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クラリオンの息吹  作者: 蒼原悠
第五楽章 奏でよ、悠久のレクイエム
179/231

C.168 コンクールまでの日々

 




 全国学校合奏コンクール東京都大会・高等学校の部の開催日は、九月二十三日。一ヶ月後に迫った本番に向けて、里緒を含む総勢十五人の弦国管弦楽部コンクール組は、いよいよ最後のステップを踏み出した。

 練習は連日に及んだ。マイ楽器の修理(リペア)を終え、慣れた管体を取り戻した里緒は、以前にもまして目の色を変えながら練習に励み始めた。

 そのついでに、持っているのが普通のA管ソプラノクラリネットではなく、シュタードラー独自の楽器を再現したバセットクラリネットであることを、周囲の仲間たちにはきちんと説明することにした。


「じゃ、それ使ったら当時の演奏をそのまま再現できるってこと!?」


 菊乃の示した反応は悲鳴のようだった。今回のコンクールではソプラノ用に編曲された後世の楽譜を用いていることを話すと、「そうだった」と落胆の面持ちで彼女は眉を傾けたが、受けた衝撃がまるっきり緩和されたわけでもないようだった。

 部員たちは口々に興奮を語り合った。


「当時“バセットクラリネット”ってのがあったっていうのは知識としては知ってたけど、そっか……。こんな近くにあったんだなぁ」

「てかさ、〈クラリネット協奏曲〉を選んだの美琴だったよね?」

「いくら何でもファインプレーすぎない? 本当に知らなかったわけ?」


 にわかに褒め言葉の矛先を向けられた美琴は、「別に」などと鬱陶しげに口ごもりながらピアノへ視線を逃していた。平時から仏頂面を貫いているぶん、美琴の照れは非常に分かりやすい。可愛いですね、なんて伝えたら美琴の気に障ってしまうだろうか。里緒は秘かにもどかしい思いを抱きしめた。

 普通の管体より長いのも、ソプラノクラリネットには備わっていない低音用キイが見当たるのも、すべてはこの楽器がバセットクラリネットであることによって説明できる。


「五ヶ月ぶりに疑問が解消した!」


 (つか)えの取れたように晴れ晴れと、コンクール組の仲間たちは笑っていた。

 クラリネットの秘密を明かしたのは正解だった。明かしたところでただちに演奏に影響を与えるわけでもないし、他の何かが変わるわけでもないが、どんな形であっても大切な人々を優しい顔にできたら、当の里緒も嬉しくなって胸の奥がじんと温もる。里緒は今、その事実を深々と実感していた。






 九月二日。約一ヶ月半の長い夏休みを抜け、弦巻学園国分寺高校の授業日程は二学期に突入した。

 もっとも、夏休みの間じゅう部活に追われ続けた管弦楽部の部員にとって、()()と呼べるような期間が存在したのかは疑わしい。新学期が始まり、心機一転の晴れやかな顔付きでクラスメートたちが登校してくる中、散発的に見当たる管弦楽部一年生の顔には疲労の色がどっぷりと塗りたくられていた。

 管弦楽部は始業式の前に集合しなければならない。時間ぎりぎりになって里緒がD組の教室に駆け込んでくると、あの花音でさえ、ぐったりと自分の机にもたれかかっていた。夏服姿の背中は後ろから見ても丸く、まるで夏の暑さにやられたネコのようだ。下敷きやクリアファイルを団扇(うちわ)代わりにして扇ぎながら笑い合うクラスメートたちの姿が、なんだか遠く、懐かしく感じて、里緒は自然に瞳孔が細まるのを覚えた。


(そっか。私、長いことD組の教室から遠ざかってたんだったっけ)


 遠い日のことを思い出した里緒は、──不意の危機感に殴られてたちまち青くなった。

 最後に登校した期末試験前の日、里緒は容態を心配して声をかけてきた花音を拒絶し、教室を飛び出し、ホームルームの途中で戻ってくる騒ぎを起こしている。里緒に対するクラスメートたちの心証は、あの頃からいっさい変わっていないはずである。

