C.172 誕生日の朝
ひとりぼっちで立っていた。
無限に暗黒の続く世界の片隅に。
どこからも光は当たらない。
耳を澄ませても、わずかな音さえ聴こえない。
ここは、どこ? ──無音の冷気に身を包まれ、戸惑いも隠せぬままに立ち続けていると、やがて暗闇の奥から顔が覗いた。その顔を明瞭に視認した瞬間、反動で詰まった息が一気に凍り付いた。
中学の同級生だった。
ひとつ、ふたつ、みっつ。浮かんだ顔は不敵に歪み、真っ赤な唇の紅を暗闇の世界に刻みつける。唖然とする姿を目の当たりにして、彼女らは一斉に口を開いた。
──『ねぇ、怖いんでしょ?』
──『昔を思い出すのは嫌でしょ?』
──『なら、やめちゃえば?』
答えられなかった。どうにか氷を融かして答えようと試みたが、代わりに声の乗らない浅い空気が喉を噴き上がり、嘔吐いてしまった。慌てて抑えた口元から濁った息が溢れ出し、立ち尽くす足首の周りにひたひたと溜まってゆくのが分かった。
恐怖で唇を閉ざしたから答えられなかったのではない。
答えるべき言葉を、薄っぺらい胸のなかに見つけることができなかったのだ。
──『他人に迷惑とか気遣いを強いてまで、独奏やる価値が自分にあるとでも思ってんの?』
──『今からでも間に合うよ。投げ出しなよ』
──『みんなに恥かかせたくないでしょ? その方が周りのためになるよ』
──『てか、前もそうやってプレッシャーに押し潰されて失敗したくせに、ちっとも学習しないね』
──『また嫌われるよ?』
──『もう嫌われてるよ』
四つ、五つ、六つ、七つ八つ九つ──。けらけらと愉快げにせせら笑う顔が、沸騰した湯の表面に弾ける泡の勢いで増えてゆく。悪辣な言葉に足がすくんだが、腰を下ろすことも、目をそらすこともできなくて、揺らぐ瞳の光を愚直に注ぐばかりだった。見開きすぎた瞳は限界まで水分が飛び、次第に強い痛みを発し始めた。
唇が引き裂かれんばかりの勢いで、何十の顔は口を横に広げた。
──『高松には無理だよ』
真っ赤な口腔の色が全身を飲み込んだ。
──『今度もまた失敗して、絶望と自己嫌悪のどん底に沈むんだ。そのまま一生、忘れないでいればいい。高松の中身は今も昔もこれからも、いつか野垂れ死ぬ日まで、真っ黒のまんまなんだってね!』
目尻に涙が膨らんだ。背後から膨れ上がったけたたましい笑い声が、ふたたび視界を墨の色で塗り潰してゆく。──もう、いい。もうやめて。何も聴きたくない──。あふれ出した涙を拭うこともできないまま泣き叫ぶと、不意に、耳元に人の存在を感じた。無我夢中で振り返ったら、首筋に息のかかるほどの距離で、聞き覚えのない声が響いた。
──『あなたの出産には苦労させられましたよ高松里緒さん』
呼吸が詰まった。いくら周囲を見回しても、網膜には何も映らない。けれども、際限の見えない闇の世界を、後ろから追い越してゆく人の感覚があった。彼らは通り過ぎざま、耳めがけて潜めた声を放ち、反論の隙も与えずに立ち去ってゆく。
──『どうしてこう協調性がないのかしらね? みんなが同じようにできてること、あなたばっかり怖がって取り組めないんだから』
──『ほんのちょっとしたことでピーピー泣きやがって。人に迷惑かけてる自覚を持ちなさい、恥知らずめ!』
──『ねー、なんで高松さんってこんな簡単なことする勇気もないの?』
──『親の顔が見てみたいわね、まったく!』
──『勉強も運動も苦手でコミュニケーションも不得意、ですか。それならいったい何ができるんです?』
どれもこれも耳に馴染みのある文句ではなかった。実際に聞かされた言葉ではないのだろう。しかしながらそれらの台詞はすべて、こんなことを言われていてもおかしくないと思い込むのに十分な説得力を伴っていた。
中学生として生きた地獄の中で、傷付ける言葉を発していたのはクラスメートだけではなかった。地域の大人も、先生も、あの頃は誰もが愉悦の表情で牙を剥いてきた。自分の預かり知らぬ場所で、こんな言葉で蔑まれ、存在意義を否定されていたとしても、何ひとつ不思議には思われなかった。
