C.170 十五人の舞台【Ⅱ】
ね、と菊乃は口を開いた。
「高松ちゃん、コンクールは初めてだったっけ」
「えと、はい、初めてです。中学の時にいた吹部は吹コンに出なかったので」
「うん。そうだったよね」
二、三度と頭を垂れた菊乃はかかとを引き、里緒と美琴の間にすっぽりと収まった。清涼剤の入り交じった甘い汗の匂いがして、里緒の身体は得も言われぬむず痒さを覚えた。
「コンクール、怖い?」
菊乃の重ねた問いかけが、落ち着かない里緒の胸に深々と突き刺さる。
怖いのか、怖くないのかと問われると、里緒には何とも答えようがない。真一文字に結んだ唇をなかなかほどけずにいると、菊乃は続けた。
「あたしはね、怖かったよ」
予想外の言葉に、里緒は菊乃を振り仰いだ。
「中学の吹部で初めてコンクールに出場した時は本当に怖かった。だってさ、あたし一人の失敗で、曲ぜんぶ台無しにしちゃうかもしれないわけじゃん。仲間に申し訳ないし、聴いてくれてるお客さんに申し訳ないし、何より……失敗して演奏の評価下げて、それで次の大会に進めなくなったりするのが怖かった。みんなに責められたくなかった」
「…………」
「でもね。舞台に立って、スポットライトの下で深呼吸してみたら、ちょっと感じ方が変わったんだ」
里緒は菊乃の横顔を見つめた。時おり行き過ぎる車やバイクのヘッドライトが、先輩の顔の輪郭を金色に縁取って照らし出す。彼方の星に視線を凝らすように、菊乃は目を細めた。
「なんか、失敗のリスクを抱えてるのは誰だって同じなのに、自分だけが怖がって、怯えて、苦しい思いしてるような気がしてさ。そんなの不公平だし惨めなだけじゃん。だからあたし、コンクールの舞台を思いっきり楽しむようにした。お化け屋敷に入るような感覚を捨てて、ジェットコースターに乗るような気分を決め込んだんだよね」
臆病な里緒にはどちらも苦手な代物である。だが、その喩えに菊乃が込めようとした真意のカケラを、里緒は確かに見つけていた。
ただ怖いだけの道を選ぶか、怖さと興奮の両立する一世一代の舞台を楽しもうとするか。その二つを天秤にかけて、菊乃は後者を取ったのだろう。
「ね、高松ちゃん」
落ち着き払った声のまま、歌うように菊乃は続けた。
「あたしは高松ちゃんにも、コンクールの舞台を楽しんでほしいなって思うよ。もちろんコンクールだけじゃない。演奏会も、学校行事も、他校にお呼ばれして演奏する機会も、みんな楽しんでほしい。あたしたちの感じてる楽しさを知ってほしいの」
「私に……ですか?」
「うん。私の天才的な演奏を聴かせてやるぞ! ってくらいの気持ちでいてほしいかなって」
里緒を一瞥した菊乃は、わざとらしく胸を張ってみせてから、少し、視線を落とした。
「高松ちゃんは真面目な子だからさ。立川音楽まつりでも、甲子園の応援でも、空回りしちゃうほど頑張ってくれてると思うんだ。それはもちろんとってもいいこと。でも、あたしには時々、高松ちゃんが“音を楽しむ”っていう音楽の基本を忘れてるように見える。だから余計に思うのかな。もっと楽しんでほしい、気楽にいてほしいって」
いつか矢巾の捧げてくれた激励が脳裏をよぎった。そう、音楽の本質とは“音を楽しむ”もの。口で言うのは簡単だし、実践だってそれほど難しくはないのだ。こんな里緒でさえ、甲子園を通じて演奏する楽しさを実感した経験はある。
──それでもなお、うなずけない。
肩を縮めて里緒は呻いた。
「でも、私、独奏なんですよ」
独奏者はいつだってひとりぼっちだ。失敗の責任も、リスクも、みんな一人で背負わなければならない。おまけに協奏曲では、その責任とリスクは普通の奏者より何倍も重くなる。ただでさえ怖がりで、人目を気にする性分のうえに、実際に失敗した前科さえも里緒は持ち合わせている。
「私、昔の失敗の記憶からも上手く逃れられていないし、人前に立つことさえ苦手なままだし……。楽しむ資格がないだなんて言わないですけど、どうすれば楽しめるのか、どうすれば余裕を持てるのか、分からないです」
里緒は小声で訴えた。つくづく情けない声色だと思った。菓子パンの袋を小さく折り畳んで、手のひらに包み込むと、ビニールの表面に温もった手汗が貼り付いて、何とも言えず愉快ではなかった。
「……あんなにたくさん練習しても、実戦経験積んでも、まだ怖い?」
うつむいた菊乃が尋ねてきた。
「あたしたちは高松ちゃんになら独奏を託せると思ってるよ。立川音楽まつりの小さなミスも、応援演奏で倒れたこともぜんぶ踏まえた上で、それでもやっぱり胸を張って『高松ちゃんならできる』って思ってる。……これでもまだ、ダメ?」
