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クラリオンの息吹  作者: 蒼原悠
第五楽章 奏でよ、悠久のレクイエム
171/231

C.160 強い人、弱い人

 




「……ふーん。完全に隔離されてるんだ、コンクール不参加組」


 机の反対側からワークのテキストを覗き込みつつ、頬杖をついて応じると、ペンを止めた花音が口を尖らせた。


「一緒なのは最初と最後と休憩だけだよ。これじゃ、同じ部活じゃないみたいじゃん!」

「よくあるでしょ、世間の吹奏楽部じゃ。コンクールメンバーに選抜されなかった生徒は別室で基礎練やらされたりとか」

「西元はそんな経験したことあんの?」

「私はないけど」

「うわー! これだから()()()()クラ吹ける人は! 里緒ちゃんと違ってすぐに初心者相手にマウント取ってくるんだもん! 嫌い!」

「嫌いなら宿題に付き合わなくてもいいね」

「ごめんなさい嘘です嫌いじゃないです」


 ひとしきり騒いだ花音がようやくペンを握り直す。その先端が、すでに答えを知っている問題の解答欄を危なっかしく走り回っているのを眺め、こらえきれない眠気を紅良は奥歯で噛み砕いた。

 日付は八月十六日。二学期の開始まで残すところ二週間というところになって、今日、急に花音が【宿題教えて!】と泣き付いてきた。管弦楽部の仲間たちが軒並み、七月末の休みの間に夏休みの宿題を終えていた上、頼みの綱の里緒は朝から夜までコンクール練習に拘束されており、このままでは勉強会の開催ができないと危機感を抱いたのだという。

 もちろん紅良自身はすでに宿題を終えている。わざわざ勉強会を開いて他人と勉強しなければ宿題すら片付けられないなんて、個人主義の紅良にはまったく理解のできない価値観だったが、あまりにも花音がしつこく嘆くので【うちに来たら一緒に見てあげる】と投げやりに返事を送った。すると花音が本当に来てしまい、今、こうして紅良は回答済の問題を逆さに睨みながら花音の低レベルな質問に応答する、ひどく生産性のない“勉強会”を開く羽目に陥っているのだった。


(ま、いいんだけど。どうせ他に誰もいないし)


 紅良は机の傍らに嘆息を払い落とした。

 いつか泊めてもらった青柳家の居間と違って、西元家のそれは雑然としている。居間の広さは同じくらいのはずだが、両親が片付けをやりたがらないせいで、物が散らかったままなのだった。こう見えても立川駅の南口に立つ二十一階建のタワーマンションなのだが、散らかっているおかげで高級物件の香りがしない。

 こんなところに踏み込んできてまで勉強会をしたがるなんて、花音もずいぶんな物好きだと思った。


「ねー西元、ここ分かんない」


 花音が甘味たっぷりの声を上げた。一瞬、時計に視線を走らせた紅良は、呆れが伝わるように大袈裟な息を()いた。


「まだ取り組み始めて三十秒も経ってないじゃない。ちゃんと自分で考えてから質問しなさいよ」

「三十秒考えて分かんない問題なんか、三十年考えたって答えが出るわけないもん」

「屁理屈……」

「花音様は屁理屈なんか言わないよーだ」


 つくづく一方的に苛立ちが募る。紅良はコップを取り上げて、中身の麦茶を一気に(あお)った。

 ()()()()()()花音は思慮深い部分のある少女だと思う。真面目に物事を考える能力を欠いているわけでもあるまいに、どうして勉強の場面でそれを発揮してくれないのか。


「花音は才能の無駄遣いが多いのよね」


 ぼやくと、すかさず花音が目くじらを立てた。


「またそうやってバカにする!」

「事実を言ってるだけでしょ。高松さんのこととか、昔の知り合いのこととか、そういうこと考えてる時には真面目に頭を回転させられるくせに、勉強となるとちっとも役に立たなくなるんだから」


 う、と花音は言い淀んだ。真実を言い当てられて返答に困っているのかと思ったが、ペンを握ったまま花音の視線が落ちてゆくのを目にして、すぐに紅良は自分の過ちを自覚した。

 紅良は地雷を踏みつけたのだ。昔の知り合いの話は、花音にとってはタブーなのである。


「あ……いや、ごめん。花音の古傷を(えぐ)るつもりがあったわけじゃないから」


 泡を食って弁明を入れると、「うん」と花音は曖昧な返事を寄越した。ペンを放り出した花音は、机の下で両手をいじくっている。声にならない思慮が指先の迷いに滲んでいる。

 そのまま十秒も沈黙が続いた。

 あまりにも花音が黙りこくっているので、紅良の胸中は次第に不穏な予感で満たされ始めた。


「あのさ……」

「あのね」


 二人は同時に口を開いた。身ぶりで先を譲ると、花音はペンをテキストの上に投げ出して、そこへ目をやった。


「こないだ電話で話した子のこと、覚えてる?」

「覚えてるよ。何日前のことだと思ってんの」

「あの子と最近ね、ついうっかり再会しちゃって」


 今度は紅良が喉に声を詰まらせる番だった。「ほんとにうっかり?」と無意味な質問を返してしまったが、花音も「ほんとにうっかり」とおうむ返しに応じた。


「その子、立国の吹部でクラ吹いててね。こないだコンクールで失敗しちゃったみたいで、すっごく(へこ)んでたんだ。それで私、その子だってこと気づかずに声かけちゃって、思いがけず対面した……って流れだったんだけど」

