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クラリオンの息吹  作者: 蒼原悠
第五楽章 奏でよ、悠久のレクイエム
180/231

C.169 十五人の舞台【Ⅰ】

 




 九月二十二日。

 二日にわたり開催される『全国学校合奏コンクール東京都大会』の幕が、ついに切って落とされた。

 先行して行われたのは中学校の部だ。全三十三校が出場し、四度の休憩を挟みながら七時間半にわたって演奏が繰り広げられ、金賞受賞校の中から選ばれた六校が全国大会(グランドコンテスト)への出場権を獲得した。

 翌二十三日には小学校の部、それに高等学校の部が行われる。会場は立川市内の音楽施設『フェアリーホール』。客席数二五〇〇を誇る、ほんの数ヵ月前に完成したばかりの最新鋭のホールである。

 出場順は主催委員会のくじ引きによって決定されたらしい。弦巻学園国分寺高校管弦楽部に宛がわれた出場順は、幸か不幸か、なんと最後尾であった。全二十組の大トリを務める形で、十八時二十四分に演奏開始予定と発表された。

 曲形態は管弦楽。

 指揮者はなし、出場者は十五名。

 その内訳は以下の通り。

 フルートパートが滝川菊乃(2)、長浜香織(3)、白石舞香(1)。

 ファゴットパートが八代智秋(2)、藤枝緋菜(1)。

 ホルンパートが生駒実森(3)、三原郁斗(2)。

 第一ヴァイオリンパートが上福岡洸(3)、池田直央(2)。

 第二ヴァイオリンパートが松戸佐和(2)、出水小萌(1)。

 ヴィオラパートが春日恵(2)。

 チェロパートが戸田宗輔(2)。

 ピアノパートが茨木美琴(2)。

 そして、指揮者になりかわって舞台の中央に立つ独奏(ソロ)クラリネットパートが、高松里緒(1)。

 演奏曲は、W・A・モーツァルト作曲〈クラリネット協奏曲 第二楽章〉。演奏予定時間は約八分。

 里緒の入学と入部、そしてコンクールへの参戦決定から、間もなく半年もの時間が経とうとしている。がむしゃらに音と向き合い、声と向き合い、息吹と向き合った半年間の成果は、いよいよ明日、その堂々たる姿を観客や里緒たちの前に顕現する。






 二十二日、夜。二十六人の管弦楽部員は、揃って駅前のファミレス『カラフル』に押し寄せた。

 名目は壮行会である。一年生が立川音楽まつりの前日に壮行会を開いていたと聞き付けた菊乃たち二年生が、部を挙げてやるのを発案したのだった。


「合宿を校内で済ませたおかげで予算が浮いてるから、壮行会の費用はそっから余裕で支出できる。みんなの負担は要らないよ」


 と、部の通帳に目を通した会計の実森が提案して、部員たちは口々に「やった!」と盛り上がった。席に着くや否や、体調管理に気遣う必要のないコンクール不参加組が高額のデザート類を大量に頼み始め、さっそく上級生の呆れ笑いを集めていた。


「いいなぁ、気楽だな……」


 羨ましげに舞香がつぶやく。隣に腰かけていた里緒は、「うん」と曖昧な同意を打ちながら、言うことを聞かない下腹部にそっと手をあてがった。本番前最後の練習を終え、楽器を解体して音楽室に集合したあたりから、身体が縮こまって食事の気分になれない。何を食べても吐きそうだ。

 ともかく乾杯には参加せねばならない。ひとまずドリンクの飲み放題だけを注文して、飲み物を取りにドリンクバーへ向かった。そのわずかな道のりさえ、足が笑って上手く歩けない。横を歩く緋菜が、ちょっぴり不安げに眉をひそめた。


「めちゃくちゃ緊張してるね」

「うん……」


 里緒はうなだれた。

 そう──これは緊張だ。せっかく緋菜にも舞香にも解消法を相談したのに、結局、憂いは現実になってしまった。

 連日の練習を通じて、目を閉じても完璧な演奏ができるほどに仕上げられたと思っている。それでもやはり、里緒は立川音楽まつりの失敗の記憶から完全には逃れられなかったのだ。どんなに練習を頑張ったところで、本番に弱ければどうしようもない。失敗する時は失敗するのである。

 苦笑した緋菜は、里緒の一歩前に進み出た。


「出番、まだ丸一日近く先だよ? 今からそんなに肩肘張ってると疲れちゃうでしょ」

「……うん。分かってる」

「いいこと思いついた。肩でも揉んであげようか」


 里緒は夢中で首を振って拒んだ。そんなことをされたら余計に強張る。緊張云々以前に、そもそも里緒は他人に触れられるのが苦手だ。


「あとは何だろ。思いっきり笑ったりとか、身体動かしたりとか……」


 緋菜はなおも、里緒の緊張を(ほぐ)すすべを思案しようと頭をひねってくれる。申し訳ないやら、情けないやらで里緒が押し黙っていると、向こうから「乾杯するよー!」と菊乃の声が飛んできた。慌てて、バーに駆け寄って飲み物をグラスに注ぎ、よたよたと自分の席に戻った。