いくら言葉を尽くして自信を付与されようとも、緊張の収まらない現実がすべてを否定する。うなずくと、「そっか」と言葉少なに菊乃は応じた。想定外の反駁に戸惑っているようだった。
菊乃は前向きで、明るくて、誰の手も掴んで走ってゆけるリーダー向きの人間だ。自己肯定の欠落に喘いだ経験にも乏しいだろうし、きっと里緒とは心の持つ余裕の大きさが違いすぎる。
里緒は、菊乃が思うほど芯のある人間ではない。
「…………」
包装を握りしめたまま、里緒は唇を閉ざして立ち尽くした。菊乃が思案に暮れているのが察せられたが、だからといって里緒にできることは何もないのが実情だった。
美琴も、菊乃も、言葉を発さない。
嫌な沈黙が続いた。
(私には味方がいる)
吹き抜けた秋風に乗って、隣に佇む先輩の温もりを感じながら、里緒は嘆息した。
(青柳さんや西元さんや……挙げ始めたらきりがないくらい味方がいる。そう分かってから、過去から目を逸らすこともなくなった。きちんと向き合えるようになった。だけど、そのせいで背負うものの重さが増えて、かえって失敗が怖くなった気がする)
たぶん、それが、この如何ともしがたい強烈な緊張の原因なのだろう。
押し黙っていると時間の流れる速度を痛感する。息を吸って、吐いて、足元に散らばるアスファルトの粒を数えていると、やおらに菊乃が口を開いた。
「……あたしね。高松ちゃんに惚れてた」
「なっ────」
いきなり告白された里緒は肩を跳ね上げた。そんな、いったい急に何を言い出すつもりか──。抵抗も虚しく頬が赤らんだが、菊乃は里緒の動揺に気を払うことなく、結んだ唇をふたたび解き放つ。
「恋愛とかじゃないよ、ただ憧れだったんだ。入学してきた高松ちゃんが管弦楽部でクラ聴かせてくれた時から、ずっと。ああ、まだ高校一年生だってのに、こんなにものすごい腕の子がいるんだって思った。美琴だって十分すぎるほどすごい奏者なのに、その美琴が霞んで見えたほどだった」
淡々と熱弁を奮う菊乃の奥で、当の美琴が居心地悪そうに揺れ動く。「だからね」と続け、菊乃は里緒を見た。街明かりを映した菊乃の瞳は美しく、けれども覆いかぶさる睫毛の傾きは寂しげだった。
「この子がいれば何だってやれる。高松ちゃんを擁したあたしたちなら、どんな演奏でも繰り広げられるって思っちゃったんだ。……それで、つい、高松ちゃんを強引に独奏に据えた。何の相談も抜きに」
以前、合宿の最終日に解消したはずのわだかまりの根源を、菊乃はふたたび持ち出そうとしている。慌てた里緒は「そんな」と身を乗り出したが、声量で上回る菊乃の声にたちまち遮られた。
「だけど事実はちょっと違ったんだね。高松ちゃんは私の惚れたような超人ではなくて、あたしたち普通の高校生奏者と本質的には同じだった。ただ単に、めちゃくちゃ上手いだけ。その腕前にしても、メンタルの調子が狂えば簡単に左右される。おまけに追い詰められると吹けなくなる」
「…………」
「それはね、あたしたちも同じなんだ。緊張したら下手になるし、怖がってたら吹けなくなる。あたしと高松ちゃんは何も変わらないんだよ。……心を病んだ高松ちゃんがクラを吹けなくなって、管弦楽部から姿を消した一週間、あたしたちはそのことを骨の髄から学ばされた。正直言って、学ぶのが遅すぎるくらいだった」
単調に言葉を紡いでいるようでありながら、菊乃の横顔はひどく切ない。切なくて、けれども悲しげではなかった。複雑な感情の合間で落ち着きどころを探すように、菊乃は忙しなく目を瞬かせた。
「今、あたしは高松ちゃんのこと、かつて憧れたような超人とは思ってない。あたしたちの遥か先に立って、ひとりで震えてる子。そんな風に感じてる」
「……ひとりで、震えてる」
「そう。舞台の真ん中にひとりで立つ、孤高で孤独な寂しがり屋さんの独奏者だって」
その言葉は、里緒の脳内へ無秩序に散らばっていたいくつもの単語や概念を、一瞬で体系に直して整理するほどの力を持っていた。
思い返せば遥か以前、コンクールへの参戦を明かした紅良に『独奏は向いてるかもしれない』と評されたことがある。あの頃から今に至るまで、菊乃の指摘する通り、きっと里緒は徹底してひとりぼっちの独奏者なのだ。独奏者の立つ場所からは仲間は見えない。ただ、細い腕に楽器を抱え、観客の期待を集める寡黙な偶像であり続ける。
「忘れないでよね」と言って、菊乃は微笑んだ。上塗りされることのなかった切なさが、笑顔のさらに外側に浮かんでいた。