「花音らしいな……」

「私、その子から逃げられなくて。仕方ないから話聞いてあげて、頭も撫でてあげた。あんなに嫌だったはずなのに、気づいたら腕伸ばして、ぎゅーってしちゃってた」


 お人好しの自覚はあるのだろう。落ち着かない様子で話しつつ、肩を縮めた花音はもぞもぞと両手を組み合わせた。


「なんかね、そしたら急に、里緒ちゃんの気持ちが分かるようになったんだよね」

「……なんでそこで高松さんが出てくるの?」

「その子、清音ちゃんって言うんだけどね。私てっきり、清音ちゃんは私のこと大切に思ってくれてなかったんだって思ってたのに、ほんとの清音ちゃんはそうじゃないって言うんだ。今でも私のこと大切に思ってるし、信頼してるんだって」

「…………」

「よくよく考えてみたら、長く会ってなかったお父さんお母さんとまた一緒に暮らせるなんて、普通だったら嬉しいに決まってるよね……。目の前の私なんか見えなくて当たり前だったのかもしれない。だから、清音ちゃんは本当に今も昔も、きっと清音ちゃんなりに私のことを大切に思ってくれてたんだ。私にはそう見えなかっただけで」

「……まぁ、そうね」

「それでも私、どうしても清音ちゃんの存在が受け入れられなくて。何が引っ掛かってるんだろうって考えてたら、里緒ちゃんに思い当たった。私の愛情表現から逃げ回ってた昔の里緒ちゃんと、清音ちゃんの愛情表現から逃げ回ってる今の私って、同じなんじゃないかなって思ったんだ」


 そんな柔軟な連想ができるあたり、やっぱり花音の頭の回転はバカにできたものではないと紅良は思った。なるほど、花音も里緒もまったく違う人格を持ち合わせた別個の人間だが、その根幹を形作っている生い立ちには似通ったものがある。二人とも大切な人を失い、あるいは見捨てられ、ぽっかりと開いた心の(うろ)を懸命に埋め合わせようとしている。


「……それで」


 紅良は先を促した。勉強会の場であるのも忘れて、不覚にも純粋に話の続きが気になりはじめた。


「私も里緒ちゃんみたいになりたいって思った」


 花音は続けた。


「いろんなことがあったけど、今、里緒ちゃんはきちんと私の気持ちに向き合ってくれてる。それってつまり、里緒ちゃんは恐怖を克服したってことなんじゃないかなって。怖がりの里緒ちゃんにすらできたんだから私にできないわけないし、克服しなきゃなって一念発起することにしたんだ」

「なんて言うか……相変わらずすごい自信ね」

「んー、でもなんかね、不思議と自信が持てた」


 転がしたままになっていたペンを取った花音が、ノックの側を紅良に向けて指差すように構えた。眉を傾げた紅良に、彼女は当然の口ぶりで続けた。


「今の私には里緒ちゃんがいるし、西元がいるし、お父さんとお母さんがいるし、友達がいるし、管弦楽部がある。いざという時、私のことを守ってくれる人がちゃんといる。そう思ったら、ちょっぴり強気になれる気がしたんだ」


 思いがけないところで自分の名前を出された紅良は()せてしまった。胸を叩いて落ち着かせながら、


「私、そこに、入ってるんだ」


 そう尋ねるのをやめられなかった。たちまち「当たり前じゃん」と花音は眉を曇らせた。


「『少なくとも私は花音のもとを離れるつもりはない』って言ってくれたの、西元本人だもん。覚えてないの?」

「いや……うん、覚えてるけど」

「いま絶対忘れてたでしょ! ひどい! 最低! 私せっかく西元のこと信頼してあげようって()()()()のに!」

()()()()って何よ」


 毒づき返しながら、紅良は肩をすくめた。今回ばかりは花音に非難されるのも致し方ないと思った。いささか忘れていたのも事実だったし、まさか花音が()に受けてくれているだなんて思ってもみなかったから。

 正直に言って予想外だった。

 花音の視界に、紅良が入っていただなんて。

 里緒のことばかり見ていると思っていたのに。


「信じらんない。もう私、()()がワークの答え全部教えてくれるまで帰らないから」


 花音はすっかりへそを曲げた。机に突っ伏して、いつもの頭を使わないモードに突入した彼女の丸い姿を、紅良は意識の飛んだ頭でぼんやり見つめた。




 捨て子として育てられ、大切に思っていたはずの子には裏切られ、それでも幾多の挫折を乗り越えて花音はここに立っている。

 里緒がそうであるように、花音もまた、人並みを上回る重い過去を背負いながら生きている。文字に書いて表すのは簡単でも、それは決して、同じ境遇の万人に成し遂げられることではない。


(花音は、強いな)


 自分の胸に視線を落として、紅良はいささか強めに唇を結んだ。眼下の双丘は普段以上の熱を持ち、高らかな鼓動を肋骨に響かせる。くるまれた心臓の中には対照的に冷気が溜まっていた。


(高松さんも強くなった。花音も確かな強さを持ってる子だ。……もしかすると三人の中では私がいちばん、弱いのかもしれない)


 たどり着いた結論はドライアイスのごとく冷たくて、うっかり深く掘り下げるのもためらわれた。そろそろと手を伸ばして、どこかの誰かの真似をするつもりで花音の頭を撫でてやると、「ご機嫌取ってもダメだから!」と花音が不快げに叫んだ。








「負けるもんか。弱くたって、情けなくたって、せめて演奏会が終わるまでは──」


▶▶▶次回 『C.161 舞台上の覚悟』

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