 過度な緊張をしないように精神を整えておくのだって、自己管理のひとつである。自分で何とかしなきゃいけないのに──。はたと漏らした吐息を拭って、グラスを持ち上げた。冷たい氷の感覚が痺れるように走って、また少し、里緒の焦りは加速した。

 やけに菊乃の視線を感じていた気がしたのは、里緒の自意識が過剰だったせいかもしれない。




 壮行会は終始、賑やかに進んだ。

 冒頭、『コンクール組の代表』を自ら名乗った菊乃の音頭で、里緒たちは一斉に乾杯をした。それを待っていたかのように、注文していた料理が続々と運ばれてきた。ステーキ、カレー、ハンバーグ、スパゲティ、ラーメン。テーブルの上は一気に華やかな彩りと香りに染まり、何も注文していない里緒の食欲をいたずらにつついて刺激する。結局、周りの子たちにさんざん責付(せつ)かれて、消化のよさそうな生姜焼きを頼むことに決めた。食べきれる自信は皆無だった。

 料理を囲みながら、たくさんの話を聞き、話した。

 四月の終わり、二年生が初めてコンクールへの参戦を提案してきた時のこと。

 引退した先輩たちの思い出や、ちっとも関心を持たれなくて苦労した新入生勧誘の思い出。

 芸文附属の吹奏楽部を見学した印象。

 一年生から見た上級生たちの印象。

 そして逆に、いまの一年生たちに対して上級生たちの抱く印象──。


「天才が来た! って無邪気に大はしゃぎしてた新歓の頃が懐かしいなー」

「ほんとほんと。あの頃はマジで、里緒ちゃんに後光が差して見えてた」


 半年前の日々を述懐しながら、恵と直央はうっとりと笑窪(えくぼ)を彫っていた。「私は!? 私はどう見えてましたか!?」と花音が身を乗り出すと、二人は顔を見合わせて、噴き出しそうに口をすぼめた。


「花音ちゃん子猫みたいだったよね」

「かまってほしそうにうちらの間を走り回ってたもん」

「それじゃ私、ただ先輩たちに迷惑かけまくってただけみたいじゃないですかー!」


 たちまち花音は切なげに憤慨する。

 氷を飲み込んだ里緒は嘆息した。──迷惑をかけていたのは事実だろうし、それはきっと誰しも通る道。正式入部前の見学者など、誰にとっても邪魔に決まっている。だいたい、直央と恵は別に花音の()()()()()を嫌がってはいないのだ。


「バカだなー。子猫に迷惑かけられたって嫌になんか感じないでしょ、普通」

「可愛い後輩だから許せちゃうんだよ。ねー」


 ニヤニヤと口の端を丸めた二人は、料理の上から手を伸ばして花音を撫で回しにかかった。

「うう」などと口ごもりながら、照れた花音は首をすくめる。あんな具合に素直な反応を見せられたら、里緒も二人に頭を撫でてもらえたのだろうか。一瞬、芯の疼くような感覚が身体を走り抜けて、里緒の身はますます固く引き締まった。

 見回すと、平時から仏頂面を決め込んでいるはずの美琴が、今日はなんだかやけに明るい顔で、周りの先輩や後輩と会話に興じていた。話しているのは分かったが、その口へ食べ物が運ばれる瞬間はほとんど目にしなかった気がする。

 壮行会の最中だというのに、はじめと洸は顔を突き合わせて本番直前の動きの打ち合わせをしていた。明日は引退した三年生のOBたちに加え、紅良の率いる国立WO組も手伝いに来てくれる。進行表にペンを突き立て、視線を巡らせる部長(はじめ)の顔には、里緒のそれとは違うタイプの緊張が見てとれた。

 二時間近く食べて、飲んで、騒いで、そこでようやく壮行会はお開きになった。菊乃や徳利の指揮でテーブルの食器をまとめ、忘れ物がないのを確認してカバンを抱えると、すでに時刻は午後九時を回ろうとしていた。

 貧相な腹の輪郭に手を添えれば、隙間だらけの胃がきりきりと痛みを発している。結局、ほとんど空腹を満たすことができないまま壮行会は終わってしまった。


(本当にこのまま、どうにもならずに本番を迎えるのかな)


 空腹の痛みと、緊張由来の気持ち悪さの狭間で不快感に苛まれながら、里緒はぎこちなく息の濁りを深めた。笑っても、食べても、店の外で締めの拍手を打っても、不自然な肩の凝りは少しも改善する気配がなかった。




 当日は朝十時に、楽器を持って音楽室に集合。大型の楽器を搬出してから全員で電車に乗り、立川の会場を目指すことになる。


弦国(うち)の出番は遅いから、そんなに遅刻に神経質にならなくても大丈夫! とにかく体調管理だけはしっかりね」


 菊乃の注意に「はい!」と声を揃えて、管弦楽部は解散した。銘々、はち切れそうなお腹をさすったり、雑談の続きに花を咲かせながら、二十六名の部員は国分寺駅の方へ流れてゆく。

