C.175 開会までの間
コンクールの日程はやや遅れながらも順調に推移していた。十四時一分、予定より七分遅れて小学校の部が終了し、生徒や大会役員の退出した舞台には一時の休息がもたらされた。
──『高等学校の部は十四時十六分より開始いたします』
館内放送の声は落ち着き払っていて、保護者や生徒たちの喧騒で賑わう廊下の景色にはちっとも釣り合わない。拓斗の手を取り、はぐれないように引っ張りながら、紬はホールの入り口を覗き込んだ。
「うわ……」
思わず、声が漏れた。
せり立つ壁に支えられた巨大なホールが視界を埋めつくした。二五〇〇人収容の音楽堂ともなると、内部の空間はべらぼうに広い。にもかかわらず、無数に並ぶ座席の多くがすでに埋まっている。高齢者から父母くらいの世代、大学生から小学生に至るまで、幅広い年代の人が聴きに来ているようだ。
「こりゃすごいね。話題性の賜物かな」
可笑しげに独り言ちた雅が、あそこ空いてるね、といって中頃の席を指差した。よその人に取られないよう、急いで座席を目指して早歩きを心がける。忙しなく弾けた足音は柔らかに反響して、まるで新築されたばかりのホールの音響性能の高さを嬉しげに誇示するかのようだった。
里緒の立つ舞台からはそれなりに距離がある。
(私が聴きに来てること、あの子には知られないようにしなきゃいけないな)
霧のような願望を抱え、紬は席についた。客席に紬がいると知ったら、きっと里緒は冷静さを欠いてしまうだろう。寂しくとも、切なくとも、紬は里緒のためにお忍びを貫かねばならない。
「ねー、土手のお姉ちゃんはいつ出るの?」
拓斗が退屈げに尋ねた。パンフレットを広げて「四時間後くらい」と答えると、彼の顔はますます退屈げになった。
「寝たかったら寝ててもいいよ。お利口さんにしてようね」
拓斗の頭を優しく撫でつつ、機嫌を損ねないように説得を試みる。隣に腰を下ろした雅が「偉いよねぇ」としみじみ独り言ちた。
「私なんて息子のこと放り出して来ちゃったよ」
「うちの子、すごく里緒ちゃんになついてるので、きっと姿を見たがるだろうと思って」
拓斗を撫で回しながら紬は苦笑した。
里緒と最後に対面してから間もなく三ヶ月も経つというのに、“土手のお姉ちゃんの歌”を聴きにいくと話すや、拓斗は紬にしがみつき『ぼくも行く!』と上目遣いに訴えてきた。健気なものだと思う。
「それに雅さん、今回は取材も兼ねてるんでしょう。息子さん連れて来るどころじゃなかったんじゃないですか」
尋ね返すと、鼻唄でも奏でるかのように「そうよー」と雅は応答した。
時おり忘れがちになるが、彼女は本社文化芸能部所属の記者なのだ。今日も朝早くから一足先に来て、コンクール東京都大会の実行委員会に取材をしてきたところだという。気ままに後輩へ絡みながら生きているように見せかけて、その実、裏で仕事にも家庭にもしっかり精を出しているのが彼女の恐ろしいところだ。真似をするのは容易ではない。
(私もそのくらい器用に動けたらな……)
本人の前では断じて口にできない思いを、紬は奥歯で噛み砕いて飲み込んだ。
雅は手帳を取り出し、ご機嫌の様子で舞台を眺めている。早くも大人しくなりつつある拓斗の頭を撫で、頬に触れ、それから手元のタイムテーブルにじっと目を落としていると、さざめきのようなホール内の喧騒が身体に染み込んで、かつて吹奏楽少女だった紬の神経をうずうずと温め始めた。
里緒という少女と知り合って、五ヶ月。
思えば数奇な巡り合いだった。
もっとも数奇になったのは自分のせいでもある。紬が里緒の抱える過去に余計な介入を試みず、ごく普通の隣人として接し続けていたなら、里緒は単なる“近所の優しい女の子”のままで在り続けたはずだ。今となっては、どちらがよかったのか紬には分からないし、是非の区別のつけようもない。
ただ、もしも里緒が“近所の優しい女の子”に過ぎなかったとしても、紬はやっぱり里緒の背中を追いかけて、その姿と音を心に焼き付けようとしていただろうと思う。新聞記者や年上である前に、紬と里緒はどちらも吹奏楽や管弦楽の経験者。音楽に熱をあげる仲間であることに変わりはない。
だからこそ、紬は里緒を応援したい。
新聞記者としてでも、年上としてでもなく、ただ純粋な仲間として、里緒が精一杯の力を発揮できるように心から願っていたいのだ。
高等学校の部の開演まで、残り十分ばかり。
演奏を終えた学校の生徒たちがまとまって流入してきているので、ホールの喧騒はちっとも沈静化に向かわない。こういうのがコンクールよね──。懐かしい感慨に浸っていると、そっくりのタイミングで雅が口を開いた。
「なんかいいよね、この空気。コンサートとかとは熱気がぜんぜん違う」
