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クラリオンの息吹  作者: 蒼原悠
第五楽章 奏でよ、悠久のレクイエム
184/231

C.173 会場へ

 




 午前十時。

 弦巻学園国分寺高校の音楽室には、揃いのブレザーを着た三十三人の生徒が集合した。

 引退中の三年生も含めた管弦楽部の全部員に加え、付き添いで駆け付けた部外の一年生が三人。そして部の顧問と外部指導コーチ、各一名。この三十五人で、弦国管弦楽部はいよいよ『全国学校合奏コンクール東京都大会』に乗り込むこととなる。


「大型楽器の搬出はいつも通り、楽器運搬係リーダーの芽室の指示に従ってね。今回は一応チェロとファゴットだけのつもりだけど、大きくて邪魔だから電車に楽器を持ち込みたくないって人は後で声をかけてください。個別に対応するから」


 半円形に集まった部員たちを順に見回しつつ、はじめは手元の紙を読み上げる。薄く張り詰めた空気の鋭さを肌に感じながら、里緒は彼女の挙動を見守った。喉の渇きさえも忘却する鋭さだった。


「それと、輸送には春日のご両親が協力してくださいます。見かけたらきちんとお礼を言うように」

「えへへー。照れちゃうなぁ」


 名前を挙げられた恵がくねくねと身悶えしている。聞けば、春日家は裕福な家庭で、チェロも余裕で積み込める大型の乗用車を所有しているのだという。「春日さんにお礼を言うわけじゃないよ」などと洸が苦言して、周囲の笑いを(なご)やかに誘った。


「あと……、あれはもう説明していいんだっけ」


 紙から視線を剥がしたはじめは、真綾や花音に声を投げかけた。

「あれ?」と尋ね返したのは緋菜だったか。その背後で、何かをひらめいたように駆け出した花音たちコンクール不参加組は、たちまち音楽室の奥に潜り込み、すぐに大きな紙袋を持って引き返してきた。


「これですよね!」

「ばたばたする前に見せちゃいましょうよっ」


 何のことだか分からない。緋菜や舞香と顔を見合わせていると、花音は紙袋の中身を手早く漁って、探り当てたものを取り出した。


「はい、これ。里緒ちゃんの!」


 差し出されたのは、いつか野球の応援演奏の時に着用していた青色のドミノマスクである。


「ど、どうしたの突然」

「裏返してみて。安全ピンついてるから」


 言われるがまま裏返すと、そこには確かにクリップ付きの安全ピンが装着されていた。里緒にはまだ花音の意図が読めない。(いぶか)りながら眺め回していると、胸を張った真綾がずいと前に出てきた。


「コンクール組の全員分、私たち不参加組でドミノマスクに安全ピンをつけておきました」

「本番中、これを左胸につけててください!」


 さらに花音が続ける。

 コンクール組が一斉に「えー!」と困惑の声を上げたのは言うまでもない。嫌だ、こんなの着けて目立ちたくない──。身体中の血液が沸騰するのを覚えながら里緒は立ち尽くしたが、当のはじめは「いいじゃない」と笑みを崩そうとしない。


「せっかく応援演奏を通じて仮面が私たちのトレードマークになったんだから。このくらいの茶目っ気、発揮したって別に怒られりゃしないでしょ」

「それもそうかもですね」


 率先してオレンジ色のマスクを受け取った菊乃が、「お」と嬉しそうに笑う。


「なんか思ったよりダサくないや」

「ダサかったら提案しないですよーっ」


 花音も真綾も揃って唇を尖らせる。「拗ねないでよ」と菊乃がなだめにかかり、釣られるようにコンクール組の間には笑顔が広がった。

 思いきって、左胸に当ててみる。

 心臓の刻むリズムが(じか)に伝わって、マスクが呼吸をしているかのような錯覚を生む。分身のできた心持ちがして、里緒にはちょっぴりこそばゆかった。

 幸い、里緒のマスクの色は青。

 激しく目立つこともない。


(悪くないかも)


 受け入れる心のゆとりが生まれたら、内心を読んだかのようなタイミングで「いいでしょ!」と花音が白い歯を見せた。

 うなずいた里緒の髪にも、花音の髪にも、やり取りを遠くで見守る紅良の髪にも、いつか『ひららもーる』で買った銀色の髪留めがきらめきを放っている。普段と違う自分が完成されていくのが手に取るように分かって、少し、夢見心地がした。


「はいはい、試着は後で。それの着用も本番前に済ませるからね」


 はじめが手を叩いた。全員が向き直ったのを確認すると、はじめは菊乃を一瞥して、コンクール組リーダーの万全な調子を確認した。


「不参加組の子とファゴット、チェロ、それから春日は大型楽器の搬出を手伝って。コンクール組は自分の楽器を忘れないようにね。付き添いの三人と三年生は、私と一緒に音楽室と準備室の忘れ物チェックをしてくれないかな。須磨先生と矢巾先生は、搬出作業で事故が起こらないように要所を見守ってやってください。──さ、移動するよ!」

「はい!」


 部員たちは一斉に声を張り上げた。

 瞬間的に高まった緊迫が、天井に弾けて降り注ぐ。里緒はクラリネットのケースを握りしめた。

 いつもと同じ重みのクラリネットが、箱の中でからんと鳴って健在を教えてくれた。






 立川駅の北口一帯は、かつて敗戦にともない米軍に接収され、基地としての使用が長らく続いてきた場所だった。返還されて再開発の進んだ今も、更地のまま残されている場所がいくつも見当たる。

