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クラリオンの息吹  作者: 蒼原悠
第五楽章 奏でよ、悠久のレクイエム
177/231

C.166 サマーコンサート【Ⅱ】

 




 紅良の顔が固まった。

 かける言葉の選択を誤ったことに里緒が気づくのに長い時間は要らなかった。──しまった、そんなの真っ先に尋ねることじゃない。褒め言葉とか、感謝の言葉とか、もっとましな選択肢は他にいくらでもあったというのに!


「あっいや違っ……! あの、えっと、すごく素敵な演奏で、私ずっと夢中で聴き入っちゃって……っ!」


 食った泡を吐き出す勢いでフォローを入れると、空気を読んでくれた花音が「私も私も!」と続いた。だが、紅良は顔を上げようとしない。よれたジャケットの裾を引っ張ってしわをなだめながら、内向きに並んだ里緒の靴先を無言で睨み続ける。

 いよいよ里緒の胸に不安が芽生えた矢先、


「……そっか」


 紅良はやっと声を返した。伸びた前髪の下で、控えめな大きさの口が開閉した。


「隠してたつもりだったんだけどな。バレてたんだな、高松さんには」

「ちなみに私にもバレてたけど……」


 花音が傷口に塩を塗り込むようなことを言い出した。ふふ、と薄ら寒い吐息を口に含んだ紅良は、そこでやっと顔を上げ、並ぶ里緒と花音の表情を順に伺った。痩けた頬には疲労の色が濃く(にじ)んでいた。


「ありがとう。褒められる演奏ができてよかった」


 苦しげに紅良は笑った。


「そんなに縮こまらないでよ、事実なんだから。実際、情けないくらい緊張してた。自分がどんな音を発したのかもよく覚えてないし、思い出せないし。……でも、とりあえず二人を満足させられる演奏をできたのなら、思い残すことは何もないな」


 やけに饒舌な語り口だった。寡黙な紅良らしくもなく、ずいぶん自発的に自己開示に励んでいる。顔を合わせた瞬間の違和感を思い返して、里緒は苦い味のするつばを飲み込んだ。

 どうしてあんなに紅良は緊張していたのだろう。

 ともかく、その一点が気にかかる。

 同じ点に気がかりを覚えていたのか、ためらいがちな口調で花音が尋ねた。


「西元でもあんなに緊張するんだね、コンサートの舞台って」

「いや、私を何だと思ってるわけ。人間なら誰だって緊張するでしょ」

「そうかもだけど、でもほら……。西元ってすごく強い人だなーって感じするし。人の目とかそんなに気にしてなさそうだし」


 無自覚に紅良の気に障りそうな言葉を選んでいるあたりが花音らしい。はらはらとやり取りを見守る里緒をよそに、「そうかもね」と答えて紅良は瞳を伏せる。

 その顔から、波打ち際から水が引くようにして笑みが消えた。


「私も、そう思ってた。自分はもっと緊張に強い、本番に強いと思ってた。けど、現実はそうじゃなかったのね。……一週間前、ホール練で舞台に立ったときからかな。急に怖くてたまらなくなった」

「な、なんで?」

「私にも分からない。分からないから、どうしようもなかった」


 だから、と言葉を継いだ紅良は、その視線でまっすぐに里緒と花音の胸を射抜いた。

 並ぶ双眸は睫毛(まつげ)に隠れて見えにくかった。それでも里緒は気づいた。照明の輝きを受け止めて反射した瞳の表面が、ゆらゆらと不規則に揺らいでいることに。


「だから……、二人のことを呼んだ。私の音を確実に聴こうとしてくれる人がいるようにして、自分のこと、背水の陣に追い込もうと思って。舞台の上からは客席の様子がよく見えないから、どこかに高松さんと花音が座ってるんだと思い込んで、それでどうにか自分を奮い()たせ続けてた」

「え…………」

「ごめんなさい。そんなことのために二人を呼びつけて。忙しかったでしょ」


 頼んでもいないのに紅良は詫びを重ねようとする。謝って、ひびの入った唇を噛むそぶりを見せる彼女の姿は、やけに普段の里緒の振る舞いにも重なって見えた。

 花音が放心気味に「そっか」と応答する。思考が煮詰まってしまってろくな言葉も思い付かず、里緒も紅良よろしく唇を噛みしめた。

 今なら分かる、これこそが違和感の正体だった。チケットを渡しに管弦楽部のところへやって来て以来、紅良は彼女らしくもなく、ひどく低姿勢を貫き続けている。“卑屈”と言い換えることもできるのかもしれない。しきりに『ごめんなさい』と口にしているあたりなど、卑屈な里緒にそっくりだ。

 果たして紅良が帯びていたのは、本当に()()()緊張なのだろうか?