 つまり、嫌われているかもしれない。

 軽蔑されているかもしれない。

 厄介で迷惑に思われているかもしれない。

 幸い、まだ誰にも姿を見つかっていないようだ。カバンを机の脇に放置したまま、里緒は一目散に教室を逃げ出した。行き交う足音の響く廊下に立ちすくみ、壁に手をついて身体を支えながら、肌を包む震えと悪寒が収束するのを必死に待った。


(どうしよう……!)


 盛大に迷惑をかけたこと、クラスメートたちにはきちんと謝るべきだろうか。しかしそんなことをしたらますます(うと)まれてしまうだろうか。考えても、考えても、結論も勇気も出なかった。

 そうこうしていると集合時間が近付いてきて、里緒はとぼとぼと講堂へ向かった。管弦楽部の仲間たちはまばらに揃いつつあった。居合わせた部員の誰よりも悲惨な顔をしている自信が里緒にはあったが、そんな自信は何の足しにもならなかった。




 始業式では校歌が演奏される。管弦楽部は前日のうちに講堂に入り、座席や譜面台をセットして、軽く合奏の練習も済ませていた。いつぞやの〈天地人〉などとは比較にならないほど簡単な曲である。さすがにこの程度の演奏でミスを犯すとも思えなかったが、ともかく一生懸命にクラリネットをくわえ、京士郎の振る指揮棒(タクト)に合わせて旋律を刻んだ。集団行動の極みをなす音楽では、一瞬の迷いや手抜きが大事故を引き起こす。立川音楽まつりの苦い経験は里緒の骨髄にまで戒めを刻んでいた。

 今や京士郎の指揮はすっかり板についていた。思い思いの調子で張り上げられる生徒一千人分の歌声を前に、わずか二十六の楽器で紡ぐ校歌の演奏はひどく無力に聴こえた。だが、今回の役目はあくまで伴奏。たとえ無惨な出来映えでも、斉唱を妨げるような出来でさえなければ許容される。

 譜面が終止符に達した。京士郎の指揮棒が静止し、楽器群が鳴りやむ。ざわざわと生徒たちが自分の席につくのを眺めながら、やっとの思いで里緒は指から楽器を引き離した。終わった──。解放感で胸が(すく)む経験をしたのは初めてだった。

 壇上では副校長の天童が新学期のあいさつ口上を述べ始め、冒頭でさっそく健闘を称えられた野球部の部員たちには大きな拍手が送られている。ここから先は、自分とは無縁の世界。そう決め込み、無事に演奏を終えられた安堵で、里緒はすっかり油断しながら耳を傾けていた。

 その時だった。

 野球部の称賛を終えた天童が、やおらに舞台下の管弦楽部へ向かって手を広げたのだ。


 ──『そして今年の野球部の善戦を大きく支えた存在として、応援部、そして管弦楽部の彼ら彼女らを無視することはできません。応援団の活躍をテレビで見たという人も多かったでしょう』


 一瞬、里緒には自分たちの話をされているのが分からなかった。それまで堅い顔を崩さずに背筋を伸ばしていた直央や恵たちが、『私たち?』と問いたげに目を丸くした。


 ──『応援部と管弦楽部にも(ねぎら)いの拍手を!』


 天童が煽り立て、講堂にはふたたび生徒や教師たちの拍手が鳴り響き始めた。にわかに降って湧いたサプライズに、管弦楽部の部員たちは軒並み呆気に取られている。当然、里緒もそのひとりだった。

