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クラリオンの息吹  作者: 蒼原悠
第五楽章 奏でよ、悠久のレクイエム
181/231

C.170 十五人の舞台【Ⅱ】

 




 ね、と菊乃は口を開いた。


「高松ちゃん、コンクールは初めてだったっけ」

「えと、はい、初めてです。中学の時にいた吹部は吹コンに出なかったので」

「うん。そうだったよね」


 二、三度と(こうべ)を垂れた菊乃はかかとを引き、里緒と美琴の間にすっぽりと収まった。清涼剤の入り交じった甘い汗の匂いがして、里緒の身体は得も言われぬむず痒さを覚えた。


「コンクール、怖い?」


 菊乃の重ねた問いかけが、落ち着かない里緒の胸に深々と突き刺さる。

 怖いのか、怖くないのかと問われると、里緒には何とも答えようがない。真一文字に結んだ唇をなかなかほどけずにいると、菊乃は続けた。


「あたしはね、怖かったよ」


 予想外の言葉に、里緒は菊乃を振り仰いだ。


「中学の吹部で初めてコンクールに出場した時は本当に怖かった。だってさ、あたし一人の失敗で、曲ぜんぶ台無しにしちゃうかもしれないわけじゃん。仲間に申し訳ないし、聴いてくれてるお客さんに申し訳ないし、何より……失敗して演奏の評価下げて、それで次の大会に進めなくなったりするのが怖かった。みんなに責められたくなかった」

「…………」

「でもね。舞台に立って、スポットライトの下で深呼吸してみたら、ちょっと感じ方が変わったんだ」


 里緒は菊乃の横顔を見つめた。時おり行き過ぎる車やバイクのヘッドライトが、先輩の顔の輪郭を金色に縁取って照らし出す。彼方の星に視線を凝らすように、菊乃は目を細めた。


「なんか、失敗のリスクを抱えてるのは誰だって同じなのに、自分だけが怖がって、怯えて、苦しい思いしてるような気がしてさ。そんなの不公平だし(みじ)めなだけじゃん。だからあたし、コンクールの舞台を思いっきり楽しむようにした。お化け屋敷に入るような感覚を捨てて、ジェットコースターに乗るような気分を決め込んだんだよね」


 臆病な里緒にはどちらも苦手な代物である。だが、その喩えに菊乃が込めようとした真意のカケラを、里緒は確かに見つけていた。

 ただ怖いだけの道を選ぶか、怖さと興奮の両立する一世一代の舞台を楽しもうとするか。その二つを天秤にかけて、菊乃は後者を取ったのだろう。


「ね、高松ちゃん」


 落ち着き払った声のまま、歌うように菊乃は続けた。


「あたしは高松ちゃんにも、コンクールの舞台を楽しんでほしいなって思うよ。もちろんコンクールだけじゃない。演奏会(コンサート)も、学校行事も、他校にお呼ばれして演奏する機会も、みんな楽しんでほしい。あたしたちの感じてる楽しさを知ってほしいの」

「私に……ですか?」

「うん。私の天才的な演奏を聴かせてやるぞ! ってくらいの気持ちでいてほしいかなって」


 里緒を一瞥した菊乃は、わざとらしく胸を張ってみせてから、少し、視線を落とした。


「高松ちゃんは真面目な子だからさ。立川音楽まつりでも、甲子園の応援でも、空回りしちゃうほど頑張ってくれてると思うんだ。それはもちろんとってもいいこと。でも、あたしには時々、高松ちゃんが“音を楽しむ”っていう音楽の基本を忘れてるように見える。だから余計に思うのかな。もっと楽しんでほしい、気楽にいてほしいって」


 いつか矢巾の捧げてくれた激励が脳裏をよぎった。そう、音楽の本質とは“音を楽しむ”もの。口で言うのは簡単だし、実践だってそれほど難しくはないのだ。こんな里緒でさえ、甲子園を通じて演奏する楽しさを実感した経験はある。


