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クラリオンの息吹  作者: 蒼原悠
第五楽章 奏でよ、悠久のレクイエム
174/231

C.163 誘いの声

 




 大祐たちの提出した訴状は、すみやかに被告側へ届けられた。間もなく、当事者の佐野中学校と教育委員会、そして被告に指名された仙台市が合同で記者会見を行い、いじめ事件の被害者から訴えられたことを報告した。

 教育委員会の立場としては、第三者委員会の調査が完了していない現状、訴状に並べられた賠償責任をただちに認めることはできないという。学校もこれに追従する形で『いじめは解決済みだ』と主張し、真っ向から大祐たちに争う姿勢を示した。

 会場にはテレビカメラや新聞記者が押し掛け、会見の模様は夕方のニュース番組で大々的に報じられた。聞くところによれば、校長の鳴瀬も出席していたらしい。


【今夜はニュース見ない方がいいよ。見たくない人が出てるかも】


 身を案じてくれたのか、花音からは忠告のメッセージが送られてきた。

 東京に暮らしている限り、こうして里緒を守ってくれる手がある。花音や紅良や管弦楽部の仲間たち、それに大祐のような庇護者のもとで、里緒は孤立無援ではなくなる。それでもやっぱり、往時の記憶を取り沙汰する報道を少しでも目に入れれば、怖くなって、痛くなって、息が詰まりかける。

 その晩、里緒はテレビのリモコンに指を伸ばさなかった。新聞のテレビ欄に目を通した大祐が、横からリモコンを拾い上げ、民放のバラエティ番組を()けてくれた。中身のない話題で賑やかに盛り上がるタレントたちの姿は平和で、長閑(のどか)で、彼らを見つめる里緒の心も不思議と穏やかに鎮まった。






「──それじゃ、今日の練習はここまで。明日もまた午後一時からね。お疲れさまでした」


 はじめの号令に、「お疲れさまでした!」と部員たちの叫ぶ声が折り重なって反響した。午後四時、管弦楽部はいつも通りの練習日程を終え、解散の時間を迎えた。

 ただし、解散するのはコンクール不参加組の部員だけである。


「今日も居残り練?」


 隣の花音が身を乗り出してきた。借り物のクラリネットを膝の上でいじくりながら、「うん」と里緒は応じた。

 コンクール組の延長練習は今に始まったことではないのに、花音は毎度毎度、必ず自分の口で、今日も居残りなのかと尋ねてくる。いつか里緒が否定してくれるのを待っているようで、肯定するたびに里緒の胸には小さな痛みが走った。


「そっかー」


 つまらなそうに唇を尖らせた花音の向こうで、菊乃の周囲にコンクール組メンバーが集まっている。行かなきゃ、と独り言ちて、足早に花音のそばを駆け抜けた。十分後の練習再開を叫ぶ菊乃の声が、薄く汗の匂いのにじんだ音楽室に残響を刻んで、窓から差し込む夕暮れ前の空の光に溶けた。

 居残りのコンクール練習はもっぱら合奏形式で行われていた。今のところ、特に目立った課題があるわけではなく、個々の不得意な点を一歩ずつ潰しながら練習は順調に進みつつある。とはいえ、毎日の長時間練習が身体に堪えているのは事実で、コンクールメンバーの顔は総じて明るくはなかった。

 その筆頭は舞香である。


「疲れたー……。暑い……」


 菊乃の目もはばからずに、舞香は机の上へ身を投げ出している。その傍らに腰掛けていた緋菜が、近寄ってきた里緒に「ねね」と声を放った。


「『ぜんぜん周りに追い付けなくてしんどい』って舞香が言うんだけど、高松さん、どう思う?」

「わ、私が?」

「高松さん独奏(ソロ)だから、他のパートの音をいちばん聴きやすいだろうし、聴いてるだろうなーって」


 間延びした口調で問いを重ねた緋菜を、「やめてよ」と(うな)った舞香が指先で小突く。照れと苛立ちの入り雑じった紅色の健康的な頬に、里緒は思わず、ため息とも深呼吸ともつかない濁った呼気を漏らした。

 コンクール組の仲間たちのなかでも、とりわけ舞香は疲労を声高に主張する方の子だった。でも、それは決して彼女が怠惰だからではない。それもそのはず、舞香は毎日朝早くから登校して、パートの練習に励んでいるのだ。『遅れてコンクール組に加入したわたしが、みんなの足引っ張るわけにはいかない』というのが彼女の言い分だった。中学の頃に所属していた合唱部にも早朝練習があったそうで、本人としては早い時間から自主練に取り組むのを苦には思っていないらしい。


「疲れてんのは早朝練のせいじゃないから」


 寝そべりながら舞香はきっぱり言い切った。


「やって当然の努力をしてるだけだし。ただ、ときどき単純に、成果きちんと出てるのかなって不安になるだけ」

「……あるよね。そういう気分になること」


 里緒はつぶやいた。「分かるんだ」と舞香が眉を傾けて笑った。

 完璧に『分かっている』のかと問われれば、うなずけるほどの自信はない。けれども、身に余る期待を背負って何かを成し遂げようとしている人なら、きっと誰もが同じ不安を抱えているはずだと里緒は思うのだ。