 里緒の困惑を見透かしたように、紅良は薄っぺらい笑みを口元に引く。華やぐ天井の照明が、たちまちえくぼに暗い影を落とした。


「驚いたでしょ」

「……うん」

「私自身も驚いたよ。でも、一周回って、今は清々しい心地がする。今まで自覚がなかったけど、きっとこっちの方が()()の私なんだろうな……って」


 目をしばたかせながら「そんなわけないじゃん」と花音が呻いた。里緒も同じことを口にしたい気分だったが、ゆっくりと紅良は首を横に振って、それ以上の反論を封じ込めた。


「高松さんには前に話したことがあったでしょ。私、むかし中学で部活仲間と上手くいかなくて、吹奏楽部を飛び出した。仲間なんて要らないって突っぱねて、孤高の自分でいようとした」

「う、うん。聞いたけど……」

「居場所がないのには慣れてたつもりだったんだ、私。いつ帰っても家に両親はいないし、弦国でも部活には入ってないし、国立WOの活動はせいぜい週に二度か三度だけ。居場所なんてそれで十分だし、失うくらいなら初めから要らないと思ってた」

「…………」

「でも、気づいたら、いじめ騒動に巻き込まれた高松さんが学校から消えて、花音がショックで塞ぎ込んで、私の周りからは一瞬、本当の本当に誰もいなくなった。そのとき……気づいた。高松さんを取り戻したい、花音と手を取り合いたいって、心の底から願っている自分がいることに」


 苦しげに声を紡ぎながら、手探りの要領で紅良はそれらをつなげてゆく。一ヶ月半前の記憶がたちまち膨れ上がって、容量の小さな里緒の頭を埋め尽くした。

 あの暑かった七月頭の夕方、ひとり立川の家に閉じこもって泣いていた里緒を、紅良は花音と手を取り合って助け出そうとしてくれた。その姿勢は、言動は、紅良の口にした真相と確かに一致を見る。


「小学校でも中学でも、私に理解者なんていなかった。だから、私はひとりでいなくちゃいけない、強くならなければいけないって、ずっと思い込んで生きてきた。そうしなければひとりで生きられないくらい、()()()私は弱かった。なんなら高松さんや花音より弱いくらいかもしれないわけ。……笑っちゃうでしょ」


 そういって紅良は本当に笑ってみせた。

 不意に、緩んだ紅良の目尻に光が膨らんだ。花音が秘かに喉を鳴らすのが聞こえた。


「気がついたら、高松さんも花音も、球場のスタンドで立派に演奏していた。あんなにテレビカメラを向けられて、高松さんなんか報道と世間の目に追われてる立場だったのに、それでも倒れるまでクラリネットを吹き奏でてみせたじゃない。弱い弱いって自分では思っているかもしれないけど、二人がちゃんと自分の足で立てる人なんだってこと、私は知ってる。私だけは絶対に理解してる」

「…………」

「だから、だからこそ、私だって負けていられないと思った。二人が頑張ってるのに私が頑張れないでどうするんだ、って思った。そんなことばっかり考えて自分を奮い立たせながら、今日、あの舞台に座ってクラリネットを握りしめてたわけ。我に返った時にはもう……コンサートが終わってた」


 頬を走る一筋の光を人差し指ですくって、紅良は(あざけ)るように頬を染めた。


「それが、私」

「西元さん……」

「二人がいてくれたから、私も力をもらえたの。だからお礼を言わせて。……ありがとう、二人とも」


 そういって頭を下げた紅良の目尻から、最後のひとしずくが弾けて散った。

 泣き虫の里緒が紅良の立場だったなら、きっと紅良のように数滴の涙で済ませることはできなかったことだろう。半泣きの頬を懸命に引き締め、里緒は紅良を見つめた。しなやかに軌道を描いて垂れ下がる長い黒髪は、今日も艶やかで美しい。夜空を蒼々と照らす月のように凛として美しい西元紅良は、星のように華やかな花音と並んで、かつて里緒が惚れるほどに憧れた人だった。それが今、こんなにも近くで、里緒に感謝の言葉を捧げている。

 ──知らなかった。自分の知らないところで、こんな形で誰かの心の支えになっていただなんて。こんな“弱い”自分が、誰かの背中を押していただなんて。頼りにされていただなんて。

 ストレートな言葉でその事実を伝えられると、有り余ってあふれ出しそうな感情の置き場が見つからない。


(西元さんだって強いよ。強いし、優しい)


