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クラリオンの息吹  作者: 蒼原悠
第五楽章 奏でよ、悠久のレクイエム
178/231

C.167 よみがえった楽器

 




 八月二十六日、月曜日。

 二週間以上もの長期を費やして分解修理(オーバーホール)に出していたクラリネットが、ついに全箇所の修理を完了し、里緒のもとへ返ってきた。

 最終的に確定した修理代金は十万円に上った。ただでさえオーバーホールは金額が(かさ)むうえ、楽器そのものが流通の少ない品で、しかも定期的な修理はしばらく行われてこなかったのだから、これでも相当に安い方の額面だったに違いない。

 大祐に修理代金の話をすると、『そのくらいはうちの家計から出す』と言って、里緒の小遣いを一円も減らさずに修理費用を肩代わりしてくれた。あのクラリネットは里緒の持つ現役楽器であるのと同時に、亡き瑠璃の遺した形見でもある──。それが大祐の言い分だった。

 部活帰りの午後四時、大金を手に里緒は『楽器修理工房Cheers』へ向かった。本来なら居残りのコンクール練習があったのだけれど、修理に出していた楽器を回収しに行くと弁明すると、コンクール組の仲間たちは快く里緒を送り出してくれた。




「金メッキの艶出しも施しておきました。いくらか光の反射が綺麗になっていると思いますよ」


 手袋をはめた堺は眉を持ち上げ、ゆっくりとクラリネットのケースを開いた。

 真っ先に目に入ったのは、普通のソプラノ管には見られない、下管部分の低音用拡張キイだった。それこそがバセットクラリネットの証だと今の里緒は知っている。うわ、と不覚にも感嘆の声を漏らしながら、里緒はケースの中身に手を伸ばした。

 管体は見違えるように美しくなっていた。天井の照明がキイを撫で、金色の矢をなして里緒の網膜を染める。試しに上管と下管を連結して構え、キイの動きを観察してみると、今までの数年間が嘘のような滑らかさでキイは駆動した。演奏の出来に差し障る不安さえ覚えるほどの違いだった。


「すごい……。その、ぜんぜん違いますね」


 語彙力の欠乏を痛感しながら里緒は感動を口にした。「でしょう」と堺は誇らしげに手を揉んだ。


「パーツのひとつひとつまで分解して修理を行っておりますから。楽器そのものが多少古いものですし、本来は数年に一回程度のペースで定期的に修理に出していただきたいものではあります」

「す、すみません。今までサボっちゃって……」

「とんでもない」


 くぐもったマスク越しの声で笑った堺は、その調子のまま、ケースから俵管(バレル)をつまみ上げた。

 そこには、あの太陽らしき意匠と【10-10-2009】の金文字が刻まれている。それぞれクラリネットのブランド“Die=Sonne”と、この管体に与えられた固有の製造番号(シリアルナンバー)を表しているのだという。修繕の済んだグラナディラ製管の表面を艶やかに彩る金色の文字は、風呂上がりの肌のようにしっとりとして、どこか高貴で得意気に感じられた。


「今回、ここにはほぼ手を加えていないんですよ」


 出し抜けに堺が告げた。言われたことの意味が分からず、「えっ?」と里緒は間抜けに問い返した。


「要するに元からキレイだったわけです。ベルとマウスピースに関しても、同様に。それからキイのメッキ直しもほとんど必要ありませんでした。せいぜい艶出しを施した程度です。日常的な手入れがきちんと行き届いていた証拠ですよ」


 堺はどうやら、遠回しに里緒の日常メンテナンスを褒めてくれている。里緒は目を白黒させた。


「そんな……。私、せいぜいキイオイル()したりとか、音孔(トーンホール)ちょっと磨くくらいしか……」


 それも、楽器としての品質を維持しようと考えたわけではなく、母の形見を少しでもきれいにしておきたいと思っただけのこと。しかし堺は「それでいいんですよ」と優しく言い含めて、里緒の手から取った上管と下管をケースの中へしまい込んだ。