──ああ、分かっている。
自分のダメなところなんてみんな分かっている。
協調性もない、迷惑もかける、勇気もなければ自信もない。場を盛り上げる陽気さも、可愛がられる愛嬌もない。
けれども望んでこんな人間に育ったのではない。
普通に愛され、普通に養われて生きていたら、いつしか醜い家鴨の子に育ち上がってしまったのだ。いったい誰が好きこのんでこんな人格を選ぶのか。決して口には出さなかったが、大祐も、瑠璃も、里緒のような子どもをきっと望みはしなかった──。
──『だったら悪いのは自分自身じゃん』
刹那、囁く声が耳をつんざいた。
涙の残り滓が弾け、目が自然と見開かれた。
──『周りのせいじゃない。まして親のせいでもない。それなのに無駄な足掻きをして、掴めるはずのない幸せを掴もうとして、十六年をかけて多くのものを犠牲にしてきた。その自覚はあるの?』
もはや思うように息を接ぐこともできなかった。叫び声も上げられず、満足に身体も動かせない悪夢の中で、声の主は落ち着き払ったようにトーンを鎮め、囁いた。錆び付き綻んだ彼女のハスキーボイスは、自分の声にあまりにも酷似していた。
──『里緒が壊したものを見せてあげようか』
瞬間、鎖の引きちぎれるような音が砕けて、金縛りが解けた。
どこを見回そうとも声の主は見えない。けれどもその一瞬、確かに背後に人の存在を感じた。迷わずきびすを返して振り向いた。声の主ならば対峙したい。甘えられる相手ならば、すがり着いて泣きたい。胸を貫いていたのはその一心だった。
そして、その儚い願いは、背後にあった人影の輪郭を視認した途端、敢えなく崩れ落ちて砕けた。
そこにいたのは瑠璃だったのだ。
虚ろな笑みを浮かべた母は、眼前の娘の姿など視野にも入れず、遥か彼方の何かを茫然と見つめている。細い、痩せた手の先には、先端に輪を描いて結わえられた一本のロープが握られている。
その意味を理解するのに間は要らなかった。
「やめて」
すべてを悟った瞬間、呻き声が口をついた。声が震えた。これから目の前で何が起ころうとしているのか分かっていたはずなのに、視線を背けることも、首を傾けることもできなかった。
呼応するように瑠璃はうつむいた。前髪に隠れた双眸の下から、銀色の光がふたつ落ちて、どこまでも続く闇のなかに飲まれて消えた。
「やめて……」
声が届くのを祈って懸命に訴えた。だが、瑠璃はうつむいたまま、ついに自らの首へロープをかけた。いつの間にかロープは中空から垂れ下がっている。なおも「やめて」と夢中で訴えたが、かすれきった声は彼女のもとには少しも届かず、片っ端から足元の闇へと転げ落ちてゆく。
その段になってようやく、瑠璃は一度ばかり、こちらを見てくれた。
──『……ごめんね』
たぶん、そう口にしたのだと思う。
押し止める間もなかった。首を吊った瑠璃は目を閉じ、前髪で顔を隠し、見えない足元の台を蹴り飛ばした。重力に従って深々と沈み込んだ身体は、次いでロープの張力に突き上げられ、体重のかかった首が音を跳ねながら不気味に折れ曲がった。肌は見る間に土気色に変じ、神経の制御を失った口がだらしなく開き、滴った唾液と涙は次々に無盡の闇を落ちていった。
「……やめて」
もう遅いと分かっていたのに、叫んでいた。
「やめて……やめて……やめてぇ……っ……!」
嫌というほど理解した。否、本当はもっと前から理解していた。生まれてきてはいけなかったこと、無数の人を不幸に追い込んだこと、分不相応な願いを抱いてはならないこと。痛いほど身に染みて理解したから、もう、やめて。もう誰かを痛めつけないで。もう私に現実を見せないで──。
泣き叫んだ喉は泡にまみれ、瞬間、沸き上がってきた爆風が身体を巻いた。
瑠璃の屍体は跡形もなく消し飛ばされ、足元の奥から白亜の光が炸裂して、視界を奪い、闇の世界を隅々まで純白の色で塗り固めてゆく。なすすべもなく嵐の猛威にいたぶられながら、それでもなお、泣き叫ぶのをやめられなかった。
布団から起き上がった瞬間、肺胞に溜まっていた息が一気に気管を押し上がった。