 注目されている。

 こんなにもたくさんの人々に。

 里緒の脳内は真っ白のペンキで塗りたくられた。


「わー! なんか嬉しい!」

「嘘みたい!」


 一足先に状況を理解した一年の仲間たちが、あたりを見回しながらきゃっきゃとはしゃぐ。にこやかな笑みを(たた)えた天童の顔が、こちらを向いた。無数に(たか)る黒山のなかから、いくつもの生徒たちが顔を覗かせて管弦楽部の方を窺い始めた。その一瞬、頭の中でさまざまな思いが渦を巻いて、唇を噛んだ里緒はクラリネットを抱きしめた。

 素直に心が沸き立たなかった。

 称賛を受け止めて喜ぶ資格があるのは、里緒を除く二十五名の管弦楽部員だけだ。私には拍手なんか受け取れない──。驚きで浅くなった息が、今度は胸に鈍い痛みをもたらした。


(私、野球部の人たちのこと支えられなかった。それどころか邪魔までしちゃったのに)


 思い出すのも忌まわしい第六試合、里緒は熱中症にかかって試合中に倒れ、応援演奏を中断させて野球部に多大な迷惑をかけた。『負けたのは高松のせいじゃない』といって慰めてくれたのは美琴だったか。彼女の言葉を信じないわけではないが、本当に少しも責任がないとは誰にも言い切れない。責任がないことを、誰も証明できないから。

 じきに天童は他の部活動の活躍に言及し始め、管弦楽部への称賛はようやく鳴りを潜めた。自分ひとりが暗澹とした感情を抱え込んでいるのが惨めで、情けなくて、それでも気丈に里緒は前を向いて背筋を伸ばした。ともにスタンドに立って応援演奏を乗り切った仲間たちの前で、せめて恥ずかしい姿だけは見せたくなかった。


 始業式が終われば、管弦楽部は講堂の後片付けに従事しなければならない。ぞろぞろと軍団をなして自分の属する教室を目指す生徒たちを尻目に、里緒たちは椅子と譜面台の撤去に追われた。用務員や京士郎の指示に従って慌ただしく廊下を行き来し、楽器を音楽室に置きに行き、現状回復を済ませている間に、鬱積した心痛の重みも少し和らいだ。

 そうであってほしいと思いつつ、里緒は黒々と息をこぼした。里緒の胸を締め付ける懸念の源は、なにも野球部にかけた迷惑だけではないのだった。もう一つはクラスメートとの向き合い方である。


(どうしよう、どんな態度で振る舞ったらいいのかな。やっぱり謝らなきゃダメかな……)


 足を引きずるようにしてD組の教室を目指しながら、ありとあらゆる謝罪の文句が頭蓋骨の中をぐるぐると回り始めた。よほど沈んで見えたのか、心配そうに花音が顔を覗き込んできたので、『クラスメートたちのことが怖い』と正直に話してみた。

 花音は微笑んだ。


「心配する必要ないよ」

「な、なんで……?」

「だって私と西元がいるから、里緒ちゃんはぜったいに独りぼっちじゃないし。それにみんな、二ヶ月前のことなんてとっくに忘れてるよ。きっと普通に笑って、里緒ちゃんのこと受け入れてくれる」


 笑顔のまま断じられ、里緒は言い淀んだ。毎度のことだが、花音はいったいどこの空間から、これほどに(みなぎ)る自信を取り寄せているのだろう。

 根拠を尋ねても、返答は「なんとなく分かる! 花音様だから!」である。当てにならない友人の言葉に里緒は嘆息を隠せなかったが、ともかく花音の言う通り、独りぼっちにならないで済むという事実だけは理解していたから、思いきって教室のドアを引き開けた。しまいには投げやりだった。

