C.171 カウンターに転がす懸念
グラスに映える桜色のカクテルを掲げ、ゆらめく光を瞳に映しながら、矢巾は感慨深げに吐息をついた。
「明日ね。いよいよ」
「……ええ」
京士郎も真似をして、手元のワイングラスを指先に絡めた。たとえ半端に動作を真似たところで、矢巾のように大人な風情を醸せるわけではないと分かってはいるのだけれど、彼女の隣にいるとつい、張り合おうとする虚しい欲が膨らむ。中途半端に年を重ねたせいだろうか。
時刻は午後九時を回ろうとしている。明日のコンクールを前に京士郎の方から声をかけて、今、二人は国分寺駅前のバーに身を預けているところだった。特に目的があって声をかけたわけではなかったが、矢巾は快く時間を割き、やって来てくれた。
「明日、弦国にいったん集まるんでしょう。何時に集合なの?」
グラスを煽った矢巾が首を傾げる。「十時です」と京士郎は答えた。こうして手帳も見ずに即答できるようになったのも、管弦楽部にきちんと出入りする習慣を身につけたことの賜物である。
「出番、夕方でしょうに。ずいぶん早いのね」
「本人たちも落ち着かないみたいなんですよ。何せ、コンクール未経験の子も大勢いますから」
「そうね。ま、早く着いて他校の演奏を聴いてるだけでも、イメージトレーニングにはなるわけだし」
「そのあたりは僕もアドバイスしておきました」
「あら。気が利くようになったじゃない」
こそばゆい感覚が鼻の下に抜け、京士郎は唇のあたりを乱雑にこすった。それもこれも矢巾のおかげだ。今のように管弦楽部の部員たちと向き合い、対話をする習慣がなければ、そんな細やかな気遣いの発想など、きっと浮かびはしなかった。
この半年ほどを経て、矢巾と、それから他ならぬ管弦楽部の子らに、後ろ向きな自分を変えてもらった。それが京士郎の認識だった。
「……もう学生ではないというのに、先生には今度もたくさんお世話になってしまいましたよ」
傾けたワイングラスをテーブルに置き、水滴のような言葉を落とすと、矢巾の口角はじわりと持ち上がった。
「コンクール参加の件も、高松くんの一件も、先生がいなかったらどうなっていたか分からない。まだまだ学ぶことだらけです」
「当たり前でしょう。たかが教師生活数年の教え子に、そう易々と追い抜かれてたまるもんですか」
冗談めかした口調で矢巾は笑う。
「……おっしゃる通りだと思います」
「ふふ。当分は私に頭が上がらないと思っておくといいわ」
薄暗いバーの片隅にいると、照明の燃やす煌めきが思うように届かない。笑った矢巾の横顔には、太陽の下にいると見当たらない彫りが何本も走っていた。京士郎の頬にはないものだった。矢巾の貫禄は一朝一夕で身につけられる代物ではないのだ。彫の深いしわは、その揺るぎない証にも感じられた。
空になったグラスをカウンターに置いて、矢巾がマスターを呼ぶ。注文の声に耳を傾けながら、黙ってグラスの縁を唇へ宛がい、京士郎は宝石のような色の液体を口のなかに流し込んだ。──果たして矢巾はこのまま、いつまで頭の上がらない存在でいてくれるのだろう。弟子の身分を謳歌できるうちに、もっと多くのことを学びたい。盗みたい。そんな誓いが新たになった。
注文を終えた矢巾が席に腰を下ろす。
下ろしながら、つぶやいた。
「私が弦国の子たちを見させてもらうようになって、もう三ヶ月以上は経つかしらね」
「……そうですね。そのくらい経ちます」
「私、いつも分からなくなるのよ。あのくらいの年代の子にとって、三ヶ月ってどれほど長いものだったかしらね。私にはかなり短く感じられたけど」
体感時間は年を取るごとに短くなってゆくと言われる。「長いんじゃないですか」と答えてみたら、矢巾は小さく、何度も、うなずいた。
「そうなんでしょうね。……長かったからこそ、あんなに変われたのよね」
「変わりましたか。うちの子たちは」
「すごく変わったわよ。特に、演奏に向き合う時の目付きが、むかしとは比べ物にならないほど変わった。義務感から練習している感じじゃなくて、今は練習に目的意識をきちんと持ってくれてる。『本番を楽しむために今は練習するんだ』っていうメリハリがつけられるようになったのかしら」