「えと、独奏(ソロ)やってる私の主観だし、あんまり参考にはならないかもしれないけど……」


 立ちっぱなしのまま里緒は声を絞り出した。舞香と緋菜が、汗の浮いた額を持ち上げる。それを見て一拍、呼吸を挟んだ。


「私は白石さんの演奏が実力不足だとか、そんな風に思ったことないよ。フルートパートの人たち、いっつもきれいに揃ってて、全合奏(トゥッティ)のところとかすごく演奏しやすい。滝川先輩がリードしてるのは事実かもしれないけど、だからって白石さんも長浜先輩も下手だなんて思わないよ」

「本当?」


 腕を組んだ舞香が身を乗り出した。


「前みたいに変な気とか遣ってない?」

「本当……のつもり」


 答えているうちに自信がなくなって、つい、余計な修飾句を加えてしまった。けれども間違いなく自信を持って言えることだった。

 舞香だけではない。ヴァイオリンの佐和だって、ホルンの実森だって、既存のメンバーに食らいつこうと必死に頑張っている。その姿を里緒は確かに見てきたし、実際、合奏をする上で彼女たちの演奏レベルの低さを実感することはなかった。実際のところ独奏(ソロ)以外の楽器に関しては、最終的に曲全体の調和が取れていれば大きな問題はない。あとは奏者自身の満足度の問題なのだ。


「わたし須磨先生からも菊乃先輩からも『音の粒が荒くて雑』って言われてるけど、それでも?」


 舞香は顔を横向きに伏せたまま、試し切りのような疑問符を里緒の首元に突きつけてきた。キイの凹凸を感じながらクラリネットを握りしめ、うなずいてまっすぐに舞香を見つめた。こういう場面であまり不用意な言葉を発したくはなかった。

 それでも舞香は(いぶか)るように、(えぐ)るように、里緒の顔を覗き込み続けた。

 やがて。


「そっか」


 ビー玉ほどの声を床に転がした舞香は、頭の下敷きにしていたフルートを取り上げ、顔の前に持っていって(もてあそ)び始めた。

 銀色の管体が邪魔で顔色がうまく窺えない。だが、かろうじて指の端から覗く口元の傾きが、なんだか里緒には上を向いているように見えた。


「もっと素直に喜んだらいいのに……」


 呆れ気味に緋菜が嘆息する。その隣にしゃがみ込んで、つかの間の休息を(たしな)みながら、里緒は自分の言葉が舞香を励ます一助になったのをようやく実感した。

 自分の思いが誰かに通じている。それは今、この場に自分の存在意義が確かに存在していたことも意味する優しい事実だ。よかった──。胸のなかに向かって吐息を落としたら、皮膚へ滲んだ疲労が急に重たくなった。

 こんな形で意見を求められるなんて、里緒もずいぶん二人の信頼を受けるようになったものだと思う。かつて無限の好奇心で里緒という人格を知りたがった舞香と、孤独だった里緒にシンパシーを覚えて近寄ってきてくれた緋菜。花音のいないコンクール組メンバーの中では、この二人こそが里緒の心の支えだ。困っていれば声をかけてくれるし、こうして仲間に招き入れてくれるのだから。


(不安に思ってることがあるのは私も同じだな)


 ふと、舞香への共感が胸に(またた)く。足を浮かせ、ほこりを払った床に腰を下ろした里緒は、さりげない風を装って問いかけの声をあげた。この二人ならば聞き流さないでくれると期待をかけて。


「…………ね」


 相変わらず蚊の鳴くような声で情けなくなる。それもそのはず、里緒が自発的に二人に相談を求めるのは、これが初めてのことだった。

「んー」と舞香が鼻から抜けるような返事を寄越してきた。首を傾げた緋菜と彼女に、里緒は思いきって質問の続きを口にした。


「二人から見て、今の私の課題って何かな。何を頑張ったらいいのかな」

「課題?」

「どこどこの部分が下手くそとか、そういう?」

「下手くそっていうより、『こういうことしたらいいんじゃない?』っていうような……。思い当たるのがあれば、だけど」


 演奏の方向性を定め、放つ音のイメージを明確に決めて練習に挑むようになってからというもの、近ごろ里緒には表現面に関しての指摘の言葉がちっとも飛んでこなくなっていた。もっとも〈クラリネット協奏曲〉の演奏イメージを提案したのは里緒自身だし、演奏技術面に関してはまだまだ指摘の嵐を喰らい続けているのだが、指摘らしい指摘の数が減ってくると不安になる。このまま何となく目の前のミスや技術不足を補ってゆくだけで、果たして求められる音を放てるようになるのだろうか。