 そして次の瞬間、花音の見立てが正しかったことを全身全霊で思い知らされた。


「あ! 管弦楽部が戻ってきた!」

「高松さんがいる!」

「久しぶりだね! 元気?」

「夏休み色々と大変だったんでしょー? もう大丈夫なわけ?」


 ホームルームの開始を待ち受けていたクラスメートたちは、開いた扉の前に立ち尽くした里緒に、口々に(ねぎら)いの言葉をかけてきたのだ。

 拍子抜けのあまり、里緒の意識は数秒にわたって飛んだ。てっきり沈黙で迎え入れられるか、あるいは目も背けられるかと思っていたのに。


「わ、私は……別に大したこと……」


 もごもごと言い訳を口にする里緒の視界に、扉のすぐ傍らでスマホを見ていた少女の姿が映った。

 美怜、とか言ったか。陸上部に属している子だったと思うが、少なくとも里緒との面識は皆無の少女だった。けれども彼女は里緒をきちんと認識していたようだ。


「何ぼーっとしてんの。教室入りなよ」


 美怜は眉を持ち上げた。


「見てたよ、甲子園。管弦楽部テレビにめっちゃ映ってたじゃん」

「人数少ないのによく頑張ってるなーって感じしたよね。かっこよかった」


 さらにクラス委員長の芹香が、美怜の隣から顔を覗かせて笑った。

 笑顔を見つめていると心臓に悪い。気まずくなって視線を反らした里緒は、そのまま、四十人の生徒が入る広い教室を控えめに見渡した。すでに多くのクラスメートたちは里緒から関心を失っていたが、冷めた視線を注ぐ者も、嫌悪感や敵意を浮かべる者も、どこにも見当たらなかった。


「その、」


 返答を求める視線を感じて、里緒は懸命に口を開いた。なぜだか急に瞳が潤んだ。


「見てくれてたなら知ってると思うんだけど、私……第六試合の時に……」

「知ってるも何もネットニュースになってたじゃん。応援団の一人が熱中症で倒れて、救急搬送されたって」


 美怜が割り込んできた。さも当然の事実を指摘するような口ぶりに、うそ、と里緒は(うめ)いた。

 ニュースになっていただなんて初耳だ。

 最悪だ、私の所業はみんなバレてたんだ──。あまりのショックで眩暈(めまい)を覚えたが、続く美怜の爽やかな声色が、脳裏のもやを一閃で薙ぎ払った。


「でもそれってさ、熱中症なるくらい一生懸命に楽器吹いてたってことでしょ」


 里緒は顔を上げた。腰へ手を当て、口の端にえくぼを(にじ)ませる美怜の顔が見えた。


「あたし正直、高松さんのこと見直しちゃったよ。いっつも隅っこで独りでいじけてる印象だったけど、頑張る時は頑張る人なんだなーって。別人かって疑いたくなるくらいかっこよかった」

「ちなみに私も見直しちゃったな」


 芹香が続けた。その深く澄んだ瞳のなかに、里緒を疎むような意思の光は欠片も見当たらず、二人の言葉に嘘が混入していないのを里緒は確信した。

 若干の注目を浴びながら自分の席に戻っても、腰かけても、やっぱり冷たい視線をかけられることはなかった。代わりにみんなは口々に尋ねてきた。


「ね、高松さん何色のアイマスク着けてたの?」

「青じゃなかった?」

「花音はグリーンみたいなの着けてたっしょ」

「高松さんもオレンジとかピンクとか、もっと派手目のやつにすればよかったのに」

「てかさ、あれマジ可愛かったよね。考えた人天才だと思うんだけど!」


 顔を上げると、紅良たち国立WO(ウインドオケ)組の三人が遠くの方で長閑(のどか)な表情をしていた。野球部マネージャーの久美子と莉華は、花音の語る夏休み中の武勇伝を聞かされながら、時おり弾むように笑い声を上げている。その花音が一瞬、目配せをして、里緒の胸にはじんと熱が行き渡った。

 “心配する必要なかったでしょ?”