 ──それでもなお、うなずけない。


 肩を縮めて里緒は(うめ)いた。


「でも、私、独奏(ソロ)なんですよ」


 独奏者(ソリスト)はいつだってひとりぼっちだ。失敗の責任も、リスクも、みんな一人で背負わなければならない。おまけに協奏曲では、その責任とリスクは普通の奏者より何倍も重くなる。ただでさえ怖がりで、人目を気にする性分のうえに、実際に失敗した前科さえも里緒は持ち合わせている。


「私、昔の失敗の記憶からも上手く逃れられていないし、人前に立つことさえ苦手なままだし……。楽しむ資格がないだなんて言わないですけど、どうすれば楽しめるのか、どうすれば余裕を持てるのか、分からないです」


 里緒は小声で訴えた。つくづく情けない声色だと思った。菓子パンの袋を小さく折り畳んで、手のひらに包み込むと、ビニールの表面に(ぬく)もった手汗が貼り付いて、何とも言えず愉快ではなかった。


「……あんなにたくさん練習しても、実戦経験積んでも、まだ怖い?」


 うつむいた菊乃が尋ねてきた。


「あたしたちは高松ちゃんになら独奏(ソロ)を託せると思ってるよ。立川音楽まつりの小さなミスも、応援演奏で倒れたこともぜんぶ踏まえた上で、それでもやっぱり胸を張って『高松ちゃんならできる』って思ってる。……これでもまだ、ダメ?」


 いくら言葉を尽くして自信を付与されようとも、緊張の収まらない現実がすべてを否定する。うなずくと、「そっか」と言葉少なに菊乃は応じた。想定外の反駁に戸惑っているようだった。

 菊乃は前向きで、明るくて、誰の手も掴んで走ってゆけるリーダー向きの人間だ。自己肯定の欠落に喘いだ経験にも乏しいだろうし、きっと里緒とは心の持つ余裕の大きさが違いすぎる。

 里緒は、菊乃が思うほど芯のある人間ではない。


「…………」


 包装を握りしめたまま、里緒は唇を閉ざして立ち尽くした。菊乃が思案に暮れているのが察せられたが、だからといって里緒にできることは何もないのが実情だった。

 美琴も、菊乃も、言葉を発さない。

 嫌な沈黙が続いた。


(私には味方がいる)


 吹き抜けた秋風に乗って、隣に佇む先輩の温もりを感じながら、里緒は嘆息した。


(青柳さんや西元さんや……挙げ始めたらきりがないくらい味方がいる。そう分かってから、過去から目を()らすこともなくなった。きちんと向き合えるようになった。だけど、そのせいで背負うものの重さが増えて、かえって失敗が怖くなった気がする)


 たぶん、それが、この如何(いかん)ともしがたい強烈な緊張の原因なのだろう。

 押し黙っていると時間の流れる速度を痛感する。息を吸って、吐いて、足元に散らばるアスファルトの粒を数えていると、やおらに菊乃が口を開いた。


「……あたしね。高松ちゃんに惚れてた」

「なっ────」


 いきなり告白された里緒は肩を跳ね上げた。そんな、いったい急に何を言い出すつもりか──。抵抗も虚しく頬が赤らんだが、菊乃は里緒の動揺に気を払うことなく、結んだ唇をふたたび解き放つ。


「恋愛とかじゃないよ、ただ憧れだったんだ。入学してきた高松ちゃんが管弦楽部(うち)でクラ聴かせてくれた時から、ずっと。ああ、まだ高校一年生だってのに、こんなにものすごい腕の子がいるんだって思った。美琴だって十分すぎるほどすごい奏者なのに、その美琴が霞んで見えたほどだった」


 淡々と熱弁を(ふる)う菊乃の奥で、当の美琴が居心地悪そうに揺れ動く。「だからね」と続け、菊乃は里緒を見た。街明かりを映した菊乃の瞳は美しく、けれども覆いかぶさる睫毛(まつげ)の傾きは寂しげだった。


