C.162 訴訟提起
西成のもとを訪れ、瑠璃の死の真相を知らされてから、まもなく二週間が経とうとしている。
里緒の受けた衝撃は計り知れないものだっただろう。そして、おそらくは里緒と同じくらい──あるいは里緒以上に、自分の受けた衝撃は大きなものだったと大祐は自負していた。
それまでの前提を根こそぎ引っくり返されて、一気に事情が分からなくなった。混乱した頭は理性を失い、いたずらに悲しみと痛みばかりが喉に込み上げて、帰り道、ひた隠してきた過去を里緒の前で暴露した。吐き出さなければ息もできなかった。
会社でパワハラに遭ったばかりでなく、そのことを誰にも相談できなかっただなんて。意気地のない父親に思われただろうと大祐は悲嘆に暮れかけたが、里緒はそんな真似をする子ではなかった。自らも喉に声を詰まらせ、目尻に涙を溜め、里緒は『私こそ』と謝り返してきたのだ。
里緒の涙が嘘を含まない素直な心情の発露であることを、長年の勘で大祐は知っていた。何もできなかったことを互いに詫び、失ったものの大きさを全身に感じて、二人で情けなく泣きながら立川に帰り着いたものだった。
あの日、大祐と里緒の間にはようやく本来の意味で、親子のコミュニケーションが復活した。
少なくとも大祐はそう思っている。
そしてそれは、西成によってもたらされた瑠璃の死の新たな真相をともに受け入れようと奮闘する、初めの一歩となるべき時間でもあったはずだ。
京士郎との面談で交わした話の内容は、その夜のうちに里緒に伝えておいた。専門の心理カウンセラーが置かれると聞くや、たちまち里緒は表情を曇らせたが、遠慮は要らないと繰り返し言い聞かせた。
「里緒には苦しんでほしくないんだ。苦しいこととか、つらいこととか、そういうのは吐いた方が楽な時もある。吐ける相手は多いに越したことはない」
「……お父さんは、私にはカウンセラーさんがついていてほしいって思う?」
里緒は思いの外、ストレートな問い返しを放ってきた。とっさに応答の文句が浮かんだが、それがこの場にとって必ずしも相応しい答えではないのを悟った大祐は、唇を結んで返答を考えた。
悩んだ末に、少しばかり口角を上げた。
「父さんから押し付けることはしない。里緒が必要だと思うなら、お願いしたらいい。里緒の気持ちに任せる。どちらを選ぼうとも、それで父さんの役割が変わるわけじゃないからな」
放任の意図があるわけでは断じてなかった。カウンセリングの必要性の判断は里緒自身にしか行えないから、里緒に任せるしかないし、任せたいのだ。大祐の本意が通じたのか、里緒は三十秒近くも沈黙を保って思案にふけっていたが、やがて顔を上げて納得を示してくれた。
「……うん。そうする」
目元の肌に乗った真綿ほどの赤みが、愛娘の心境を雄弁に語っていた。ほっ、と安堵の息をついてみたら、大祐の頬にも同じ色が乗ったように思った。
二者面談の件と直接の関係はなかったが、話のついでにこれも尋ねてみた。
「里緒。前に、父さんが裁判を起こそうとしてるって話をしたこと、覚えてるか」
「うん。覚えてる」
「西成さんの話を聞いて、色んな前提が引っくり返った。もしかすると母さんの自殺の経緯は、父さんや里緒の思っていたようなものじゃなかったのかもしれない。……それでもな、父さんはやっぱり、学校とママ友たちを訴えようと思うんだ」
里緒の表情はいくらか強張ったが、それでも彼女は黙って大祐の話に耳を傾けてくれた。大祐もなるたけ懇切丁寧に、明快な筋書きで理由を説明したつもりだった。
瑠璃が自分自身の受けたいじめを苦にして自殺したのなら、そこに関与したママ友たちは無論、償いの責任を免れない。学校には里緒へのいじめを防げなかった過失がある。どちらも今さら謝って済むような話ではない。犯した行為の代償はきっちり支払うのが、大人の世界のあるべき姿だ。裁判を起こすのは、法の裁きによっていじめの事実を認定してもらい、彼らに自分の背負った責任の重みを痛感してもらうため。二度と忘れ去られることのない悔いを、彼らの濁った心に深く刻み込ませるため。
「和解に持ち込ませれば、学校やママ友の連中に謝罪を求めることもできるんだそうだ。賠償金なんかを求めて争うんじゃない。大切な家族を傷付けた連中に反省を促すために、裁判を起こしたいんだ」