彼女の指摘は京士郎自身の感じるところと重なっていた。成果という概念の存在しない野球部の応援演奏への従事経験を経て、いまの管弦楽部の生徒たちは“音を楽しむ”音楽の本質を素直に見つめるようになっている。疲れていても、努力の道が分からなくなっても、彼らはその基本に必ず立ち返れるようになった。
ひとたび、紡ぐ音の先に成果や報酬を追求するようになったら、音楽家はおしまいだ。音楽の本質は視界から失われ、長い苦痛が彼らを締め付ける。
「そのあたりの話は明日にでも、本人たちの前でゆっくりしてあげようかしらね」
「そうしてあげてください。きっと喜ぶでしょう」
そうね、と矢巾は口元を綻ばせた。明日は丸一日の休みを取って、コンクールに挑む管弦楽部に寄り添ってくれるという。
京士郎も真似をして笑窪を彫ってみた。
真似をしたその一瞬、矢巾の表情がひどく浮かないものに見えた。すぐに気のせいを疑ったが、二度、三度と見返してもやはり、そこには憂いの残る横顔が浮かんでいた。
「……やれるだけのことは、してあげられたと思ってるの」
マスターの差し出したグラスを受け取り、矢巾はつぶやいた。やけに念を押したがる言い方だった。
「私は音楽教師だし、あの子たちにも外部コーチとして招聘された。少なくとも管弦楽部の活動する範囲では、あの子たちの成長を促してあげられたと思う。私自身もちょっと、ほっとしているところ」
「思い残していることでもあるんですか」
「須磨くんはどうなの?」
問いかけるつもりが問い直された。しどろもどろになりつつ、京士郎は管弦楽部の生徒たちの顔を順に照会して、引っ掛かりの有無を確かめた。
──いないと言えば、嘘になる。
「たぶん今、私も同じ子のことを思い浮かべてると思うのよね」
矢巾はグラスから指を離した。
「里緒ちゃん」
京士郎の見立てとも一致していた。姿勢をただして理由を問うと、矢巾の顔からは布巾をかけられるようにして笑みが拭い去られた。
「正直ね、あの子だけが不安要素のままなのよ。本人はすごく一生懸命だし、技量も抜群だし、普通だったら独奏なんか余裕で務まっちゃうくらいの能力がある。奏者としてはもう完成されてるわ。だけど、それを台無しにして余りあるくらい、あの子の心は脆くて危ないままに見えるのよね」
「あれでも高松くんも、ずいぶんしっかりしてきたとは思いますが……」
「あの子が独奏者としてしっかり生きていられているのって、きっと周囲の人間関係とか過去の経験に色んな形の圧迫を受けてるからだと思うのよ。よく言えば依存、悪く言えば……支配されてる」
「……それは、確かに」
思い当たった拍子に京士郎は呻いた。
里緒の隣には今、青柳花音をはじめとした部の仲間たちが絶え間なく寄り添っている。家に帰れば父親がいるし、自分や矢巾のように“頼れる大人”もいる。けれども支えというのは諸刃の剣でもある。いつも隣に寄り添ってくれる彼女たちの存在は、里緒にとって重大なプレッシャーの根源でもあるはずだ。みんなのためにも失敗できない、失敗の経験は二度と繰り返せない──。里緒に努力を促しているのは、そうした本人の望まぬ強迫的な義務感かもしれないのである。
コンクールの成果をいたずらに追うのではなく、本番の舞台そのものを楽しんでこよう。
そんな意識改革を大半の部員たちが遂げる一方で、肝心かなめの里緒だけが変化についてゆけていない可能性がある。矢巾が指摘しているのはそのことだった。
「独奏の舞台では誰にも頼れないでしょう。あの子の視界から人がいなくなって、たった一人で舞台に立った時、何が起こるのか私にも予想がつかない。もしも里緒ちゃんの気持ちがいっぱいに追い詰められて、舞台の上で音を出せなくなっても、今度ばかりは誰も手を貸してあげられない」
矢巾は難しい顔のまま、グラスの縁をゆっくりと指でなぞった。
「里緒ちゃんの過去も、弱さも、私たち部外者にはどうもしてあげられないものだと思うの。最終的にはあの子自身が自力で立って、つらい記憶を振り切って、自力で自分を支えられるように変わっていくしかないと思うのよね。大切な誰かのためじゃなく、大切な自分自身のために、舞台に躍り出てほしい。こうして外野から信じることしかできないのが歯がゆいけれど……」
歯切れの悪い言葉選びに、矢巾の抱える煩悶の色濃さがありありと浮かんでいた。