「そりゃ決まってるでしょ」


 存外、すぐに舞香が応じた。


「慣れだよ」

「な、慣れ?」


 里緒の目は点になった。予想外の切り口から指摘を受けた気分がした。


「だってほら、立川音楽まつりの時みたいに、ガチガチの状態で本番に臨まなくてもいいようにしないとじゃん。特に今回は独奏(ソロ)なわけだしさ」

「いつ、どんなコンディションで合奏やっても完璧に吹けるくらいに仕上げておけば、失敗の不安もなくなるから緊張しなくなるんじゃないかな」


 舞香に続けて畳み掛けた緋菜が、「そりゃ厳しいか」と自発的に突っ込みを入れて笑った。しかし当の里緒はひどく納得した気持ちになって、開きかけの唇をきゅっと引き締めた。

 舞香と緋菜の言う通りだった。舞台に立って、人前で演奏を披露することへの抵抗を、里緒は少しでも減らしてゆかなければならない。部の未来を背負うコンクールの舞台で、今度こそ立川音楽まつりの失敗を繰り返すわけにはいかないのだから。


「まー、でもそれって口で言うほど簡単じゃないよね。そういうのってたぶん、その人の個性とかタイプにも左右されるだろうしさ」

「高松さんの場合は特になー。抱えてる事情も事情だしね……」


 フルートを置いた舞香が突っ伏したまま伸びをすると、うなずいた緋菜が眉間にしわを寄せる。里緒まで釣られて眉を傾けてしまった。

 舞台の上か否かを問わず、里緒はいつ、どこにいたって人目を気にしてしまう。いじめ事件の報道が拡散されてからは特にその傾向が強い。それは他ならぬ里緒自身の自覚するところでもあった。


「……だよね」


 ひび割れた声で応じると、舞香も、緋菜も、複雑な面持ちで首を振った。

 精神的な部分に原因がある以上、それこそ緋菜の言うように、ひたむきに練習を重ねて実力を揺るぎのないものにし、自信に換えることで緊張を克服するしかないのだろう。なんにしても里緒の積むべき努力の方向は決まりきっていると言えた。


(今はとにかく完璧な演奏を目指すしかないんだ)


 そうと分かってさえいれば、これから先の練習も頑張れる。今の里緒に最も必要なのは、頑張り続けるための燃料(動機)だった。


「よーし! そろそろやろっか!」


 向こうで菊乃が声を張った。気怠(けだる)げな身を起こした舞香が「はーい」と呻き、緋菜も立ち上がる。真似をして里緒が足を踏ん張った、その時──。

 不意に誰かの手が肩に触れた。


「里緒ちゃん」

「うひゃあ!?」


 たまらず里緒は悲鳴を上げた。顔を真っ赤に染めながら振り返ると、そこには目を丸くしたまま棒立ちになった花音の姿があった。よかった、花音か──。安堵に胸を撫で下ろした里緒の横から、「まだ帰ってなかったんだ」と緋菜が(すく)んだ声をかける。


「んー、帰ってなかったっていうか、呼び止められたっていうか……」


 花音は気まずげに後方を振り向いた。

 視線の先を追った里緒の目に、音楽室の扉が映った。そこには一人の女子生徒の姿があって、里緒と花音に向かって手招きをしているのが見てとれた。

 自然と声が漏れた。


「西元さん……?」


 そこにいたのは紅良だったのだ。

 何だか分からないが、呼ばれている。「すみません」と菊乃に頭を下げ、いそいそと腰を上げて扉へ急いだ。花音の靴音が後ろをついてきた。

 手招きをやめた紅良は、おもむろにカバンへ手を突っ込んだ。その足元にはクラリネットのケースが腹這いになり、蛍光灯の白色光を淡々と浴びている。国立WOの練習に向かう途中だったらしい。


「どしたの?」


 花音が先んじて小声で尋ねた。紅良はすぐには答えず、花音と里緒の背後を見やって、眉を下げた。


「ごめんなさい。()の悪い時に来ちゃった」

「私の間は悪くなかったけど」

「そう。じゃあ高松さんの間だけ」


 自分から否定したくせに花音は(むく)れ始めた。紅良らしからぬ神妙な態度に戸惑っていると、紅良はカバンから取り出した二枚の紙を、一枚ずつに分けて指へ挟み、里緒と花音に向かって突き出した。


「よかったらこれ、来て」


 差し出された紙に里緒は視線を落とした。提出するだけで入場できるチケットのようで、【国立北多摩ウインドオーケストラ サマーコンサート】とある。イベント名を知らなくとも楽団の名前を見れば、何のチケットかは容易に想像がついた。

 これは、もしや──。


「チケット余ってるから。来たくなかったら来なくて大丈夫」


 早口に言った紅良は、二人の返事も聞かずにきびすを返し、さっさと立ち去ってしまった。「あっ、ちょっと!」──花音が声を投げたが、背中に当たって砕けた声は廊下に無駄な響きを放ち、散った。








「贖罪の欲を満たすためだけに一方的に謝罪を突き付けるのは、少し、違うんじゃないかと思います」


▶▶▶次回 『C.164 取材と本心』

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