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クラリオンの息吹  作者: 蒼原悠
第五楽章 奏でよ、悠久のレクイエム
172/231

C.161 舞台上の覚悟

 




 “西元紅良”の名前を与えられ、この十六年を生きてきた。

 苗字はまだしも、“Clara(クララ)”などと洋風に表記できる可愛らしい響きの名前を、生まれてこのかた紅良は一度も好きになれずにいた。それは一つには、お世辞にも可愛いげがあるとは言えない自分自身の性格と、名前の(かも)し出すメルヘンな雰囲気が不釣り合いすぎるから。二つには、その不釣り合いさを周囲に笑われ、からかわれ、不愉快な学校生活を送らされた過去があるから。そして三つ目には、かつて名付けの理由を両親に問うたら、とんでもない答えが返ってきたことがあるためだった。

 彼らの言い分は──『何となくよさげでしょ。それだけよ』。両親は愛娘の名付けにまったくこだわる意思を持っていなかったのだ。名前は親から子への最初の贈り物だといわれる。その贈り物の選別にすら気を払わない彼らの姿勢が、思えば、紅良に対する両親の向き合い方を象徴していた。

 忙しいのか、さもなくば遊び歩いているのか、紅良の親はほとんど自宅で過ごす時間を持たない。深夜に帰ってきては酒を煽り、騒ぎ、崩れ落ちるように眠って、翌朝になれば慌ただしく家を出てゆく日々を送っている。その瞳に、一人娘の紅良が映っている時間はほとんどなく、あったとしても蚊やハエを払うように邪険に扱われる。

 西元家に紅良の居場所はなかった。

 けれども学校に居場所があるわけでもなかった。

 誰からも求められず、誰からも待ち望まれない。その悲しみを余すところなく投影しているのが、放任な両親から投げやりに与えられた“紅良”の名だったのだ。


 紅良は自分の名前が嫌いだった。

 与えられた在り方を否定し、自分の意思で見つけた存在意義にすがりつかなければ、生きてゆくことができなかった。






 組み立てた楽器と譜面の束を抱え、出演者溜の扉から花道に出ると、ホールの巨大な空間が高々と広がった。


「うわー! 大きい!」


 ピッコロを握りしめた翠が感激の声を上げた。真紅のカーペットが隙間なく敷き詰められた床の上を彼女の声は転々と転がり、遥か高みの天井でぐわんと反響する。フルートを傾けたつばさが「そりゃ翠と比べたら大きいよね」などと皮肉混じりに口走って、翠のピッコロに殴られた。

 ここは『立川市市民公会堂TOPAZ(トパーズ)』大ホール。客席数千二百席を有する、立川駅南口立地の市営多目的ホールである。

 すでに舞台上には楽器を手にした国立WO(ウインドオケ)のメンバーが続々と集まり、あらかじめ並べられた椅子や譜面台の位置を思い思いに調整している。急ごう──。先をゆく二人に続いて駆け足になりながら、残響を刻む靴音の遠さに、紅良は強いめまいが頭蓋骨を突き抜けるのを覚えた。

 響く音が、遠い。

 たかが千二百席のホールとは言え、学校の体育館や講堂などとは比較にならないほどに遠い。ここは大きな舞台なのだ。

 クラリネットパートのもとにたどり着くと、すでに集合していたコンミスの須坂たちが紅良を迎えてくれた。あと一週間で本番ね、などと彼女たちは気楽に笑い合っているところだった。よほど紅良の仏頂面が目についたのか、問い(ただ)された。


「緊張してるの?」

「まだホール練よ?」

「……そりゃ、しますよ。緊張くらい」

「若いなー! 私らくらい年取ると緊張なんて滅多にしなくなっちゃうのにねぇ」


 クラパートの女性陣は賑やかに騒ぎ立てながら、突っ立っていた紅良の肩を「ほらほら」と押して椅子に座らせた。肩に触れた手のひらは柔らかく、温かい。彼女たちが本当にリラックスしているのを思い知らされた紅良は、情けない味のする(たん)を奥歯ですりつぶして、苦みを承知で一気に飲み込んだ。

 一週間後の八月二十五日、国立WOはこのホールで夏季定期演奏会『サマーコンサート』を催すことになっていた。今日ここにメンバーが集まっているのは、直前の演出確認や響きのチェック、本番舞台を使った全体練習など、ホールでしか行えない最後の調整を行うため。構成員の大半を多忙な社会人が占める国立WOにとって、数少ないホール練習は貴重な環境での練習の機会でもある。


