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クラリオンの息吹  作者: 蒼原悠
第五楽章 奏でよ、悠久のレクイエム
175/231

C.164 取材と本心

 




 仙台駅のホームに降り立つと、わずかながらも東京との気温差を肌に覚える。東北地方の猛暑は首都圏ほど厳しくない。まくっていた腕を戻した紬は、ホームを滑り出す青緑色の新幹線を見送って、改札階行きのエスカレーターに足を踏み入れた。

 東北新幹線の利用も気付けば三度目。我ながら、ずいぶん慣れたものだと思う。

 予定では、午後二時にステンドグラス前で合流となっていた。念のために手帳を開き、書き込まれた時刻を確認した。仙台駅の中央改札前には大きなステンドグラスが嵌まっていて、駅前エリアの待ち合わせ場所として市民に親しまれている。

 仕事柄、見知らぬ人と会って話をすることに特段の抵抗は持っていない。しかし今度ばかりは例外のようで、紬の肩には普段以上に余計な力が入っていた。凝った肩を回し、改札を抜け、階下を見下ろした。無数の人の行き交うコンコースの向こうに、目指す待ち合わせ場所を窺うことができた。


 待ち合わせの相手は、かつての里緒の担任──橿原秀樹。

 それも個人的な呼び出しを受けての対面だった。

 いつも共同で取材をしている仙台支局の幸手が、今回は紬に同行しない。不慣れな街での不慣れな取材に、紬は孤立無援で挑もうとしている。


(話したいことがあるって聞いたけど、用件は結局、よく分からないままだったな)


 紬は目を閉じた。駅舎のなかを吹き抜けた涼風が、到着した異国民の覚悟を試すように頬を引っ(ぱた)き、音も立てずに笑って消える。不安定なバランスで胸に入り交じる期待と懸念が、(はた)かれた場所から(あらわ)になった。






 橿原と会うのは一ヶ月ぶりのことになる。聞けば、幸手たち仙台支局の取材班は今も継続的に彼と接触を繰り返しているようで、取材にも互いに慣れを覚え始めてきているようだ。

 橿原の顔はいくらか明るくなっていた。服装もジャージではなく、フォーマルなスタイルのスーツ。出で立ちに(にじ)むオーラからは、以前のような弱々しさを感じさせなかった。


「お忙しいところ呼び立ててすみませんでした。まさかこんな形で、私のわがままを聞いていただけるなんて」


 近場のカフェに腰を落ち着けると、橿原は丁重に謝意を口にした。「いえ」と作り笑いを描いて、紬は手帳をテーブルに置いた。断っておくが、橿原のわがままを実現させるために来たのではない。


「お忙しいのは橿原さんも同じではないですか。部活動の指導もあるでしょうし、そろそろ夏休みも明ける頃だと思いますが……」


 尋ね返すと、橿原は気まずげに視線を反らした。


「神林さんにはお伝えしていませんでしたね。……私、辞めたんです」

「え?」

「もう佐野中には勤務していません。今はひとまず、次の就職先を探している身です」


 橿原の表情が明るく見えたのはそのせいか。軟弱そうな橿原にしてはずいぶん思いきった行動を取ったものだと紬は思った。彼をそこまで駆り立てたのは一体、何だろう。


「それはやはり、居づらかったから……ですか」

「それもあります。あの取材以来、鳴瀬校長だけでなく、同僚たちからも睨まれるようになったので」


 橿原は苦笑した。校長という枷を失った彼の表情は、紬の知っている以上に豊かだった。


「でも、思うところは他にも山ほどあります。一番大きかったのはやっぱり、資格、でしょうか」

「資格?」

「圧迫に近い形で周囲の干渉を受けていたとはいえ、私が自分の生徒の受けていたいじめから目を背けたのは事実です。目の前で苦しむ生徒を守るよりも校内の秩序を優先した私に、教師を続ける資格があるようにはどうしても思えなかった。ずっと一人で葛藤を抱え込んでいたんですが、幸手さんと神林さんのいらした取材を境に、その思いが一気に吹っ切れてカタチになりました」


 彼の言う“吹っ切れた”瞬間が何だったのか、紬には無言のうちに察せられた。取材中、幸手に詰め寄られて態度を急変させた橿原は、それまで自分を操り続けてきた校長の所業を本人の目の前で告発する暴挙に出ている。あれがきっかけなら納得もゆく。「なるほど」などと定型の相槌を打ちながら、忘れかけていたメモを執りにかかった。