「高松ちゃんの後ろにはあたしたちが控えてる。ううん、控えてるだけじゃない。十四人の力を合わせた伴奏で、高松ちゃんの独奏を引っ張っていくよ。独奏を任せるのは高松ちゃんひとりだけど、失敗の責任やリスクまでひとりで背負わせたりはしない。あたしたちだってちゃんと背負ってるし、背負えるんだ。だからミスしたって心配しないでよ。何があってもそばにいて、多少のミスくらい余裕でカバーしてみせる」
言うが早いか、菊乃は足元に置いたカバンから紙を引っ張り出し、里緒に向かって見せびらかした。
「これ、なーんだ」
「それっ……!」
里緒は危うく叫びかけた。
それはクラリネットパートの楽譜だったのだ。ただし、調性がA調からC調に書き換えられている。C調の楽譜を用いるのは実音楽器と呼ばれる楽器群で、その代表例は他ならぬ、フルートである。
「フルートとクラって高音はちょっと似てるじゃん? 最悪あたしがカバーできるようにって、こっそり楽譜だけ用意しておいたんだよね」
その口ぶりからして、菊乃は実際には譜面を用意するだけでなく、カバーのための練習にも着手しているのだろう。確かに同じ木管だが、まったく音色の違う楽器だ。おろおろと視線を楽譜に走らせながら、里緒はその時、眼前の先輩が意思を込めて放った息吹を両耳に力強く感じ取った。
フルートがクラリネットの独奏を完璧にカバーできるわけはない。
それでも、ひとりにさせない覚悟だけは、紛れもない本物なのだ。
「クラリネットはひとりぼっちの楽器じゃないよ」
いつか誰かの口にしたような台詞をさらりと述べた菊乃は、次の瞬間、やにわに手を伸ばして里緒を抱きしめた。本能で藻掻いた里緒の首元に唇を寄せ、コンクール組のリーダーは静かに囁いた。
「……一緒に楽しもうよ、本番」
足の先まで真っ赤になるのを感じながら、里緒は菊乃の身体に埋もれた。
初めて触れる、夏服越しの先輩の肌。菊乃の身体は芯から熱くて柔らかい。あれほど強張っていた身体が融け、解れ、否応なしに緊張が弛緩してゆく。先輩、ずるい──。唇を震わせながら恨んだ。
こんなにされたら信じるしかなくなる。
ちょうど正面には美琴の顔があった。呆れたように腕を組み、眉を傾け、美琴は吐息を漏らした。
「物理的に懐柔する手に出るとは思わなかった」
「人聞きの悪いこと言わないでほしいなー。あたし、高松ちゃん抱きしめるの夢だったんだよ」
里緒を抱え込んだまま、むっと菊乃は言い返す。
「ゆ、夢だったんですか……?」
「当たり前じゃん! 自発的に飛び込んでくる青柳ちゃんと違って、高松ちゃんはいつもあたしの手から逃げちゃうから」
意図して逃げた記憶はないが、小心者の里緒ならば無意識に逃げ出しかねない。情けなさと気恥ずかしさが増して、里緒は菊乃の肩に指を立ててしがみついた。湯煎にかけられたチョコレートよろしく、このまま融けて死ぬのではないかとさえ思った。
菊乃はまだ里緒を放してくれない。商店街の路上で抱擁しあう同期と後輩を前に、もう一度、心の毒を吐ききるように嘆息して、美琴はようやく腕をほどいた。
それからそっと、口の端を持ち上げた。
「責任なんか忘れて楽しもう、か。……簡単に言ってくれるじゃん」
いつしか美琴の顔には自然な笑みが穏やかに行き渡っていた。眼前のやり取りの痛々しさに虚しくなったのか、それとも心境を引きずられたのか、その真相は定かではない。けれどもそこにはもはや、壮行会で見せていた不自然なほどの笑顔も、緊張も、見当たらなかった。
一瞬、里緒は急に目尻が熱くなるのを覚えた。
けれど、菊乃にも美琴にも要らぬ誤解をさせたくなかったから、唇を噛んで涙腺の決壊を防いだ。
「さ、そろそろ行こっか!」
里緒を解放した菊乃が、一息を挟んで国分寺駅の方を見やる。
「青柳ちゃんたちのこと待たせてるかもしれないしね。もしかしたら怒ってるかも」
それは大変だ──。慌てて肩掛けのカバンを直し、手汗の光る包装をゴミ箱に投げ入れ、自由になった胸いっぱいに里緒は深呼吸をした。
先に並んだ菊乃と美琴が、賑やかな商店街のなかを駅に向かって歩き出す。その後ろを追いかけて、頼りない華奢な足を精一杯に振り上げた。
まだ、緊張が完全に解れたのかも分からない。
上手く笑顔を浮かべることはできない。
それでも手放した汗と包装の分だけ、里緒の身体は確かに軽くなっていた。
「僕は、高松くんは信じるに値する子だと思います」
▶▶▶次回 『C.171 カウンターに転がす懸念』