 彼女の面持ちには無言の励ましが浮かんでいた。






 花音やクラスメートたちの善意に救われ、夏休み明けの試練をどうにか乗り切った里緒だったが、真の試練はその後にこそ待ち受けていた。

 あろうことか、夏休みの宿題が山と残っていたままだったのである。

 管弦楽部が多忙だったせいで、存在もろともすっかり失念していたのだ。間近に迫った提出期限を知らされ、危機感で蒼白く染まった顔のまま管弦楽部に出向くと、なんと舞香も同じ顔をしていた。


「花音でさえ宿題を終えてたっていうのに……」


 舞香は悔しげにうなだれていた。彼女も里緒と同じく、練習にかまけているうちに宿題消化のタイミングを失ったクチだという。急遽コンクール組に加わった舞香の苦労や負担を考えれば無理もない。だが、だからといって同じ境遇では(なぐさ)めることもできず、里緒は隣で無力に沈むばかりだった。

 しかし舞香はいい意味で諦めの悪い少女だった。練習終了後、いざ美化係の仕事を始めようという段になって、彼女は急に香織に向かって「勉強教えてください!」と叫び、頭を下げたのだ。

 里緒も慌てて真似をした。宿題が終わっていないことも正直に白状した。

 そして香織はどこまでも優しい先輩だった。困惑の色に染まったのも束の間、すかさずそれを拭い去り、手元のカバンから手帳を引っ張り出した。


「いつやる?」

「いいんですか!?」

「いいんですかも何も、このタイミングで二人が居残り補習処分でも食らったら大変でしょ。二人ともコンクール組なんだから」


 お説ごもっともである。里緒と舞香は揃って首をすくめた。

 結局、翌日の夜に駅前のファミレスにこもって宿題を消化することに決まった。“お掃除組”初の食事会は、かくして思いがけぬ形で実現する運びになったのだった。




 里緒の得意教科は英語系だ。舞香は理科や社会のような暗記科目が得意だという。残った国語系や数学系は舞香が引き受けてくれることになった。国語も数学も決して得意なわけではないそうだが、『高一向けの宿題も解けなかったら高三として恥ずかしい』というのが本人の弁だった。


「もっとのんびり話せる食事会がよかったな……」


 情け容赦もなく延々と並ぶ数学Ⅰの計算問題を撃破しながら、香織は灰色の吐息を何度も床に落としていた。彼女の嘆息が胸に刺さるたび、見つめる長文の文字が不安定に揺らいで、里緒は「すみません」とうなだれた。

 貴重な時間を奪うことになった上、香織は後輩二人分のドリンクバーまでもおごってくれるという。大盤振る舞いに肩身が狭くなる一方だった。


「わたしは今、けっこう楽しいですけどね。みんなで一緒に何かを頑張ってる感あって」


 つまみ上げたシャーペンを器用に一回転させた舞香が、まもなく「できたっ」と叫んで世界史のワークを放り出した。問題文を貫く彼女の眼差しは真剣そのものだったが、声も、身ぶりも、心なしかうきうきと軽やかで、何度も横顔に見とれたものだ。

 眉根のしわを融かした香織が苦笑した。


「まあね。こういうことするチャンス、美化係(うち)はなかなか作れなかったもんね。期末の頃は里緒ちゃんにも色々あったわけだし……」


 思い返せば、あの苦しかった季節から二か月もの時が経過しつつある。そういえば一年の仲間たちは勉強会も開いていたようだ。メッセージアプリにも誘いのコメントが飛んできていたが、勉強どころかメッセージアプリすら満足に開けないほど心を病んでいた里緒には、どだい勉強会への参加など無理な話だったと思う。

 たまには里緒の側からも話題を振り向けたい。その程度の何気ない気持ちで、里緒は舞香に尋ねた。


「期末前の勉強会もこんな感じだったの?」


 とたんに舞香は手を止めた。見開かれて細まった彼女の目が、気まずげに里緒を伺い見た。


「知りたいの?」

「え、うん、何となく……」

「あんまり知らない方がいいかもよ」


 彼女は不穏な前置きを挟んだ。嫌な予感が身を包んだが、いまさら引き返したいとも思えなかったので里緒は先を促した。舞香はペンをテーブルに置き、そこに向かって視線を落とした。