「はぁ……っ……」
夢から覚めた姿勢のまま、里緒は必死に息を送り出した。痛む背骨を曲げてうずくまり、陸に上がった魚の調子で息を繰り返した。あふれ返った涙が激しい吐き気を生んだが、口元に手を宛がって、嗚咽が漏れるのをどうにか我慢した。過呼吸の発作は辛うじて起こらなかったようだ。
それにつけても、とんでもない夢を見た。
(誕生日の朝だっていうのに……)
涙を拭い、霞む目をしばたくと、握り潰されるより酷な痛みが左胸を包んで高笑いした。あるいは誕生日だからこそ、これまでの十六年間の総集編のような夢を見たのだろうか。やるせない思いでしくしくと痛む胸を、里緒はそっと撫でて労った。
ともかく夢でよかった。
あれは現実ではない。
こうして目を覚まし、朝の冷気の中で息をしていることが、夢と現実を切り分ける明白な証だった。
「…………」
起こした上半身で寝室を見回した。一メートル近く離れた布団の中に、大祐の大きな背中がくるまっていた。柔らかく上下する肩の動きが、壁掛け時計の刻む秒針の動きに不思議とシンクロしていて、なんだかちょっぴり滑稽だった。可笑しかったのに少しも笑えず、代わりに熱を持った涙がもう一滴、つうと頬を伝って落ちた。
時刻は、午前五時過ぎ。
集合時間までは五時間もの猶予がある。
布団を剥いで起き上がると、里緒は隣の居間に踏み込んだ。カーテンに指をかけ、不用意な音を立てないように引いてみる。早朝の多摩川の景色が視界いっぱいに広がった。せっかくと思ってガラス戸も引き開け、スリッパを履いてベランダに出た。
チチチ、と鋭い声が響いた。びっくりして隣を見ると、ベランダの端から小鳥たちが大慌てで飛び立つのが目に入った。休んでいるところを思いがけず邪魔したらしい。
「ご、ごめんね」
口ごもりながら里緒は謝った。向かいの木に並んで止まった小鳥たちは、眉を傾けた里緒の姿を不思議そうに見上げて、チチ、と軽やかに歌った。“許す”の意のように思えたのは、さすがにちょっぴり虫のよすぎる解釈だったかもしれない。
午前五時。
今はまだ、生きとし生けるものの多くが、日中の活動に備えて眠っている。
モノレールの始発列車さえ走っていない。立日橋をわたってゆく車の台数もわずかで、草木の揺れる声も聴こえない。ただ、雄大な多摩川の奏でるせせらぎの音ばかりが、ベランダへ出てきた里緒を出迎えた朝の世界を淡々と支配している。
澄んだ空気が芳しい。息を吸って、吐いて、涙の霞んだ目尻を指でこすった里緒は、新鮮な香りで肺が満たされてゆくのを覚えながら、しばらくフェンスにもたれかかって大空を眺めた。本物の空は黒でも白でもなく、ただ、どこまでも透き通った心地よい蒼色を湛えて、ちっぽけな里緒の姿を優しい目で見下ろしていた。
里緒が生きた代わりに、娘の生存を願った瑠璃は命を落とした。
里緒が合格したことで、どこかの中学生が代わりに弦国への入学を逃し、悔し涙に暮れたはずだ。
里緒がいじめられたせいで、吹奏楽部の中には気まずい思いをしていた子がいたのかもしれない。
どの推論も的外れではないのだろう。
だが、痛ましい過去は誰にでもあるし、里緒にだって山のように抱えた痛みの負債がある。それでも涙を払って、痛みを飲み込んで、こうして十六年もの月日を生きてきた。その確かな積み重ねの結果として、今、里緒はここに立って息をしている。生き様を否定される筋合いなどないのだ。
支えてくれる人がいて、自分を自分と認識できる限り、里緒はもう、前を向くことを躊躇わない。過去を直視することを恐れない。
「……負けるもんか」
フェンスを握りしめた里緒は身を乗り出した。吹き抜けた一陣の風が耳元に渦を起こし、賛同の唸り声を耳介に刻みつけていった。
高松里緒、十六歳。
クラリネット越しに息吹を繋いできた半生の集大成を発揮するコンクールの舞台は、いよいよ、十数時間後もの間近に迫ろうとしていた。
「せっかく仮面が私たちのトレードマークになったんだから」
▶▶▶次回 『C.173 会場へ』