 渦を巻く感情の波間に本音を見つけて、声には出さずにつぶやいた。

 紅良だって強いと思う。こうして逃げることなく、眼前に立ちふさがる脅威と向き合ってみせた彼女が、彼女の言うほど弱いはずがないのだ。『私よりも』と続けかけたが、それはきっと紅良の望む言葉ではないだろうと思って切り捨てることにした。

 この期に及んで羞恥心に押し負けたのか、紅良は下げた頭をなかなか上げてくれなかった。ホールを出た無数の聴衆たちが、頭を下げる楽団メンバーと女子高生二人を胡散臭げに眺めながら通り過ぎる。

 五秒、十秒と沈黙が続いたところで、


「私もだよ」


 そっと花音が言葉を置いた。


「二人がいたから力をもらえてるのは私も同じだもん。だから、そんな寂しそうに笑わないでよ」


 さりげなく紅良の隣へ寄り添いながら、「ねっ」と彼女は口角を上げた。紅良をフォローするための作り話でないのは明らかだった。大きな瞳いっぱいに紅良を映す花音の頬には、揺るぎのない感情のこもった赤みが輝いていたから。


「……そうかもね」


 紅良も微笑した。自分も混ざらないといけない義務感に駆られて、里緒は無我夢中で口を開いた。


「あ、あの、その」

「里緒ちゃんは言わなくても分かるから大丈夫」

「そうね。高松さんは言わなくても分かる」

「はい……」


 花音も紅良もいっぺんに遮ってくる。気恥ずかしいやら情けないやら、ぐちゃぐちゃな思いが重たくなって里緒はうなだれた。うなだれたが、込み上げてきたのは悲しみでも憂いでもなく、可笑しさだった。たちまち心の奥にぽっと火が(とも)って、放射しきれなくなった熱が顔に浮かんだ。

「ふっ」と紅良が呼吸の制御を失ったように笑みをこぼした。花音は「へへ」と嬉しそうに口を歪めて、一歩、前に進み出た。三人とも言葉を発しないまま、しばらくその場で静かに、明るい色の感情を交わした。


 一方的に負担を押し付けあったり、あるいは苦しみをひとまとめに背負ったりする関係は、アンバランスだ。ほんのわずかなきっかけで好意の均衡が崩れれば、瞬く間に基礎が揺らぎ、失われる。

 互いが互いに影響を与え、痛みを分かち合うことのできる関係こそが、きっと理想的な人間関係だ。そうだとすれば、里緒と花音、紅良を結ぶ三角形の人間関係は、幸と不幸の釣り合いの取れた理想的な人間関係と呼ぶに値するのかもしれない。

 それは、いじめに遭い、母を亡くし、絶望と隣り合わせの日々を生きた昔日の里緒が、どれほど恋い焦がれていたか知れない憧れの存在だった。あんなにも泣いて、心を痛めて、一度は友達であることすら諦めかけたのに、いつしか紅良も花音も里緒との間に確かな絆の糸を結び、こうして互いの心を支えている。あれほど願っていたくせに、その事実に何日も何週間も気づかないまま過ごしていた自分が、今となってはあまりに愚かしく、可笑しく思えた。そして、可笑しさの波状攻撃が収まれば、その後には強い安心感が置き去りにされて、里緒の身体に隙間なく浸透した。


(頼りない私でも、二人がいれば強く生きられる。てっきり私だけかと思っていたけど、それは二人も同じなんだ)


 嬉しくて、嬉しくて、里緒は夢中で深呼吸に励んだ。嬉しさのなかに見つけ出した情熱の火種は、いつかコンクールの舞台にひとりで立つ里緒に勇気を授けてくれる、無尽蔵の力の源にも思えた。




「はーぁ、つまんないの」


 聞き覚えのある声が里緒の耳を破った。はっとして顔を上げると、同じように顔を上げた紅良の背中の向こうで、ガラスに寄り掛かったセーラー服の少女が退屈げに貧乏揺すりをしているのが見えた。

 いつか立川の楽器屋で出会った、あの芸文附属の少女だった。


「……守山」


 紅良が低い声で名前を呼んだ。

 少女──守山奏良は紅良の言葉になど耳も傾けず、大袈裟な嘆息をひとつして目を閉じた。奏良と紅良が知り合い同士だったことを、数秒遅れで里緒は思い出した。


「いつからそんな張り合いのないやつになったわけ。本当は弱いんだって? 笑わせないでよね」

「守山に聞かせるつもりで話してたわけじゃない。()せて」

「別に私も聞く気で聞いてたわけじゃないからお互い様よ」


 きびすを返した紅良が鋭い眼光を向けると、奏良は退屈そうな眼差しをそのまま紅良に送り返す。二人の間に静かな火花が散り始めた。首をすくめた里緒の肩を叩いて、「誰?」と花音が尋ねてきた。