「この子がいれば何だってやれる。高松ちゃんを擁したあたしたちなら、どんな演奏でも繰り広げられるって思っちゃったんだ。……それで、つい、高松ちゃんを強引に独奏(ソロ)に据えた。何の相談も抜きに」


 以前、合宿の最終日に解消したはずのわだかまりの根源を、菊乃はふたたび持ち出そうとしている。慌てた里緒は「そんな」と身を乗り出したが、声量で上回る菊乃の声にたちまち遮られた。


「だけど事実はちょっと違ったんだね。高松ちゃんは私の惚れたような超人ではなくて、あたしたち普通の高校生奏者と本質的には同じだった。ただ単に、めちゃくちゃ上手いだけ。その腕前にしても、メンタルの調子が狂えば簡単に左右される。おまけに追い詰められると吹けなくなる」

「…………」

「それはね、あたしたちも同じなんだ。緊張したら下手になるし、怖がってたら吹けなくなる。あたしと高松ちゃんは何も変わらないんだよ。……心を病んだ高松ちゃんがクラを吹けなくなって、管弦楽部から姿を消した一週間、あたしたちはそのことを骨の髄から学ばされた。正直言って、学ぶのが遅すぎるくらいだった」


 単調に言葉を紡いでいるようでありながら、菊乃の横顔はひどく切ない。切なくて、けれども悲しげではなかった。複雑な感情の合間で落ち着きどころを探すように、菊乃は忙しなく目を(またた)かせた。


「今、あたしは高松ちゃんのこと、かつて憧れたような超人とは思ってない。あたしたちの遥か先に立って、ひとりで震えてる子。そんな風に感じてる」

「……ひとりで、震えてる」

「そう。舞台の真ん中にひとりで立つ、孤高で孤独な寂しがり屋さんの独奏者(ソリスト)だって」


 その言葉は、里緒の脳内へ無秩序に散らばっていたいくつもの単語や概念を、一瞬で体系に直して整理するほどの力を持っていた。

 思い返せば遥か以前、コンクールへの参戦を明かした紅良に『独奏(ソロ)は向いてるかもしれない』と評されたことがある。あの頃から今に至るまで、菊乃の指摘する通り、きっと里緒は徹底してひとりぼっちの独奏者(ソリスト)なのだ。独奏者(ソリスト)の立つ場所からは仲間は見えない。ただ、細い腕に楽器を抱え、観客の期待を集める寡黙な偶像であり続ける。

「忘れないでよね」と言って、菊乃は微笑んだ。上塗りされることのなかった切なさが、笑顔のさらに外側に浮かんでいた。


「高松ちゃんの後ろにはあたしたちが控えてる。ううん、控えてるだけじゃない。十四人の力を合わせた伴奏で、高松ちゃんの独奏(ソロ)を引っ張っていくよ。独奏(ソロ)を任せるのは高松ちゃんひとりだけど、失敗の責任やリスクまでひとりで背負わせたりはしない。あたしたちだってちゃんと背負ってるし、背負えるんだ。だからミスしたって心配しないでよ。何があってもそばにいて、多少のミスくらい余裕でカバーしてみせる」


 言うが早いか、菊乃は足元に置いたカバンから紙を引っ張り出し、里緒に向かって見せびらかした。


「これ、なーんだ」

「それっ……!」


 里緒は危うく叫びかけた。

 それはクラリネットパートの楽譜だったのだ。ただし、調性が(アー)調から(ツェー)調に書き換えられている。C調の楽譜を用いるのは実音楽器と呼ばれる楽器群で、その代表例は他ならぬ、フルートである。


「フルートとクラって高音はちょっと似てるじゃん? 最悪あたしがカバーできるようにって、こっそり楽譜だけ用意しておいたんだよね」


 その口ぶりからして、菊乃は実際には譜面を用意するだけでなく、カバーのための練習にも着手しているのだろう。確かに同じ木管だが、まったく音色の違う楽器だ。おろおろと視線を楽譜に走らせながら、里緒はその時、眼前の先輩が意思を込めて放った息吹を両耳に力強く感じ取った。