「今日の流れは何からでしたっけ」


 落ち着かない紅良の向こうで、3rd(サード)クラパートの男性が須坂に尋ねる。須坂は手元の紙をめくって、しなやかな指を突き立てた。


「いつも通り照明の確認からやりますよ。椅子の位置を調整し終えたら、まずは第一幕の合奏から。〈吹奏楽のための『ランナー・オブ・ザ・スピリット』〉、〈Electric(エレクトリック) Eye(アイ)〉、〈(かがやき)〉、〈コンドルは飛んでいく〉……」


 紅良は無意識に深呼吸を試みた。須坂の読み上げた第一幕の曲目は、まさに紅良の出番なのだった。

 日程は押している。音合わせが済めば、すぐにでも演奏に取りかかることになるだろう。調子悪くなってないといいんだけど──。浅い息をそっと口の外へ漏らして、ひび割れた唇を縫い合わせ、紅良はクラリネットを膝に置いて天井を見上げた。

 隊列を組んだ座席が、目の前にずらりと無言で並んでいた。客席に照明は灯されておらず、座席の隊列は暗闇の向こうまで延々と続いている。客席数がそれほど多くないのを考えれば、闇の彼方に広がるホールの奥行きなどたかが知れているはず。それでも紅良の目には客席が無尽のように映った。これらのすべてが聴衆に埋め尽くされている景色を想像すると、薄い鳥肌が身体の表面をたちまち支配する。

 前回、こうして舞台に立ったのは、中学の吹奏楽部でコンクールに出場した時のことだった。ここよりも広い会場だったはずだが、当時のことは上手く思い出せない。吹奏楽部に離縁状を叩き付け、吹奏楽の強豪校を無視して弦国に進んだ時点で、当時の不快な記憶を紅良はみんな捨て去っていた。

 こうして舞台に立つのも、人前で演奏するのも、久しぶりすぎて感覚が掴めない。分からない。

 紅良の胸は不規則に高鳴りを覚え始めた。


(……私、どんな風にコンディション整えて、楽器を握ってたんだっけな)


 おぼつかない手付きで何度もクラリネットを握り直した。どこに指をかけても、しっくりと()まる感覚が得られない。クラリネットパートの仲間越しにつばさや翠の姿を探すと、彼女たちは各々(おのおの)のパートに混じって和気あいあいと楽器や譜面をもてあそび、笑っていた。紅良は舞台上に独りで取り残された気分になった。

 おかしい。

 話が違う。

 こんなにも不安に(さいな)まれるはずではなかった。

 てっきり自分はもっと楽器に、本番に、舞台に、独りでいることに、順応できていると思っていたのに。いざ無数の客席を前にすると、その大きさに圧倒されるばかりで、思うように感情が定まらない。楽器を握る指に芯が入らないのだ。


(高松さんだって花音だって、高校野球の舞台で堂々と演奏できてたっていうのに……)


 失望にも似た感慨が足元から紅良を包み込んだ。

 傍目には当たり前の役目を粛々と負っているだけに見えるが、里緒も花音も立派なことを成し遂げている。今さら思い知るまでもないと思っていたのに、今、紅良の胸には圧倒されるような息苦しさが溜まっていた。

 弦国に入学して五ヶ月が経とうとしている。入学したばかりの頃、里緒は人前で演奏ひとつ披露することすら躊躇(ためら)う内気で弱気な少女だった。花音はクラリネットの何たるかも知らない、まったく丸腰の初心者だった。あの頃、管弦楽部に入部する二人の背中を冷めた目で見つめていた紅良には、もしかすると心のどこかで少なからず、二人のことを下に見る気持ちがあったのかもしれない。それがいつの間にか対等になり、(ちか)しくなり、そして今や紅良よりも高いところで強く、気高く、クラリネットを取り回している。

 紅良にはそう思えてならないのだった。


「私は……」


 つぶやいた心の声が、つい、音に換わって口に出た。焦って唇を閉じた紅良に、須坂が「どうしたの?」と声をかけてきた。


「……何でもありません」


 きっぱりと紅良は彼女の関与を拒絶した。

 国立WOの仲間たちに弱みは見せられない。むろん観客にも、両親にも見せられない。見せられる相手がいるとしたら、それはたったの二人だけ。

 負けるもんか。

 弱くたって、情けなくたって、せめて演奏会が終わるまでは──。

 無闇に首を振り回して、ほこりっぽい舞台の上へ雑念を払い落とした。客席上空の照明室から放たれた幾筋ものスポットライトが、背を伸ばした紅良の影を背後に黒々と刻んで、きらめいた。









「こちらこそ。高松さんの味方の一翼を、私どもにも担わせてください」


▶▶▶次回 『C.162 訴訟提起』

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