懸命に訴えかける大祐を里緒は視界に入れず、ただ、食卓の下に隠れた足元ばかりを見つめていた。主張が弱くて、放っておくと他人の主張を一から十まで鵜呑みにしてしまうから、あえて斜めに構えることで話の核だけを捉えようとしていたのかもしれない。生母の瑠璃も同じ習性を持っていた。
「……うん」
やがて里緒は大祐を見上げて、うなずいた。
「私、まだ裁判のことはよく分からないし、起こす善し悪しの判断もできない。だから、お父さんに任せる」
謝罪を求めるすべもあるとは言え、形式的には金銭要求を突き付ける形で争わねばならないことが、やはり里緒にとっては腑に落ちないのだという。けれどもそれは大祐も同じだった。それに、里緒は決して投げやりな気持ちで大祐への委任を決めたわけではない。そのことを理解していたから、
「そうか」
大祐はそう答えた。
自然と、微笑が口をついて萌えた。向かいに腰かけた里緒も同じことをしていた。
完成した訴状を裁判所に提出して三日も経つと、原告代理人を務める弁護士の瑞浪から大祐のもとに電話がかかってきた。第一回口頭弁論、つまり最初の公判の日程を決めたいと、さっそく裁判所が連絡を取ってきたという。
「三日で連絡が来るだなんてずいぶん早いですよ。世間の注目を集めている事件だということ、先方も分かっているんですかね」
茶化すように笑った瑞浪は、事務所を訪れた大祐を応接のソファに案内してくれた。裁判所から提示されたという日程の候補は三つあった。これといってこだわりがあるわけでもなかったので、もっとも早い九月二十九日を選ぶことにした。
約一週間前の二十三日は、里緒の誕生日。そして、里緒が出場するコンクールの東京都大会の日程でもある。
これなら里緒のプライベートにも影響を与えずに済む──。内心、かなり胸を撫で下ろしてもいた。裁判沙汰となれば手間や苦労も増えるはず。そこへ里緒のことを過度に巻き込みたくはないし、里緒も巻き込まれるのを望みはしないだろうと思った。
それにつけても、送られてきた封筒に印字された【仙台地方裁判所】の文字を見るたび、いよいよ訴訟が本格指導したのを実感させられた。被告となる仙台市側のもとにも遠からず訴状が届けられ、対抗策の検討が始まるはずである。
「わざわざ我々が立川から仙台まで足を運ぶことになるんですね。こっちが原告だってのに……」
つぶやくと、瑞浪は喉を鳴らした。
「管轄の問題がありますからね。民事訴訟では、不法行為の発生した街に置かれている裁判所が、原則として当該裁判を引き受けることになっているんです」
「はぁ……。面倒なんですね」
「民訴法の定めですから仕方ありません。余計な手間をかけさせてくれる分、先方にはきっちり代償を支払っていただきましょう」
瑞浪の口からそんな言葉が聞かれると頼もしかった。自分より年下の男がこんなにも強く見える瞬間を、大祐は他に知らない。
「里緒さんの承諾も無事に得られてよかった。相変わらず世論も我々の味方をしていますし、いじめを立証するに足る証拠は十分に揃っていますから、この裁判に限って負けることはないと思いますよ」
すがすがしく豪語した瑞浪が、傍らの湯飲みを握って口元へ傾けた。
自分も倣って湯飲みに手を伸ばしながら、もしもそれが実現するならばどれほど嬉しいだろう、なんて考えた。──いや、嬉しさとは少し違う感慨を味わうのかもしれない。それこそ里緒の言う通り、裁判に勝ったところで瑠璃が生き返るわけではない。負った痛みや悲しみが癒えるわけでもない。
きっと得られるのは、死んでしまった瑠璃も浮かばれるだろうという安心感。そして、長く引きずり続けた過去の記憶という名の鎖を、ようやくいくらか切り放せることへの解放感。
傍目には些細なことに見えるだろう。だが、いつか大祐や里緒が胸を張って未来を生きてゆくために、その二つを欠かすことはできないのだ。
「先生」
呼びかけると瑞浪が眉を上げた。
姿勢を改め、大祐は声を張った。
「これからもよろしくお願いします」
「こちらこそ。高松さんの味方の一翼を、私どもにも担わせてください」
瑞浪は凛と応じて笑った。揺るぎのない自信に裏付けられた明るい未来の展望が、彼の描いた表情には隅々まで表現されきっていた。
「チケット余ってるから。来たくなかったら来なくて大丈夫」
▶▶▶次回 『C.163 誘いの声』