C.165 サマーコンサート【Ⅰ】
八月二十五日、日曜日。
オレンジの雲の点々と散らばる夕刻の空に、どこか切なげに啼くセミの歌声がのどかに映えている、そんな午後五時前の立川の街。チケットを握りしめた里緒と花音は、茹だるような残暑の温もりの余韻を肌ににじませながら、視界一面に広がるガラスに映った夕焼けの空を眺めた。
「混んでるねぇ、『TOPAZ』」
うんざりといった口ぶりで花音がぼやいた。
「ロビーぜんぶお客さんで埋まってるもん。やっぱり人気楽団は違うんだなー」
眼前の自動ドアは開きっぱなしになっていて、里緒たちと同じくチケットを握りしめた客たちが続々と往来している。まだ入場開始前だというのに、館内は人でいっぱいである。
「いつ入れるんだっけ」
花音が尋ねてきた。「えっと」と声を挟んで、里緒はチケットに目を落とした。目当ての情報よりも先に視野に入ったのは、可愛らしい意匠の文字や記号でデザインされたイベントの表題だった。
【国立北多摩ウインドオーケストラ サマーコンサート】──。そう、里緒と花音は今、紅良たち国立WOの主催する定期演奏会に来場しているのだ。
手にしているのは、数日前に紅良のくれたチケット。受け取って初めて気づいたが、国立WOのコンサートは全席有料で、二人がもらったのは一枚一〇〇〇円もするA席のチケットだった。よく見ると招待券の類ではなさそうだし、おそらく紅良が自費で買い取った一般チケットなのだろう。学生と高齢者は半額になるようだが、そもそも無料で受け取るべき代物でないのは明らかだ。けれども紅良は二人から一円も徴収しようとせず、逃げるようにチケットを置き去りにしていった。
あれ以来、当の紅良からは何の音沙汰もない。
(どの曲に出演するんだろう……。いや、それ以前に西元さん、そもそも出演するのかな)
花音に開場時刻を示してやりながら、一本の連絡も入っていないスマホの画面をこっそり覗き見て、里緒は落ち着きどころの見つからない胸に左手を押し当てた。
国立WOが近いうちにサマーコンサートを開くことは知っていたが、まさか紅良の方から呼んでくれるだなんて思わなかった。しかもチケットを渡しに来た時の宣伝文句は一言、『来たくなかったら来なくて大丈夫』のみである。これでは来てほしいのかほしくないのか判別がつかない。彼女が何を思って二人を誘いかけてくれたのか、とうとう里緒には読み取ることができずにいた。
「あ、開いた!」
花音の声とともにロビー内の行列が動き始めた。慌てて列に並び、チケットを用意して入場順を待つ。国立WOの定期演奏会のチケットは三等級あって、最上級のS席は入場料なんと三〇〇〇円である。これだけ値が張るにもかかわらず、ロビーの中は見渡す限り客、客、客。さすがは都内指折りの市民吹奏楽団なだけのことはある。人波に揉まれながらチケットの半券を受け取って、パンフレットやアンケート用紙の束を胸に抱えつつ、チケットに記載されたAの席を目指した。
「すごい。どれがどんな曲かちっとも分かんない」
やおらにパンフレットを広げざま、花音は眉をひそめた。
「ねね、〈Circulating Ocean〉ってこれ何て発音すればいいの? シルクラティング……?」
正しくは“サーキュレーティング・オーシャン”。難関な弦国の入試を突破した生徒とも思えない発言だ。が、里緒が反応を返す前に、花音は「あ!」と短く叫んでプログラムの一角を指差した。
「ね、ここ見て! 【第一幕は新入団員を中心とした楽団によって演奏いたします】だって!」
指された箇所を里緒も覗き込んだ。確かに記述がある。その意味するところとは──。
「西元さんもそこに参加してるかもしれない……ってことだよね」
「そうじゃない? あっほら、ちゃんと奏者一覧にも名前と楽器と写真載ってる!」
急かされるままに花音の視線を追うと、そこには教室や青柳家で見慣れた紅良の顔があった。紙質の良いプログラムの表面に描かれた紅良の顔は涼しく、普段通りの鋭い目付きがいっそう凛々しく感じられる。里緒は思わず「すごいなぁ」と口走った。
ただでさえ勉学に長けている上、だらしのないクラスメートの面倒も見、野球の応援にも顔を出しながら、紅良はきちんと国立WOの活動にも勤しんでいるのだ。こうしてパンフレットに顔写真の載っているのを目の当たりにすると、自分の知らない場所で活躍する彼女の姿が、なんだか一段上に立つ存在のように思えてならない。