「競技会ですもんね。よくも悪くも」
「そうそう。なんて言うかな、すごくオープンでドライな感じがする。順番に出てきて一曲演奏して、そしたらもう出番は終わりなわけでしょ。観客だって演奏のたびに勝手に出入りするし」
演奏する側にしても、聴く側にしても、他校の演奏に耳を傾ける義務は何もない。ただし耳を傾ける道を選べば、繰り返し登場する各校の演奏を嫌でも聴き比べることになるし、嫌でも一喜一憂させられる。そこには自由があり、強制がある。そして、よその学校の演奏を聴いたところで不安に苛まれるだけなのは分かっているのに、ついつい耳を傾けようとしたくなるのが人間の性だと紬は思う。
「半年間ひたむきに重ね続けてきた努力の花を、みんなここで思いっきり咲かせるんだね。私、基本的には芸術なんて競うもんじゃないと思うけど、競いたくなる気持ちも少しは分かる気がするよ」
雅は広げたパンフレットに両手を押し当て、「それに」といって苦笑した。
「豪華な審査員にも聴いてもらえるわけだしな」
世界的な指揮者の水沢灰司をはじめ、東京都大会には多くの著名音楽家が審査員として名を連ねている。彼らは二階に設けられた専用の席で演奏を聴き、評価を行っているようだ。振り返れば二階席の中央付近に、豆のような照明の灯った審査員席がいくらか伺える。
あの水沢灰司に聴いてもらえるとなれば、生徒たちの意欲が刺激されるのも無理はない。「モチベーションになりますよね」と笑い返した紬は、──不意に目を丸くした雅が勢いよく立ち上がるのを目の当たりにした。
「どうしたんですか」
「あれってさ……」
雅は丸まった目を細め、前方の客席を指差した。
「西成満じゃないかな」
指差す先には初老の男性の後頭部が見えた。名前だけを早口に告げられた紬は、その男が何者なのかをとっさに思い出せなかった。
「春くらいに話したでしょ、楽器コレクターよ。ほら、ストラドのヴィオラを個人で落札した人」
手早く説明を済ませた雅は、抜き足差し足、忍び寄るような格好で老人に向かっていく。言われてみればそんな話をされた気もする。置いていかれたくなくて、紬は寝ぼけ眼の拓斗の手を握った。
「んー……?」
「ごめんね、ちょっとあっちに行こっか」
控えめな言葉でなだめすかして、雅のもとに連れてゆく。雅は早くも男性に取材を挑んでいた。
「……よく気付きましたね。その通りですよ」
男性は苦笑いを浮かべていた。
雅の見立ては当たっていたらしい。ということは、彼は高額の楽器を買い集める裕福な資産家なのか。存外平凡な男性に見えることに失望しつつ、出会い頭の人物に失望する自らの非礼を叱責しながら、紬は二人のやり取りを後ろから見守った。
「午前中からいらしていたんですか?」
「いや、さっき来ました。高校の部だけ聴きに来ようかと思ってね」
「というと、目当ての学校がおありなんですね」
「ええ。一応ですがね」
「差し支えなければ教えていただけませんか」
困ったように西成は口角を上げた。
高名な楽器コレクターが期待をかけているというのだから、何やら尋常ならざる出場校があるに違いない。おそらく雅はそんな予想を立てたのだろう。
果たして、いささか迷うそぶりを見せた末、西成はパンフレットの出場順学校名一覧ページを開き、その最下段を指で示した。
(うそ)
覗き込んだ紬は声をあげそうになった。
西成の目当ては、あの弦国だというのである。
「弦巻学園の管弦楽部、今年の甲子園予選では“仮面楽団”として話題を呼んでいましたね」
興味深げな声を発したのは雅も同じだった。「ええ」と柔和に応じた西成は、座席に深く掛け直して、前方の舞台をまっすぐに見つめた。
無人の舞台には座席と譜面台が整然と並び、出場者の登壇を待っている。粛々と染み渡る厳かな雰囲気の中に、ひそめられた西成の声が重なった。
「ただね、仮面応援団がどうとかこうとか、そういうのが関心の由来ではないんです。弦国は面白いものを見せてくれると思ったものですから」
「……と言いますと?」
「演奏曲、モーツァルトでしょう。晩年の傑作として名高い、〈クラリネット協奏曲〉の第二楽章だ」
ええ、と雅が応じる。その反応を楽しむように、西成はゆっくりと目を閉じた。
「もしかすると我々は、二百年前にモーツァルトが思い描いたままの世界に、この耳でじかに触れることになるのかもしれませんよ」
あまりにも意味深長な台詞に、雅も、紬も、どう言葉を返せば正解になるのかが分からなかった。
「出せる限りの音を放って、客席いっぱいのお客さんに届けてあげて。今のあなたたちにはそれができるはずよ」
▶▶▶次回 『C.176 揺るぎない決意【Ⅰ】』