練習しよっか!」
走り回った花音たち楽器運搬係が、本番通りの位置に座席と譜面台をセッティングしてくれる。座席がないのは里緒だけである。さらに言えば独奏者には譜面台も与えられない。
「じゃ、高松ちゃん。音合わせやるよ。Aの音ちょうだい」
腰かけた菊乃がクラリネットを示した。里緒はうなずいて、マウスピースに上唇をかぶせた。〈クラリネット協奏曲〉は第二楽章のみニ長調で作曲されているが、オーケストラでは音合わせはAに合わせて行うのが通例となっている。
『フォ──────』
口から滑り出した444ヘルツの柔らかい音が、白い壁に囲まれたリハーサル室のなかへ染み渡ってゆく。目を閉じた菊乃がフルートを構え、そっと音を吹き出した。小鳥のさえずりを思わせる、軽く、甘い調子のフルートの啼声は、里緒の繰り出すクラリネットの音程に緩やかに重なり、一致した。互いの音程に狂いはない。
息継ぎをひとつ挟み、フルートを離した菊乃の合図で、管楽器が音合わせに加わった。ファゴット、ホルン、それからフルート。またひとつ息継ぎをして、今度は弦楽器の音を合わせる。スポイトの要領で里緒のA音を洸のヴァイオリンが吸い取り、そこに順を追ってチェロ、ヴィオラ、ヴァイオリンが上塗りされる。無数の音が低い順に折り重なって、複雑な模様の波紋を描きながら、リハーサル室の空気を穏やかにかき回してゆく。うねりを帯びた音合わせの響きは美しい。クラリネットから唇を離した里緒は、ゆるゆると息を床に落とした。
──いける。
根拠もないのに、そう思えた。
「美琴、大丈夫?」
首を伸ばした菊乃が尋ねた。ピアノの用意を終えた美琴は「大丈夫」と返してきた。ピアノには予め調律が施されており、音合わせは必要ない。
それを確認した菊乃は、すぐさま里緒を顧みて準備完了の合図を出した。
「じゃあ……。いきます」
里緒はうなずき、クラリネットを胸の前に掲げた。心地のよい緊張感が全身を駆け巡って、十分に熱をもった左右の肺が静かに息を送り出した。
八分間、川の流れるように演奏は進んでいった。
あれだけ直前に不安を訴えていた割に、舞香のフルートは菊乃と比べても遜色のない具合に仕上がっていた。佐和のヴァイオリンは数年のブランクを乗り越え、同じ第二パートの小萌のリードを受けながら丹念な調べを紡いでいた。美琴のピアノは見事としか言いようがなく、もはやそこには腱鞘炎で練習から遠ざかっていた頃の面影はない。今度の演奏は、部内の誰にとっても総決算なのだろう。向かい合って吹奏していると、里緒の胸にはその事実がしみじみと響いた。
仲間たちの姿を見ていられるのは今だけ。本番中、独奏者は客席を向いていなければならない。
ちょっぴり切なくて、心の痛む八分間だったように思う。
「──うん。万全だと思う」
全編を聴き終えた京士郎はコンクール組を見渡して、今日の調子をそう評した。
安堵の息がこぼれた。数分間も立ちっぱなしでいるのは、見かけよりも身体に堪える。里緒がその場にしゃがみ込もうとすると、気を利かせた紅良が椅子を持ってきてくれた。
「僕から言うべきことは何もない」
並ぶ部員のひとりひとりを見つめ、確かめ、京士郎はうなずいた。誇らしげな顔つきが一瞬、どこか寂しげに映えた。
「これだけの演奏を聴かせてやれば、きっと審査員の連中を十分に怯ませられるだろう。君たちは頑張ってきた。僕の保証じゃ心許ないかもしれないが、どうか今だけは信じてくれ」
「今さら何言ってんですか!」
「芸文大の先生も信じられなかったら滝川なんか宛てにできませんよ」
茶々をいれた智秋と郁斗に「ちょっと!」と菊乃が肩を怒らせ、楽器を抱えた仲間たちの顔を笑いで解した。もちろん、二人が本気で言っていないことは菊乃も織り込み済みのはずだ。本気なのは京士郎の言葉だけで、彼の言葉を誰も疑ってはいない。
微笑で返した京士郎は、隣に立っていた矢巾の顔に視線を振り向ける。セレモニースーツにワンピースを重ねて佇んでいた矢巾の表情は、心なしか、いつになく固い色に沈んでいた。
「先生?」
直央が尋ねると、矢巾は空気のかたまりを喉に落とし込んでから、一歩ばかり進み出た。
「……正直なことを言わせてもらってもいい?」
好きにコメントしてもらう時間なのだから、いいも悪いもない。曖昧に部員たちがうなずいたのを見るや、矢巾は胸に手を当てた。
「私ね、こんなに緊張してるのは久しぶりなの」
矢巾の口からそんな言葉が出るとは思わなかった。椅子の固い感触に顔をしかめながら、里緒は二、三度とまばたきを打った。
「みんなも知っての通り、本来の私は芸文附属の吹奏楽部の第二顧問をしてる。あっちの部には三人も顧問がいるし、そもそも部員のレベルが桁違いなのよね。だから今まで、コンクールに出るくらいでそれほど緊張することはなかったのよ。……だからって勘違いしないでね。別にあなたたちを貶めたいわけじゃない」
深呼吸を丁寧に繰り返した矢巾は、面を和らげ、まっすぐの視線で部員たちを見回した。
「あなたたちは今回このコンクールに、演奏レベルの意味でも出場経験の意味でも、完全にチャレンジャーとして挑もうとしている。だからね、不安が大きいのは当たり前なの。だけど不安の大きさに比例して、奇跡が起きることへの期待も大きくなる。……だって確実に成功するなら“奇跡”なんて起こらないし、要らないでしょう?」
「…………」
「だからね、これはきっと前向きな緊張なの。あなたたち十五人なら奇跡を起こせるんじゃないか、ものすごい演奏を披露してみせるんじゃないかって思うと、さっきから怖いくらい緊張が昂って仕方ないのよ。……情けない外部指導でごめんなさいね」
誰も笑わない。真剣そのものの眼差しで、三十三人の生徒は矢巾の言葉を見守っている。その顔付きはいくらか険しかったが、それらはみな一様に、硬さの滲む矢巾のスピーチに真摯に向き合っていた。
ちりちりと火照る肌に耐えながら、里緒は懸命に矢巾の姿を見つめた。
矢巾は今、見かけ以上に途方もない質量の期待を、里緒たち十五人に注ごうとしてくれている。
「頑張ってきなさい。出せる限りの音を放って、客席いっぱいのお客さんに届けてあげて。今のあなたたちにはそれができるはずよ」
きっぱりと締めを言い切った矢巾は、それだけで精根を使い果たしたかのように身体の力を抜き、微笑んでくれた。何人かが釣られたように、「はい」と湿った返事を発した。
それから一瞬、沈黙が場を支配する。
次に誰がスピーチをするのか、順番を押し付けあっているような空気である。「部長」と声をかけたのは誰だっただろう。呼ばれたはじめは腕組みを崩すことなく、菊乃に目をやった。
「私はいいや。好きに話していいよ、滝川」
「ひとりでは生きられなかった私の過去と、私の弱さに、訣別するんだ」
▶▶▶次回 『C.177 揺るぎない決意【Ⅱ】』