「考えてみたら私、西元の演奏聴くの初めてだ。ちょっと楽しみ」
うきうきと頬を赤らめた花音が、そのまま吸い込まれるように一階席へ続くドアをくぐった。見晴らしのいい二階席でなくていいのかと尋ねてみると、「絶対やだ!」と拒絶されてしまった。意外にも花音は、中途半端に高いところや見晴らしのいいところが苦手なのだという。遊園地の観覧車やジェットコースターも実は怖いらしい。
客席数一二〇〇席の『立川市民公会堂TOPAZ』大ホールは、いつか弦国の管弦楽部が定期演奏会を開いた国分寺市のホールと比べても倍以上に大きい。高い天井を見上げ、そこに響く無数の雑音に耳を傾けながら、プログラムを手にあれこれと質問してくる花音の言葉に付き合っていると、開演までの退屈な時間はあっという間に過ぎ去っていった。
明日──八月二十六日、万を辞して里緒のクラリネットが修理から戻ってくる。それが済めば、いよいよコンクールの本番までは一ヶ月。残された時間は決して少なくはないが、多くもない。
漂う喧騒の中に、舞香や緋菜のかけてくれたアドバイスが思い出された。
(私に足りてないのは本番慣れだ)
ばらばらと舞台上に現れ始めた国立WOの団員たちを見つめ、前列の座席にしがみついた里緒は、楽器を抱えた黒服姿の集団の中に紅良を探した。
紅良は大人っぽくて、落ち着いていて、勉強でも運動でも芸術でも欠けているところを見たことがない。きっと今度の出演もそつなくこなして、すました顔で「大したことないよ」なんて言うのだろう。勉強でも運動でも芸術でも冴えないうえに、緊張しいで過去に手痛い失敗も経験している里緒には、一足飛びに紅良の真似事などできるはずもない。今はただ、一足先に舞台へ上がる紅良の姿を瞳に焼き付けて、手本にする他ない。
しっかり勉強しなきゃ──。
舞台に響くわずかな音、わずかな揺らぎも逃さないつもりで決意を固めていたら、「来た!」と花音が小声で叫んだ。舞台袖の扉が開いて、紅良が舞台上へ出てきたのだ。
身にまとう衣装は弦国の制服ではなく、パンツスタイルの黒いスーツ。整った紅良の体格に合わせ、上下ぴしりと決まっている。長い黒髪を後頭部でコンパクトにまとめた姿は普段にもまして美しく、精悍で、里緒は喉の奥底にまで息を落とした。
だが。
「……あれ」
隣で花音が独り言ちた。
「なんかぎこちない感じする」
里緒は目を凝らした。吹奏楽用のB♭管ソプラノクラリネットを携え、席について譜面をめくる紅良の顔付きを細かに観察していると、やがて花音の言わんとしたことが里緒にも薄々と理解できてきた。
紅良の表情は、ひどく硬い。
浮かぶ顔が青白い。
それは金色に瞬く照明のせいではなかった。
(西元さん……?)
身を乗り出して、紅良を見つめた。舞台上の紅良は客席の方を見ようともせず、どことなく節の存在を感じさせる強張った動きで譜面をめくり、キイに指を宛がって運指の確認に勤しんでいる。
彼女の所属は2ndクラリネットパートだったらしい。やがて、一列前の席に1stパートの団員たちが割り込んできて、紅良の姿は彼らの背中の向こうに隠された。しかし姿が見えなくなっても、ひとたび覚えた胸の不穏までも拭い去ることは叶わなかった。
紅良は今、普段の彼女ならば有り得ないような重度の緊張を帯びている。
そうでなければ自信がないのか、調子の悪い自覚があるのか──。どちらにしても悪い兆候が表れているのは、もはや疑いようのない事実に思えた。
「大丈夫なのかな」
腕を組んだ花音が不安げにこぼした。気づくと、里緒は汗ばむ両手の拳を固く握り、両膝に押し当てていた。誰かが追い込まれると里緒まで追い込まれてしまう。こういうとき、里緒は自分の不必要なまでの感受性の高さをつくづくと痛感する。
人は緊張しすぎると本来のパフォーマンスを発揮できない。それは里緒自身が立川音楽まつりで体験した法則でもあった。逃れられない緊張を身にまとったまま舞台に立って、それでもしも失敗するようなことがあれば──。想像するのもつらくなって唇を噛むと、膨らんだ痛みは宙に溶け、言い様のない気持ち悪さが全身を包み込む。なぜだか、紅良も同じものを感じ取っているのではないかと思えて、里緒は胸の奥で叫んだ。