「これだけ丁寧に扱っているのなら、楽器にとっても、楽器を作った者にとっても本望でしょう。今となっては貴重な逸品ですからね。どうかこれからも大切に、長く使ってあげてください」


 里緒は喉に言葉を詰まらせた。ただ楽器を修理に出しただけで持ち上げられるなんて、時間差で天罰でも食らうのではなかろうか。心の準備のできないまま、「はい」とぎこちなくうなずいてケースを受け取ると、堺は目尻のあたりに細いしわの糸を何本も引いた。口元がマスクに(おお)われて見えなくても、彼が微笑んでいるのは確かに分かった。


「ありがとうございました!」


 何度も振り返って頭を下げながら、里緒は工房を後にした。

 玄関前の階段を転げ落ちそうな勢いで下り、門を開いて道に出ると、夕暮れ前の金色の陽光が頭上の空を明るく染め上げていた。響き渡るセミの鳴き声、車の走行音、飛行機のプロペラ音、幼い子供たちのはしゃぎ声。(かしま)しい騒音の轟く世界を全身で感じながら、懐かしい重みのクラリネットケースに腕を回して、そっと抱きしめた。世界を彩る雑多な音の波に、左胸の鼓動が力強く加わった。

 ともあれ、ようやく自分の楽器が戻ってきた。

 この時が来るのを、ずっと、ずっと待っていた。


「おかえり」


 破裂しそうな(いと)しさを声に乗せて吐き出すと、ひんやりと触り心地のよいケースの内側で、かすかに部品の動く音がした。




 開発当時の音を現代技術で忠実に再現し、復活を遂げたA管バセットクラリネット“Die=Sonne”。

 里緒にとってそれは、誰からも愛されなかった自分に誰よりも深い愛を捧げてくれた、大好きだった母の思い出の楽器。思い詰めた末に自殺を図った母が、その今際(いまわ)、遺書に書き残してまでも里緒に届けようとしてくれた形見の楽器。

 その大切な楽器を携えて、里緒は来月、コンクールの舞台で〈クラリネット協奏曲〉を演奏する。それは、死期を悟った天才作曲家が、かけがえのない友人に宛てて紡いだ最期の“手紙”。そこには別れの悲哀とともに、取り残された未来を生き続ける友人の背中を力いっぱい押そうとする優しさが、強さが、温かさが織り込まれている。

 奇しくも友人・シュタードラーと同じ立場に置かれることとなった里緒は、何を想い、何を願い、舞台に立つべきなのだろう。──今さら考えるまでもなく、その答えは分かりきっていた。


(見送る側と見送られる側、その両方の代弁者に私はなるんだ)


 ケースを胸から離し、懐かしい重みの持ち手を握って、南へ続く道を里緒は歩き始めた。

 モーツァルトの憂いも、温もりも、シュタードラーの悲嘆や友情も、それから瑠璃の無念も、すべてを演奏の中に盛り込んでみせる。それが、二度と取り返すことの叶わない思い出を背負って舞台に立ち、名誉ある〈クラリネット協奏曲〉の独奏(ソロ)を担う自分の、逃れられぬ使命だと思うから。

 荷は重いが、決して持てない荷ではない。ふたたび崩れ落ちそうになっても、今は支えてくれる友達が隣にいる。ともに手を取り合って舞台へ上ってくれる、先輩や仲間たちがいる。道端の悪意から里緒を守り、先の見えない日々を引っ張ってくれる、先生や、家族や、周りの人たちがいる。

 だから、大丈夫。

 きっと心配は要らないのだ。


(向こう一ヶ月、悔いのないようにこの楽器()を愛そう。曲を愛そう。一緒にいてくれる仲間(みんな)を愛そう。自分のことも、ついでに愛せたらいいな)


 アスファルトを踏みしめた右足を振り上げて、空を見上げた。吹き寄せた夕刻の夏風がボブカットの黒髪を手繰(たぐ)るように掻き上げ、ふわり、懐かしい快感を置き去りにして消えていった。









「焦る必要なんてないよ。ゆっくり向き合うといいんじゃないかな」


▶▶▶次回 『C.168 コンクールまでの日々』

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