 里緒のそばには花音たちが寄ってきた。


国立(くにたち)まで一緒に行こっ」


 こういうとき、何も言わずに隣に来てくれる子がいると本当に安心する。いつもの調子で「うん」と首を縦に振ろうとした里緒だったが──。


「ごめんね青柳ちゃん」


 急に菊乃が割り込んできた。


「駅で待っててくれたらいいからさ。高松ちゃんのこと、ちょっと借りられない?」

「いいですけど」


 目をぱちくりさせながら花音は応じた。どうやら里緒は物扱いのようで、拒否権が与えられることはなかった。わけもわからずに手を引かれ、菊乃の隣に連れて行かれた里緒は、花音たちが駅の方に向かって消えてゆくのをなすすべもなく見送った。

 いったい何のつもりだろう。


「先輩……?」


 怖々と尋ねた途端、出し抜けに菊乃は里緒の肩を後ろから揉んだ。たまらず里緒は叫んだ。


「うひゃあ!?」

「うわー。やっぱ硬いな」


 見咎めるように菊乃は耳元でつぶやいた。少なくとも声色だけは吞気だった。


「いつから硬かった? 練習中? さっきから?」

「た、たぶん、けっこう前から」

「そりゃ重症だな」


 ため息をこぼした菊乃は、おいで、といって里緒の手をふたたび引いた。銀行と焼肉屋の狭間を抜け、高層マンションの間を縫う細い路地を抜けてゆく。その行く手にコンビニの姿を見つけ、「あの」と声をかけると、菊乃は小さく肩を揺らした。


「高松ちゃんさ。さっき全然、食べてなかったでしょ」

「……気づいてたんですか」

「あたしの観察眼をなめてもらっちゃ困るぞ! 後輩のことなんか一から十まで全部お見通しだよ」


 菊乃が言うと冗談に聞こえない。里緒は唇を噛んだ。感じていた視線は本物だったようだ。──さては、食欲が減衰するほどに帯びた緊張も、この先輩にはしっかり看破されていたのだろうか。

 大丈夫、と菊乃は笑った。


「食べてなかったのは高松ちゃんだけじゃないからさ。もう一人、さっき捕まえた」


 手を引かれるままに里緒はコンビニに入った。おもむろに財布を取り出した菊乃は、「なんかひとつ好きなもの選んで」と命じ、菓子パンのコーナーに分け入ってゆく。

 泡を食って追いかけた里緒は、そこに突っ立っていた人の姿を見て、無意識に感嘆の声を落とした。


「あ…………」


 向こうも同じ声を上げた。

 いたのは美琴だったのだ。


「なんだー、まだ何も選んでないじゃん」


 腕を組んだ菊乃が美琴の手元を覗き込む。美琴はうつむき、床の模様を探るように視線を動かした。


「お腹、空いてないから」

「あたしの前で見え透いた嘘つかないでよねー。さっき解散した時にガッツリお腹鳴らしてたの、こっちはばっちり聴いてるんだから」


 不快げに美琴は菊乃を睨み返す。そういえば確かに里緒も、美琴が料理を口にする姿は見かけていない。菊乃の意図をようやく()み取った里緒は、仕方なく適当な菓子パンを選んで菊乃に渡した。なるたけ脂っこくないものを選んだつもりだった。

 美琴の選んだおにぎりをも奪い取った菊乃は、「あたしのおごりだよ!」と誇らしげに宣言しながらレジに向かい、会計を済ませてしまった。

 外に出れば、夜の匂いを乗せた風が首元を優しく吹き抜ける。電車の走行音は振動に換わって、足元から里緒の身体を断続的に突き上げる。通行人の交わす雑多な会話と、夜の街を彩る生活音に身を委ねながら、里緒はコンビニの前に立って黙々と菓子パンを頬張った。壮行会の時と違って、不思議と気持ちの悪さを覚えることなく、ものを口に含むことができた。


「美味しい?」


 空っぽのビニール袋を振り回しながら菊乃が尋ねてきた。うなずき返すと、「そりゃそうだ」と彼女は空を見上げた。


「このあたしのおごりだもんね。美味しくないわけがないんだよ」

「……何の根拠があってそんなことを」


 一足先におにぎりを頬張り終えた美琴が、不機嫌を極めた声でつぶやく。菊乃は笑い返した。


「根拠ならあるよ。だって今の二人、壮行会の時よりリラックスして見えるもの」


 言われてみれば、気持ちの悪さを覚えなかった理由はそれで説明できる。息を吸って、吐いて、アスファルトに立つ夏の香りを嗅いだ里緒は、中身のなくなった包装を手のなかで丸めながら、夜空に目をやる菊乃の姿を黙って見つめた。

 暇を持て余しているのではなく、菊乃はまるで、目には見えない何かを虚空の彼方に探しているようだった。








「クラリネットはひとりぼっちの楽器じゃないよ」


▶▶▶次回 『C.170 十五人の舞台【Ⅱ】』

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