(──大丈夫。西元さんは絶対に大丈夫だよ。私たちがここでちゃんと聴いてるから)
無言の声援を送る程度のことしか叶わないのがもどかしい。けれども貧弱な語彙力と貧相な肯定力しか持ち合わせていない里緒には、たったそれだけを叫ぶのが精一杯だった。
指揮棒を右手に引っ掛けた指揮者が、舞台上を突っ切って台の前まで歩いてきた。プログラムには【恵庭正義】と名前が記載されているが、彼がどれほど高名な人物なのかを里緒は知らない。それでも観客たちが手を叩いて彼を迎えたので、里緒も花音も真似をして拍手を見舞った。夢中で拍手を打っていると、手のひらの痛みと引き換えに緊張が少し和らいだ。
すると、団員たちが一斉に姿勢を正し、楽器を構える準備を整えた。
奏者同士の合間に、ふたたび紅良の姿が窺えた。
息を飲んで、里緒は懸命に紅良を睨んだ。
紅良は目を閉じていた。そこにはもはや緊張の色も、臆病な目付きも、ありとあらゆる感情の動きを読み取ることができない。彼女はまるで蝋人形のような静謐さに身を包んでいた。里緒にはそれが、白のペンキでひび割れを塗りつぶし、なおも淡々と陽の光を浴びて輝こうとする月の姿に見えた。
「始まる」
と、花音がつぶやいた。
振り上がった指揮棒の先端が中空で静止し、並ぶ団員たちが楽器を取り上げて構える。里緒は紅良からいっこうに視線を剥がすことができないまま、その一挙手一投足を夢中で見守った。
静寂が世界を支配した。
そして、静かな世界は指揮棒の白い一閃とともに破られた。
規則正しいスネアドラムの律動に、低音楽器の柔らかな絨毯がかけられる。かと思うと、控えめに弾けたシンバルと金管楽器の飛ばす高音が、長いコンサートの始まりを宣言した。トランペットの歌い上げる主旋律はスローテンポながらも輝かしく、優雅で麗しい。打ち上がった大きな花火の隙間を埋めるように、伴奏楽器の音が穏やかに波を打って舞台上を彩る。
楽団の人数が多い分、音の厚みが違う。ひとつのパートに何人もの団員が属していながら、それでいて吹き奏でられる旋律に不自然な波は打たれない。ただ広く、深く、豊かに華やぐ世界が、千二百人の聴衆を巻き込んでホールを隙間なく包み込む。
里緒も、それからたぶん花音も、無意識に固めてしまった息のやり場に困っていた。
新入団員ばかりを集めた楽団でさえ、これだけ美しく整った演奏を放つ。これが、世に名高い国立WOの実力。紅良の属する楽団の演奏なのだ。
(すごい)
喘ぐようにして呼吸を済ませた刹那、重い響きの轟くシンバルに合わせて2ndクラリネットパートの面々がわずかに顎を引いた。息を吸い込んだのに気づいた瞬間、沈み込むように金管楽器の主旋律が消え、木管の優しい音が舞台の上へ舞い降りた。
いつしか紅良の様子は一変していた。
管体に這わせた指のしなやかな動きに迷いはなく、その瞳は指揮者の躍動を視界の隅で捉えながら、眼前に据えられた譜面台を貫いてびくともしない。里緒は紅良を無我夢中で見つめた。全身の神経を彼女の胸に集中させると、紅良の放つ音だけが明確に峻別されて聴こえてきた。
明るい、芳しい、求められる音だけを正確に抽出したかのように丁寧な、調べの響き。真面目な紅良らしい丹念な音の積み重ねだ。
あっという間にクラリネットが主役の箇所は幕を閉じ、入れ替わるようにして金管楽器の控えめな音色が膨れ上がった。ふたたび伴奏に徹し始めた紅良の、ぴんと誇らしく伸びた背筋を目の当たりにして、演奏前の懸念がまったくの杞憂に終わったことを里緒は全霊で思い知らされた。
つい先ほどまでの臆病に背を縮めた紅良は、もはや舞台の上には見当たらない。そこではいつもの強い紅良がライトを浴び、逞しい銀色に燃えている。
要所要所にシンバルの刻む節を挟んで、主人公を入れ換えながら曲は進んでゆく。それは、勝者の喜びも、敗者の嘆きも、傍観者の憂いも何もかもを飲み込んで天に昇華させる、優しくも切ない終幕の調べ。やがて、昇華した感情が輝きを放ちながら燃えるように、一気に盛り上がった金管のファンファーレが爆発し、冒頭の主題を繰り返して締めに入る。
「これ、駅伝の曲だ……!」
花音が小声で叫んだ。