 橿原が慌てて口を挟んだ。


「教師を完全に辞めたいわけではないんです。ただ、一区切りをつけたいと思っただけで……。いくらか時間が経って、きちんと生徒に向き合えるようになれば、また教職に戻りたいと考えています」

「何に対して一区切りをつけようと?」

「ひとつは、教師失格な振る舞いに染まった自分。もうひとつは……あの学校や、あの地域そのもの、でしょうか」


 橿原はコーヒーを啜った。カップから香る湯気の向こうで、細められた瞳が少し暗くなった。


「ここ一ヶ月間だけでも、“高松家へのいじめに荷担した犯人”として、佐野中の卒業生や保護者が何人もネットで顔写真や実名をさらされています。もちろん、それは決して正しいことではないと思います。当事者でも法執行機関でもない者が罰を与えたら、それは私刑(リンチ)になってしまうから」

「……ええ」

「しかし正しいかどうかはともかくとして、あれだけの実名さらしを経ても、あの町の大人たちは何も変わらなかった。真実を告白した私は職員室の中で遠巻きにされましたし、家にはいたずら電話がかけられるようになりました。今でも佐野地区は記者を追い返し続けています」

「…………」

「確かに、生活を守るために記者の締め出しは必要かもしれません。でも、あの町で生きる人々にとっては私も、高松さん一家も、事件に憤りの声を挙げる人たちも、どれも所詮は鬱陶しい排除対象のノイズに過ぎなかったのかもしれない。……そう考えたら、なんだかやりきれなくて」


 (かぶり)を振った橿原は、ふたたびコーヒーに口をつける。一区切りをつけたというより、決別したと表現するのが正しいのか。受け止めた言葉を上手く噛み砕けない苦味を味わいながら、紬は手帳にペンを走らせ、一呼吸の代わりにアイスティーのストローをくわえた。

 自分ひとりが抗ったところで、この町や学校は変わらない──。橿原はそう考え、仕事とともに町や学校を離れる判断を選んだ。理屈としては正しいのだけれど、素直に胸を張って『是』と肯定するのも、それはそれで合点がいかなかったのだ。


(逃げ出す以外の対抗手段がないのだとしたら、また、里緒ちゃんみたいにいじめを受ける子が出てきてもおかしくない)


 橿原の出した結論を額面通りに受け取れば、いじめを防ぐのは無理だと認めることになる。物事を絶対と決めつけるような真似はジャーナリズムと相容(あいい)れないし、新聞記者としても一個人としても取りたくない。けれども、実際に『仙台母子いじめ自殺事件』の動向を誰よりも近くで見ていた橿原の結論には、否定しきれない重さが確かに伴っていた。

 底冷えのする沈黙が場に満ちる。冷房の効き過ぎを疑いながら、紬はスーツの袖を引っ張って伸ばした。橿原はコーヒーカップに視線を落としていた。


「……お話ししたかったというのは、今の話のことですか?」


 尋ねると、橿原は持ち上げた顔をゆっくりと横に振った。


「幸手さんから伺いました。神林さんは何度か、高松里緒さんに会って話をしたことがあるそうですね」

「ええ、ありますが……」

「あの子は今、どうしていますか」


 どうしているだろう。メモを終えた手帳を閉じ、そっと両手を重ねて、紬は橿原の背後に視線を投げた。

 里緒と親交があったのは事実だ。しかし今は大祐を通すことでしか、里緒の動向には触れられない。


「高校では音楽系の部活動に入って、毎日、練習に励んでいるみたいですよ。今度コンクールにも出るようです」


 核心だけは隠すつもりで言葉を選び、つないだ。橿原の瞳には優しい色が溶けた。


「学校や部活には通えているんですね」

「私の知る限りは……ですけれども」

「よかった。それを聞けただけでも、少し心の(つか)えが取れました」


 橿原は一瞬ばかり微笑んだ。

 あんな言葉で何の(つか)えが取れるというのか──。その頬に次第に憂いが乗り、感情が挿し換わってゆくのを、紬は呆気に取られながら見つめた。


「ずっと、謝りたいと思っていたんです」


 虚ろな声色で橿原は続けた。


「苦しんでいるのを知っていたのに何もできなかったことを、高松さんには謝りたい。この二ヶ月間ほど、そのことをモチベーションにして日々を生きてきたんです。せめて自分に何かできることはないかと思って、学校で保管されていた手紙を皆さんにお渡ししたり、積極的に取材を受けたり、色々と行動も起こしてきました。第三者委員会の聞き取り調査にも応じています。ですが、それでは足りない。私のしでかしたことの贖罪は、里緒さんとご両親に謝罪することでしか果たせないと思うんです。今さら何をしたところで、里緒さんの失ったものを取り戻すことはできないから」