「あの時はな……。わたしたち、ちっとも大人になれなくてさ。今じゃ有り得ないような高松さんの悪口みんなで言っちゃったり、そのことで花音と喧嘩したりしてたんだよね。本人が来てないのをいいことにやりたい放題だった感じ。今から思えば最低だけど、あの頃はそんなこと分かってなかった」


 うつむいた舞香は里緒を見ずにぼそぼそと吐露する。たちまち里緒は、言い様のない痺れに飲まれた。酸いも甘いも包み隠さないのが舞香らしい。しかし話の中身が中身だけにショックも大きくて、「うん」とも「ううん」とも答えられなかった。

 理性的に考えれば間違いなく“最低”だ。だが、誰よりも管弦楽部を振り回してきた自覚のある里緒に、それを素直に口にするだけの気力はどうしても出せなかったのだった。

「でも」と舞香は拍を強めた。少なくとも今、自分は里緒を交えて勉強会をしているのが楽しい。他の一年生たちが何を考えているのかは知らないけれど、きっと多くの子は、こうして里緒と一緒に何かをする時間をどこかで心待ちにしているはずだと。


「緋菜なんか絶対そうだよ。勉強会やること話したら、半分くらい本気で羨ましがってたもん」

「の、残りの半分は?」

「本気で呆れてた。『まだやってなかったの?』って言われた」


 そりゃそうでしょ、と香織が眉を曇らせる。その傍らで、ほっと生温(なまぬる)い呼気を漏らした里緒は、冷えた肺の中にふたたび熱が溜まるのを覚えた。

 羨ましいと思ってもらえているのならば、いつかまた、チャンスを作れる。


「今年の夏は大変だったけど、私もみんなともっと、いろんなことやってみたかったな……」


 つぶやいたら舞香が「本当!」と目を輝かせた。遊園地、壮行会、お祭りや花火大会。里緒の参加し損なったイベントはいくつもある。うん、と里緒はうなずいてみせた。これこそが嘘偽りのない本心なのだと、どうか伝わってほしいと祈りながら。


「二人には卒業まで二年半も残ってるんだもの。何度だって、何だってやり直せる。焦る必要なんてないよ」


 言い添えた香織が、グラスを傾けて微笑んだ。


「ゆっくり向き合うといいんじゃないかな」


 気づくと、宿題を解く手が完全に止まっていた。今は目の前の部活仲間よりも宿題に向き合わねばならない。雑念を脇に置いて英文の羅列に向き直ると、時間の感覚も、かつて覚えた舞香たちへのわだかまりや葛藤も、嘘のように早い速度で里緒の意識の世界を流れ去っていった。






 新学期は忙しなく経過した。

 高校一年生の課程もいつしか半分近くが過ぎつつある。授業の内容はますます高度になり、そうでなくてもコンクールの練習にかかりきりな里緒をいっそう苦しめた。だが、分からない点を聞きに行けば紅良はいつでも勉強に付き合ってくれるので、幸いにも大きな遅れを取る事態には陥らずに済みそうだった。紅良に言わせれば、一も二もなく素直に解説を聞き入れてくれるから、里緒は教えやすくて楽な相手だという。逆に「楽じゃないのは誰なの」と聞いてみたら、紅良は無言で花音や国立WO仲間の二人を指差していた。しょっちゅう茶々を入れられるらしい。

 交互に立ちふさがる部活と勉強に追われながら、週に一度か二度、保健室にも通った。名目は“心のケア”であった。決められた時間に保健室の戸を叩くと、待ち受けていた養護教諭の対馬にその日の出来事や心の状態を(こま)かに尋ねられた。いつ、どこでふたたび里緒が追い詰められ、精神を壊して倒れても対処できるように、心のカルテを作っているのだと聞かされた。メンタルケアの専門家を呼ぶことも提案されていたが、結局、あまり気が進まなくて断った。体調不良で何度も保健室に通ったおかげで多少なりとも慣れの生まれた対馬になら、思ったままの素直な言葉もそれなりに口にできる。心を開く相手のいる今の里緒にはそれで十分、間に合っているのだった。