久石譲作曲〈吹奏楽のための『ランナー・オブ・ザ・スピリット』ED〉。民放の大学駅伝実況番組を彩るテーマソングとして巷では有名である。勇ましい出だしの大曲を見事に演奏しきった国立WO団員たちの姿は、満天の照明の下に大きく、華々しく煌めいて、唇を結んだ里緒たちの耳に力強い情熱の律動を刻み付けた。
コンサートが終わって間もなく、紅良からメッセージが送られてきた。
【ホールで待ってて】
わずか八文字の簡潔な文面だった。慌ただしい状況で打ったのだろうと予想しつつ、記入を済ませた来場者アンケートを回収箱に投入して、花音と二人で紅良の到着を待った。
聴衆たちは三々五々、自動ドアをくぐってホールの外へ出てゆく。思うように身体へ力が入らなくて、満足げな彼らの顔をぼんやりと眺めていたら、そのなかに偶然にも舞香や真綾の姿を見つけた。互いに「来てたんだ!」と驚いて、理由を聞いた。真綾は舞香のおまけで、舞香は幼馴染みのつばさに誘われて来ていたのだという。
「わたしにフルートの魅力を教えてくれた子だからさ。普段、あの子がどんな世界で音楽と向き合ってるのかも知りたかったし」
照れくさそうに頭を掻いた舞香の瞳も、隣に立つ真綾の瞳も、潤みのかかった静かな輝きを帯びていた。彼女たちもまた、国立WOのかけた魔法に囚われている。仲間を見つけた気になって、里緒の胸は柔らかに温かくなった。
「すごいよね、国立WO」
隣に立つ花音が首を震わせた。
「私、ぞわーってきちゃったもん。最初の演奏聴いただけで、まいまいみたいに半泣きになってた」
「別に泣いてないし」
すかさず舞香は照れ気味に言い返す。でも、と逆接を挟んだ彼女の視線は、背後のガラス壁の彼方に広がる夕空を目掛け、ゆっくりと昇っていった。
「本当にすごい演奏を聴くとああなるんだってのは実感したな。全身の肌が粟立って、いても立ってもいられなくなる。心の中で何かが爆発して収拾つかなくなる。……あれくらい聴き手の心を鷲掴みにする演奏をしなきゃいけないんだね、うちら」
喘ぐように舞香は言葉を重ねた。最後の言葉はコンクール組仲間の里緒に向けられたものだったことだろう。「うん」と応じたら自然と視線が足元に引き寄せられて、里緒はうつむいた。動作のベクトルが真逆でも、舞香の胸に宿った思いと自分の抱える思いは同じもののはずだった。
「じゃねー」と笑った舞香と真綾が立ち去り、入れ替わりに紅良の姿が人波の向こうへ現れても、里緒の細い身体からはまだ、コンサートで受けた波動の余韻が抜けきらずにいた。
ただ、美しいと思った。他に適した語彙は浮かばなかった。どんなに豊かな川の音も、可愛げな鳥の声も、血の脈を打つ心臓の鼓動でさえもが、国立WOの披露した音楽の前では色彩を欠いて聴こえるほどに、彼らの演奏は破壊的な美しさの調べを描いて一人の女子高生を叩きのめしたのだ。
こんな演奏をしたい。
誰かの胸を震わせてみたい。
平らな胸の内側で、確かな衝動が踊っている。舞香の残したコメントがいっそう心に染みた。ともかく多少は落ち着かせようと深呼吸を試みていると、うつむいた視界に紅良の足が入ってきた。
「おつかれ西元!」
花音が嬉しげに声を投げかける。見上げた視線の先に、苦しげに肩を上下させながら紅良が立った。
「ごめんなさい。待たせた」
彼女は抑えつけられた声で応じた。
いつもの紅良と変わらない、どこか聴き手を突き放す響きのある言葉選びだった。けれども里緒は一瞬、その言葉尻のどこかへ違和感を嗅ぎ取った。違和感の正体はよく分からなかった。
「待ってないよー。ね、里緒ちゃん」
花音が強引に里緒を会話へ巻き込もうとする。慌てて「うん」と笑顔を繕った里緒は、どことなく虚ろな紅良の表情をまっすぐに見つめて、次に自分の伝えるべき言葉を考えた。
──演奏、すごかった。
──かっこよかったよ。
──誘ってくれてありがとう。
かけられる言葉やかけるべき言葉はいくつも思い当たる。どれにしよう、どれにすべきか。迷い始めたら無限に迷いを深める気がして、とっさに脳裏へ浮かんだ言葉を里緒は送り出した。
「その……。西元さん、緊張してた?」
「二人がいたから力をもらえてるのは私も同じだもん。だから、そんな寂しそうに笑わないでよ」
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