 紬は相槌を打つ代わりに目を伏せた。何重もの意味で、もっともだと思う。


「でも、私が(じか)に謝ろうとしても、きっと里緒さんは謝罪を受け取ってはくれないと思います。里緒さんにとっては私も、鳴瀬校長も、いじめに荷担した生徒たちも、みんな同じに見えるでしょう」


 いっとき唇を噛んだ橿原は、だから、と接続詞を挟んで身を乗り出した。


「お願いです。こんなことを新聞記者の方に頼むのは筋が違うと思いますが、私にはこれ以上の手段が思いつかないんです。私が謝りたいと願っていること、どうか里緒さんに伝えてもらえませんか」

「……それが、お話ししたかった内容ですか?」

「神林さんでなければお話しできないことだと思って、今まで誰にも言わずにきました」


 それは果たして信用されているのか、それとも単に宛てにされているだけか。どちらであっても大差はないのかもしれない。紬は目を伏せたまま、視線を当てる場所を横滑りさせた。窓から差し込んだ午後の陽光が、橿原のコーヒーカップの隣に長い影を描いていた。

 彼に悪意はなかろう。けれども残念ながら橿原には、(カップ)の陽の当たっている側しか見えていない。

 里緒に拒まれているのは、紬とて、同じなのだ。


「聞いていただけないですか」


 橿原の声色が崩れた。いえ、と泡を食って場を繕ったが、あとに続く言葉は何も浮かばず、紬は黙りこくった。

 里緒を追い詰める手助けをしたはずの紬が、こうして公憤の代弁者の顔をしながら、橿原の過去を明らかにしようとしている。その自己矛盾をどんな言葉で説明したら伝わるのか、分からなかった。


「……橿原さんのお気持ちは分かるんです。私が逆の立場なら、同じことをしていたと思います」


 うつむいたまま、紬は答えを切り出した。


「でも、今は橿原さんの要望には応じられません。あの子がいつか落ち着きを取り戻して、今よりも強くなって戻ってくるまで、私たちはそっとしておくべきだと思います」

「……なぜ、そうお考えになるんです」

「私も橿原さんと同じだからです」

「同じなんですか?」


 橿原は意外めいた声で応じた。それが当たり前の反応だと紬は思う。詳しいことは話せないので、なぜ紬と橿原が同じ境遇にあるのか、橿原が知ることは当分ないだろう。


「あの子は私たちが思っているよりも強い子ですし、今は味方がきちんと周りにいるようです。だからきっと息を吹き返して、橿原さんの前に姿を現してくれます。いつか訪れるその日まで、誠実に向き合う気持ちを持ち続けることが、私や橿原さんの責務なんじゃないでしょうか」

「神林さん……」

「贖罪の欲を満たすためだけに一方的に謝罪を突き付けるのは、少し、違うんじゃないかと思います」


 テーブルの上で跳ねた紬の台詞は、紬と橿原の間を器用に跳ね回る。思ってもみない制止を受け止めきれなかったのか、橿原は黙り込んでしまった。

 紬は何も、橿原の軽率さを糾弾したいのではない。発した言葉は自分自身にも向いている。一時期は私も、謝ることにばかり固執していたんだったな──。情けない笑窪を彫った紬は、ようやく顔を上げて橿原を見つめた。長い時間をかけて割り切れるようになった今だからこそ、こうして橿原を冷静に見つめ返すことができる。

 大丈夫だ。

 後悔が背中を押してくれる限り、紬も、橿原も、前に進んでゆける。だから、


「里緒ちゃんのこと、一緒に信じてみませんか」


 紬は優しく畳み掛けた。

 与えられた提案を咀嚼するのに手間取ったのか、橿原はしばらく言葉を返さなかった。その胸を渦巻く葛藤の重みを紬は知っている。だから、やがて彼の顔に静かに血が巡り、色が戻るのを、紬は黙って待ち続けた。融けかけの氷がアイスティーのグラスの中で砕けて、からん、と軽やかに微笑んだ。








「西元さんは絶対に大丈夫だよ。私たちがここでちゃんと聴いてるから」


▶▶▶次回 『C.165 サマーコンサート【Ⅰ】』

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