とっさに返答の候補が脳裏をよぎらず、京士郎は黙ったまま、グラスの中身を一気に飲み干した。空になったグラスの表面を結露の雫が転がり落ちてゆく。ひたむきに楽器を握る里緒の額に滲んでいた汗の粒が、その艶やかな煌めきに重なって見えた。
明日の演奏が成功裏に幕を閉じるか否かは、言うまでもなく独奏者の里緒の活躍に大きくかかっている。周囲の期待も含めれば、背負う荷の重みは生半可なものではあるまい。それを誰よりも深く自覚しているのは、おそらく里緒本人のはずだった。
これまでだって、そうだったのだから。
練習中も、応援演奏に打ち込む間も、京士郎が見に行かなかった『立川音楽まつり』の最中も。
独奏者のみならず、誰か一人でもパートが欠ければ本来の音楽は完成しない。老若男女を問わず、あまねく全ての音楽家はその真理をわきまえている。里緒の参加した演奏において、里緒の必要でなかった演奏など一度もなかった。『頑張ろうね』『期待してるよ』『やればできるよ』──。何かしらの舞台に出くわして、失敗や後悔に沈むたび、無邪気な重みの励ましや期待に彼女は何度も押しつぶされたのではないか。その積み重ねが強迫観念を生み、やがて里緒に失敗を恐れさせるに至った。
きっと京士郎の想像の及ばぬ遥か前から、里緒は周囲の期待や不満に必死に向き合って、苦しんで、涙を拭いながら日々を生きてきたのだ。……むろん里緒の過去を京士郎は深く知らない。ただ、いつ如何なる時も練習に手を抜かず、生真面目で一生懸命な里緒の姿に、そんな過去もあったのではないかと想像するのは難しいことではなかった。
そして同時に、こんな思いも弄ぶのだ。
過酷な日々を生き抜く中で、高松里緒は今、確かに変わりつつあるのではないか──と。
「……高松くんは」
何気なく口をついた言葉を、京士郎はそのまま外に放り出した。矢巾が顔を上げた。
「この二ヶ月、高松くんが闘っていたのは、独奏がどうとかいう音楽面の問題だけではなかったと思うんです。……先生はご存知だったと思いますが、六月末から七月の上旬にかけて、あの子は一時的に不登校にまでなっていたでしょう」
「そうだったわね」
矢巾が静かに応じた。いじめの件を含め、里緒の事情を矢巾は一通り把握している。
結果的に、クラスメートの献身的な支えを受け、里緒は部や学校へ戻ってきた。しかし本人の選択次第では、二度と戻らずに退部や退学を選ぶ可能性だって残されていたはずである。不登校に陥った暗い過去と、微妙な関係に陥った部の仲間たちに抱く後ろ向きな感情を、あのとき里緒はわずかながらも振り払ってみせたのではないか。少しずつ時間をかけ、里緒なりのやり方を探しながら──。
「確かに、周囲のかける期待をエネルギーに換えることで、高松くんが自分を支えているのは事実だと思います。でも、そんなに一筋縄で片付けられることではないようにも思うんです。期待に応えようとする気持ちも、切迫感も、他ならぬ高松くん本人の願いから生まれる信念なんですから」
持ち上げた空のグラスを、京士郎はカウンターに乗せた。乗せながら、噛みしめるように、言い聞かせるように、付け加えた。
「高松くんは信じるに値する子だと思います」
音を取り戻し、楽器を取り戻し、かけがえのない仲間を取り戻した里緒は、自らの意思で管弦楽部に復帰を果たし、コンクールの独奏パートを引き受けた。たとえ彼女が重すぎる期待に溺れかけて喘いでも、そこにあるのは負の意味を持つ重みではない。里緒は里緒自身の願いを叶えるため、祈りを届けるために、明日に迫ったコンクールの舞台を迎えようとしているのかもしれない。
──それはもはや希望的観測ですらなく、単なる京士郎の個人的な願望混じりの空想の押し付けに過ぎなかった。
それでも矢巾は、わずかな熟考を挟んで、うなずいてくれた。
「……それがいいわ。里緒ちゃんのためにも」
矢巾のお墨付きにはまだまだ大きな値打ちを感じる。ほっとこぼした吐息が空のグラスに消えた。目線の高さまでグラスを持ち上げ、そこに映る頼りない自分の顔を見つめていると、わずかに角の残っていた半透明の氷がグラスの内側で音を鳴らした。
「あなたが壊してしまったものを見せてあげようか」
▶▶▶次回 『C.172 誕生日の朝』