 立川駅北口から徒歩八分。多摩都市モノレールに沿って縦長に広がる総面積四万平方メートルの敷地も、そんな未開発の遊休地のひとつだった。開発計画がまとめられて着工したのはわずか数年前である。『立川フェアリー・スプリングス』と命名されたこの再開発地区には、ホテルやオフィス、商業施設など九棟のビルが雨後の(たけのこ)のごとく建ち並び、近未来都市のような風景が新たに構築された。

 その中核を占めるのが、多摩地区初の民間大型音楽ホールとして建設された『TACHIKAWA FAIRY(フェアリー) HALL(ホール)』である。二五〇〇人もの観客を収容可能で、規模・設備ともに多摩地区トップクラスの品質を誇る音楽専用のホールだ。グレーの箱形をした建物は敷地の北の端に威風堂々とそびえ、圧倒的な存在感を遺憾なく周囲に振りまいている。

 このフェアリーホールが、今度の『全国学校合奏コンクール』の開催地だった。

 電車に乗って立川に到着した弦国管弦楽部は、ぞろぞろと楽器のケースを抱えてホールを目指した。

 途中、『立川音楽まつり』に出演した時の会場だったサンサンロードに差し掛かって、里緒は息がほんの少し上がったのを覚えた。今度のコンクールはリベンジマッチでもある。『立川音楽まつり』の時の屈辱を繰り返すような真似だけは、何があっても防ぎたい。防がなければならない。


「……高松さん?」


 いささか不安げに紅良が声をかけてきた。里緒はケースの取っ手を握り直して、うなずいた。


「大丈夫」


 ひどく強張った声だったが、昨日と違って肩の痛みはなかった。ほっと紅良が吐息を漏らしたのが聞こえた。

 左手に『立川フェアリー・スプリングス』のビル群を、対岸に『ゆめのき病院』の建物を望みながらサンサンロードを進むと、やがて右手に目的地のホールが見えた。周囲の路上やベンチには制服姿の学生があふれ返っている。並ぶ部員たちが軒並み息を呑むのが、なぜか音もないのに感じられた。

 見渡す限り、同じように楽器を抱えた小学生や高校生ばかり。

 これがコンクールの会場の風景なのだ。


「あんまり広がらないようにねー」


 前を歩く菊乃の掛け声に、はい、と舞香が喉を潰したような応答を返していた。昨日とはうって変わって、自分以外の子もことごとく緊張に身を包んでいる。自分は仲間外れではない。なけなしの安心で里緒の胸は温まった。

 受付の場所や時間を確かめながら、先頭に立った菊乃と洸が三十五人の隊列を導く。左手にケースの取っ手を握り、二人の姿を夢中で追いかける。

 ──すると。


「うわわ!」


 不意に花音が叫んだ。


「なんでここにいるの清音(きよね)ちゃん!?」


 ホール入口の扉のあたりに立っていた少女が、声をかけられた途端、まったく瓜二つの表情で花音を見つめ返した。里緒の知らない子だった。


「う、うちの吹部、ここのコンクールの補助役員に駆り出されてて……」


 清音と呼ばれた少女は、やや遅れて喜色を顔いっぱいに塗りたくると、勇んで花音のもとへ駆けてきた。


「うそっ! 花音ちゃんたち出るんだ!? わたしぜんぜん知らなかった!」


 言われてみると、確かに彼女の左腕には【会場】と書かれた腕章がはまっている。音楽に限らず、コンクールや大会の運営には基本的に人手が要るので、人海戦術のために開催地周辺の部員が補助役員として招集されることは珍しくないのだった。

 そっと隣に寄り添った紅良が、耳打ちした。


「花音の昔の知り合いだと思う。確か、都立立国に通ってる一歳下の中三の子」


 なるほど、それなら合点がゆく。はしゃぐ清音と応じる花音を遠目に見ながら、里緒は頭の中で結び付いた言葉を何気なく口にした。


「昔ってことは……施設にいた頃の知り合いかな」


 途端、紅良が目を丸くした。


「高松さん施設のこと知ってるの?」

「あっ、えと、うん……一応……」


 言い淀みながら里緒は臍を噛んだ。しまった、迂闊に口にすべき話題ではなかったか。

 けれども今の返事からして、紅良も施設のことを知っているようだった。聞くと、紅良は花音自身に話をされたという。両親に教えてもらったことを白状すると、「だと思った」と紅良は目を伏せた。


「花音が自発的に高松さんに説明するとは思えないもの」

「確かに……」

「コンクールが終わって気持ちの整理がついたら、いずれ話してくれるんじゃないかな。あの子だって別に、高松さんに隠し立てしたいと思ってるわけじゃないだろうし」

「そうなのかな」

「私の保証じゃ足りない?」


 とんでもない。里緒はうつむきながら首を振った。花音は十分に里緒のことを信用してくれている。彼女に足りていないのは多分、一言目を切り出す勇気。その感覚は里緒にも痛いほど分かるのだ。

 真実を明かしても離れないでいてくれる──。里緒は、花音にそう信じてもらえる存在でい続けねばならない。それは里緒の友人としての責務でもあり、あるいは一縷の望みでもあった。

 話の終わった花音が駆け戻ってくるのが見えた。吐息をついて、前を向いて、人混みを掻き分ける菊乃たちの背中を追いかけた。管弦楽部の一員として行動していると、視線まみれのホールの中にいても怖くはならなかった。








「もっと自分と娘を軽率に褒めろ」


▶▶▶次回 『C.174 プレゼント』

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