「その、西元さんの知り合いの人。私は一回しか会ったことなかったけど……」

「へぇ。西元、クレームセーラーにも知り合いいたんだ」

「それはもしかして芸文附属(うち)のこと?」


 紅良の肩越しに奏良が割り込んできた。二人して大慌てで黙り込むと、彼女はしかめ面を和らげて「久しぶり」と笑った。


「前にプリズム楽器で会った子だよね。頼んどいた西元(こいつ)宛の言伝(ことづて)、ちゃんと伝えてくれてありがとね」

「あ……はい、いえ……」

「西元とは仲いいんだ?」


 そういえば以前に奏良と会った時、里緒は紅良との関係を『クラスメート』などと婉曲表現したものだった。けれどももはや、返答に躊躇する必要はない。里緒は確かな自覚をもってうなずいた。

 ふーん、と奏良は鼻を鳴らした。


「そっちの知らない子も?」

「仲良しだよ」


 花音は堂々と胸を張った。初対面の少女を相手にしても、決して無意味に臆することはない。花音の“強さ”はこういう部分にあると里緒は思った。


「仲良しが二人もコンサート見に来てくれるようになるなんて、西元も()()したじゃん」


 奏良が不敵に笑った。すぐさま「退()()したって言いたいんじゃないの?」と紅良が毒を吐き返したが、彼女の表情を揺らがせるには至らなかった。


「さあね。張り合いがなくなったって意味では退化したのかも」

「張り合いも何も、守山は単に私のことが気に入らないだけでしょ。しれっとライバルみたいな言い方で美化しないで」

「どうかな。むかし気に入らなかったのは確かだけど」


 奏良の言葉選びにはどうにも切れが乏しい。互いの弱点を探り合う冷戦のような言葉のやり取りを見交わしながら、ともかく里緒は、二人の仲があまり良好ではなさそうなのを感じ取った。()()といっても仲良しとは限らないのである。

 “昔”だの“いつから”だのと言い合っているところをみると、二人は高校に入学する前から知り合いなのだろう。小学校の友達なのかな、と予想を立ててみる。紅良は地元の中学校に進学したので、小学校の人間関係は中学にも持ち込まれているはずだ。

 そこまで考えの及んだ瞬間、周りの部員と対立して吹奏楽部を飛び出したという紅良の過去が、目の前の奏良と見事に繋がった。──もしや、この奏良こそが、中学で紅良と対立した吹奏楽部の一員か。


「な、何があったのか分かんないけど、そんなにケンカしないで? 他のお客さんいるし! ね! ねっ?」


 事情の分かっていない花音が、眉を傾けながら二人の間に入って行こうとする。その肩に手を押し当て、そっと干渉を拒んだ奏良は、やおらに意を決したように紅良を見上げ、見つめた。紅良の喉が激しく動いた。


「私はさ」


 ふっと、奏良は目付きを和らげた。激しい火花は急に消え失せた。


「その子に頼んで伝えた通り、西元の気持ち、少しは理解できるようになったのかなって思ってる。別に嘘なんかついてない。ついたって何の意味もないじゃん」

「……そうね」

「あれから色々あったんだよ、私の方も。コンクールのオーディションでAに漏れたり、そのことで周りと揉めたりしてさ。自分の思い通りにならない経験をたくさんしてきた。六中にいた頃、そういう経験はほとんどしてこなかった。だけど西元は経験してきたんだろうね」

「…………」

「色んなことがあって、色んな価値観に触れて、少しずつ“私”の中身も変わってきた。ここにいる私は間違いなく私だけど、多分、もう西元の知ってる中学時代の私じゃない。いがみ合ってばかりだった頃の私じゃないんだと思う。さっきの話を聞いてる限り、西元だってそれは同じじゃないわけ?」


 腰に手を当て、奏良は尋ねる。答えに詰まった紅良が視線を落とすのを、里緒も、それから花音も、緊張の面持ちで見守った。話の先行きが何となく読めたが、それに紅良が応じるか否かはまったくの別問題だった。