 その心を開ける相手の片割れ──花音が、あるとき不意に「お揃いのアイテム買いに行こうよ!」などと言い出した。ペアルックで街を歩くカップルや友達グループを目の当たりにして、真似をしようと(ひらめ)いたのだという。よく意味の分からなかった里緒は呆気に取られ、紅良は嫌そうに顔をしかめたが、放課後の練習終わり、有無を言わさず『ひららもーる』まで連行された。


「髪につけられるようなアイテムだといいなーって思うんだよね。ほら、私のこれみたいな!」


 二つ結びの髪を束ねるヘアゴムを花音は指差した。可愛らしい星形のパーツに彩られたそのヘアゴムも、数年前に『ひららもーる』内の雑貨ショップで買ったものだという。来たには仕方なく、三人で店内を物色して回った。思うようにグッズ選びは進まなかったが、やがて紅良が髪留めのコーナーでぴたりと歩みを止め、一角を指し示した。


「こういうのはどう」


 覗き込むと、そこには同じデザインのパーツが取り付けられた三種類の髪留めが行儀よく並んでいた。星、月、それから太陽。どれも明るい銀色に表面を塗装され、可愛さと爽やかさのちょうどいい狭間で客の心をくすぐりにかかってくる。


「可愛い! 採用! それにしよ!」


 すぐさま花音が賛意を示し、意外にも呆気なく品定めは終了した。

 花音が星、紅良が月、里緒が太陽。特に深い理由もなく、三種類の配分はそのように決めて、さっそく女子トイレの鏡の前で着用してみた。気のせいか、花音はますます子供っぽく、紅良はますます大人っぽく、そして里緒はますますアンバランスな容貌になった。冴えない顔の里緒がこんなものをつけていても、なんだかちっとも魅力的になった気がしない。しかし当の花音がいたく嬉しそうにしていたので、ひとまず里緒も満足を覚えることにした。


「コンクール当日、みんなでこれ着けていこうね」


 ひとしきり快哉を叫んだ花音は、両手を広げて一回転しながら胸を張った。

 初参加のコンクールでは何が起こるかも分からない。コンクール不参加組のメンバーが五人も減ったので、はじめや菊乃の頼みで紅良は急遽、臨時補助要員としてコンクール当日の裏方を手伝うことになった。つばさと翠も同様だった。『頻繁に管弦楽部(うち)へ出入りしてる君たちにしか頼めないの、お願い!』──そういって菊乃に頼み込まれたのが満更でもなかったのか、紅良たちは快く臨時部員の役目を引き受けてくれた。控室や舞台袖で出番を待つ間は、この三人で一緒にいられる。その光景を想像すると、花音がお揃いのアイテムを欲しがった理由がなんとなく思い浮かんで、里緒も釣られて「うん」と笑った。いつしか紅良の顔からも、不快感がひそかに消え去っていた。


 髪留めを手に入れてからというもの、里緒の日常はいっそう加速した。弁当とカバンとクラリネットのケースを携えて登校、眠気をこらえながら授業を受け、放課後が来れば音楽室に移動して楽器をくわえ、家に帰って夕食を摂ったら土手に引き返して自主練、慌ただしく風呂に入って就寝。日を追うごとに忙しさがいや増しになってゆく感さえあったが、目の前の課題に夢中になって生きている間は、苦しさも、疲労も、少しも感じることはなかった。






 里緒は生き生きとしていた。

 十六年分の人生が、(きた)る九月二十三日までのわずかな期間に濃縮されていたかのように。










「本当にこのまま、どうにもならずに本番を迎えるのかな」


▶▶▶次回 『C.169 十五人の舞台【Ⅰ】』

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