 フルートがクラリネットの独奏(ソロ)を完璧にカバーできるわけはない。

 それでも、ひとりにさせない覚悟だけは、紛れもない本物なのだ。


「クラリネットはひとりぼっちの楽器じゃないよ」


 いつか誰かの口にしたような台詞をさらりと述べた菊乃は、次の瞬間、やにわに手を伸ばして里緒を抱きしめた。本能で藻掻(もが)いた里緒の首元に唇を寄せ、コンクール組のリーダーは静かに囁いた。


「……一緒に楽しもうよ、本番」


 足の先まで真っ赤になるのを感じながら、里緒は菊乃の身体に(うず)もれた。

 初めて触れる、夏服越しの先輩の肌。菊乃の身体は芯から熱くて柔らかい。あれほど強張っていた身体が融け、(ほぐ)れ、否応なしに緊張が弛緩してゆく。先輩、ずるい──。唇を震わせながら恨んだ。

 こんなにされたら信じるしかなくなる。

 ちょうど正面には美琴の顔があった。呆れたように腕を組み、眉を傾け、美琴は吐息を漏らした。


「物理的に()()する手に出るとは思わなかった」

「人聞きの悪いこと言わないでほしいなー。あたし、高松ちゃん抱きしめるの夢だったんだよ」


 里緒を抱え込んだまま、むっと菊乃は言い返す。


「ゆ、夢だったんですか……?」

「当たり前じゃん! 自発的に飛び込んでくる青柳ちゃんと違って、高松ちゃんはいつもあたしの手から逃げちゃうから」


 意図して逃げた記憶はないが、小心者の里緒ならば無意識に逃げ出しかねない。情けなさと気恥ずかしさが増して、里緒は菊乃の肩に指を立ててしがみついた。湯煎(ゆせん)にかけられたチョコレートよろしく、このまま融けて死ぬのではないかとさえ思った。

 菊乃はまだ里緒を放してくれない。商店街の路上で抱擁しあう同期と後輩を前に、もう一度、心の毒を吐ききるように嘆息して、美琴はようやく腕をほどいた。

 それからそっと、口の端を持ち上げた。


「責任なんか忘れて楽しもう、か。……簡単に言ってくれるじゃん」


 いつしか美琴の顔には自然な笑みが穏やかに行き渡っていた。眼前のやり取りの痛々しさに虚しくなったのか、それとも心境を引きずられたのか、その真相は定かではない。けれどもそこにはもはや、壮行会で見せていた不自然なほどの笑顔も、緊張も、見当たらなかった。

 一瞬、里緒は急に目尻が熱くなるのを覚えた。

 けれど、菊乃にも美琴にも要らぬ誤解をさせたくなかったから、唇を噛んで涙腺の決壊を防いだ。


「さ、そろそろ行こっか!」


 里緒を解放した菊乃が、一息を挟んで国分寺駅の方を見やる。


「青柳ちゃんたちのこと待たせてるかもしれないしね。もしかしたら怒ってるかも」


 それは大変だ──。慌てて肩掛けのカバンを直し、手汗の光る包装をゴミ箱に投げ入れ、自由になった胸いっぱいに里緒は深呼吸をした。

 先に並んだ菊乃と美琴が、賑やかな商店街のなかを駅に向かって歩き出す。その後ろを追いかけて、頼りない華奢な足を精一杯に振り上げた。




 まだ、緊張が完全に(ほぐ)れたのかも分からない。

 上手く笑顔を浮かべることはできない。

 それでも手放した汗と包装の分だけ、里緒の身体は確かに軽くなっていた。









「僕は、高松くんは信じるに値する子だと思います」


▶▶▶次回 『C.171 カウンターに転がす懸念』

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