 嘆息を挟んだ奏良は、次の瞬間、不器用に紅良へ向かって手を伸ばした。


「握手」

「…………は?」

「ごちゃごちゃ言わずに握って」


 意味が分からない、とばかりに紅良は目をしばたかせる。奏良は穏やかにつばを飛ばした。


「握ったら少しくらい、お互いのこと理解できるかもしれないでしょ。もう私、西元のこと理解不能なやつだと思いたくない。ワケわかんないやつに振り回されたせいで、中三の吹部生活がめちゃくちゃになっただなんて思いたくない。西元の考え方を知って、あのころ私たちが対立した理由を知って、少しでもいいから納得したい。過去に向かって恨み言なんか吐きたくない。そうじゃなきゃ、上手く前に進めないんだよ」


 鋭く研ぎ澄まされた奏良の目付きには、しかし不釣り合いなほどの柔らかな光が浮かんで、揺らいでいる。その光の中に彼女の真意を悟った里緒の胸は、ひときわ大きく高鳴った。

 奏良は表面的な()()ではなく、()()を望んでいる。和解は一時的なものに過ぎないが、互いに理解を交わすことができれば、過去の清算も新たな関係の構築もできる。その可能性の広がりに、きっと奏良は賭けようとしているのだ。

 紅良と分かり合えなかった過去は、奏良の潜在意識にも長く尾を引き続けてきたのだろう。それが今回、コンクールのオーディションを経て顕在化した。奏良は生まれて初めて、紅良の境涯に思いを馳せるヒントを得た。だからこそ奏良はこうして行動を起こしたのに違いなかった。

 彼女にとって西元紅良は、もはやわだかまりを抱く必要性のない、けれども向き合わねば気の済まない、永遠に同じ過去を共有し続ける仲間なのだ。

 そのまま、十秒、二十秒と時間が経った。


「…………」


 紅良は頑なに沈黙を保っていた。その寡黙で沈着な仮面の内側で、紅良が何を悩み、何に悶えているのか、外野の里緒には何も分からない。

 だが、やがて待ち焦がれた瞬間がきた。唇を固く結んだ紅良は、奏良に向かって視線を持ち上げた。


「ん」


 すべて分かっている風に、奏良が鼻で(けしか)ける。その顔と、差し出された手とを見交わした紅良は、ぽつりと声を床に落とした。


「……まさか守山の側から歩み寄られるなんてな」


 それから、一歩ばかり進み出て、どこか悔しげに奏良の手を取った。二人の身体は一対の腕で連結され、はずみで奏良の口の端が微かに歪むのを、里緒は確かに、見た。

 その表情は強張っていたし、声も緊張しきっていた。けれども紅良は間違いなく、自分の意思で、奏良の提案を受け入れた。


「できるよ、納得」


 里緒の隣で花音が朗らかに笑った。


「守山さんがどうなのかは分かんないけど、少なくとも西元はちゃんと、過去に向き合える強さを持ってるもん」


 里緒も同感だった。そして同時に、奏良が同等の強さを隠し持った子だということも知っている。互いに投げ出しさえしなければ、どこかで奏良は紅良を、紅良は奏良を、ほんの少しでも理解できるはずだと思う。胸を張って信じられる。

 確信を深めたら、また、ぽっと心が熱くなった。


「うわ、手汗すごい」


 嫌そうに(うめ)いた奏良が手を離してしまった。「悪かったね」と吐き捨てた紅良は、頬を赤らめながらハンカチを取り出した。


「さっきまで舞台上にいたんだから。ただ聴いてただけの守山には分からないでしょうけど」

「あっそ。あ、悪いけど、今日の私は芸文附属(うち)の知り合いを拝みに来ただけであって西元目当てじゃないから、そこんとこよろしくね」

「こっちから願い下げよ。聴きに来ないで」


 つい今しがたの平和なムードはどこへやら、二人は早くも悪態の飛ばし合いに逆戻りしている。すり寄ってきた花音が「ねね」と里緒の肩をつついた。


「あの二人、すっごく仲良しに見えるんだけど」

「……私には似た者同士に見えるな」


 思い付きで答えてみたら、言えてる、と花音は納得の面持ちになった。

 似ているのかもしれないし、仲良しなのかもしれない。真相は当の二人にしか分からない。ようやく人波の途切れつつあるホールの片隅で睨み合い、不穏な言葉を贈り合う二人の姿を遠巻きに眺めながら、それでもこれだけは言えると里緒は思った。


 過去の自分や仲間と向き合い、痛みを乗り越えて一歩先に進んだ紅良の顔には、今、雲の晴れた月夜のような清々しい色の光がにじんでいる。










「向こう一ヶ月、悔いのないようにこの楽器()を愛そう。自分のことも、ついでに愛せたらいいな」


▶▶▶次回 『C.167 よみがえった楽器』

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