表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
クラリオンの息吹  作者: 蒼原悠
第五楽章 奏でよ、悠久のレクイエム
170/231

C.159 伝わった音

 




 中学の部に遅れること一週間。八月十日から十五日にかけて、東京都高等学校吹奏楽コンクールが開催された。

 大編成の花形・A部門だけでも、審査の実施には四日が費やされ、全七十五校もの高校が参加。その他の部門も合わせると、今年の参加楽団数はゆうに三百に達した。新進気鋭の『全国学校合奏コンクール』などとはまるで比べ物にならない規模である。連綿と積み上げられた歴史や伝統の重みが、そこには具体的な数字となって現れている。

 芸文附属の吹奏楽部は安定して好成績を打ち出した。A部門は当然のように東京支部大会進出を決め、BⅠ部門も最優秀賞を獲得して上位の東日本大会に進出したらしい。いつかプリズム楽器の店内で里緒が話をした少女──奏良は、記憶が正しければBⅠ部門で出場していたはずである。彼女が立派に務めを果たしたのだと知った里緒が、たまらず胸を撫で下ろしたのは言うまでもなかった。

 芸文附属と並んで“二強”と名高い都立立国も、無事にA部門で東京支部大会、BⅡ部門で東日本大会進出を果たしていた。支部大会は九月の上旬、東日本大会は十月中旬の開催なので、ここで一気に一ヶ月近くの猶予が生じることになる。

 この機を逃すなと、菊乃たちがメールを打って矢巾に声をかけた。BⅠ部門の日程が終了するや否や、彼女は翌日さっそく弦国の門をくぐり、管弦楽部の様子を見に来てくれた。




 (ファ)()()(ファ)──。うねりを描いて沈みゆく弦楽のハーモニーは、休符にたどり着いた里緒がクラリネットに吹き込む息を緩めたのと同時に、ふっと蝋燭(ろうそく)の火を吹き消すように途切れた。

 一曲まるまる合奏を終えると、生きとし生けるもののすべてが息をひそめたように、いっときの静けさが場を支配する。マウスピースにかぶさる唇を解放したら、ぷは、と間抜けな声を上げて口が息を吸い込んだ。


「今のところ、出来はこんな感じなんですけど」


 フルートを口から離した菊乃が、里緒の背後から客席に向かって声をかけた。

 講堂の客席に座っているのは矢巾ひとりだった。管弦楽部がお盆休みを挟んで活動を再開してから、もうじき二週間が経とうとしている。現時点での出来を聴いてみたいと矢巾が申し出てきたので、コンクール組の十五人は最初から最後まで〈クラリネット協奏曲〉を通しで吹くことになったのだ。


「……どうでしたか」


 菊乃が続けて声を投げ掛けると、矢巾は夢から覚めた顔付きでおもむろに立ち上がった。

 コンクール組の間に緊迫が走った。物腰こそ柔らかいが、矢巾の指摘は細かいミスや間違いも決して逃さない。


(怒られませんように……!)


 クラリネットを首から提げ、里緒は目を固く閉じた。断罪の瞬間を目にしたくなかった。

 しかし祈りはまったくの杞憂に終わった。水の注がれた地面に湿り気が行き渡るように、矢巾の声には満面の感情が(ゆる)やかに滲んでいたのだ。


「あなたたち」


 彼女は前の席にしがみついて身を乗り出した。


「すっごくよくなったわね」

「えっ……?」


 よもや褒められるとは想定していなかったのか、しどろもどろの口調で菊乃が尋ね返した。怖々と里緒が目を開けると、矢巾は二度、三度と、快感を噛みしめるかのように(こうべ)を垂れたところだった。


「……あのね、申し訳ないけど演奏はまだまだなの。ピアノは指がもつれちゃってるし、弦楽の子たちは運弓(ボウイング)が揃ってないし、フルートは響きが一定してない。ホルンもところどころ存在感が大きすぎるかしら。特に、クラのトリルが途絶えた五十四番の全合奏(トゥッティ)のところ」


 ベタ褒めかと思いきや、容赦のないダメ出しがついて回ることに変わりはなかったようだ。振り返ると、黒艶を放つグランドピアノの前に腰かけた美琴が、白黒の鍵盤を睨みながら真一文字に結んだ唇を噛んでいる。美琴はようやく数日前にテーピングが取れ、練習を再開できたばかりなのだった。


「でもね」


 落ち込むコンクールメンバーを前に、矢巾は力強く声を張った。本題はここから先なのだ。


「むかし聴かせてもらった時の聴き心地とはまったく違う。小手先の演奏技術がどうとかこうとか、そういう些細な違いじゃないの。あなたたちの作ろうとしている曲の方向性が、聴いてる私の方にひしひし伝わってくるのよ。それってすごく、とっても、すごいことよ」

「ど、どんな曲を目指しているように感じられましたか」


 食い気味に菊乃が叫んだ。矢巾は余計な間髪を入れなかった。


「寂しいけど、悲しいけど、そのなかに決意にも似た意思を感じる。なんでしょう、そうね……。別れの時の感慨に似てるのかしら。うまく言葉に置き換えられないけど、そういう静かで激しい感情を表現しようとしている風に聴こえたわ。あなたたちの認識とはどのくらい食い違ってるのかしら?」


 里緒は息を飲んだ。それはまさに、里緒がコンクール組の仲間たちに提示してみせた〈クラリネット協奏曲〉の曲解釈そのものである。


「高松ちゃん……!」


 菊乃の声は一転して晴れやかに輝いた。


「そう聴こえてるってよ!」


 緊張やら不安やらで凝り固まっていた里緒の肩は、たちまち氷の溶け落ちる要領で丸くなった。

 たとえ未完成な出来であっても、コンクール組は今、少なくとも眼前の聴衆に、目指した曲の在り方を理解してもらうことができたのだった。下された評価の値打ちは計り知れない。


「よかった……」


 今にも地べたに座り込みたくなるのを耐えながら、おっかなびっくり、つぶやいた。視界に映らない背中の向こうで、コンクール組の仲間たちもひそかに安堵の思いを交わしあっている。その様子を目の当たりにしつつ、階段を伝って舞台上に登ってきた矢巾は、各楽器の間を回りながら、順に指摘や励ましの言葉をかけ始めた。


「美琴ちゃん、右手の調子でも悪いの?」


 矢巾が真っ先に相手をしたのは美琴だった。「いえ」とうつむきがちに答えた美琴は、わずかにテーピングの(あと)が残る右手首をそっと押さえた。


「こないだまで腱鞘炎を起こしてて、治療の過程でドクターストップをかけられてたんです。……すみません、恥ずかしい演奏をお聞かせしてしまって」

「とんでもない!」


 矢巾の表情はかえって明るくなった。


「治療明けであれだけの演奏ができてるなら十分すぎるわよ。それにね、確かに指のもたついてる場所はあったけど、あなたの演奏には他の楽器にも負けないくらい、まっすぐな感情がこもってた。聴いてて鳥肌が立ったくらいよ」


 (けな)す時も褒める時も語彙の出し惜しみをしないのが矢巾流だ。「そうですか」と低い声で答えながら、美琴は唇を何度も噛み直していた。皮膚の裏側で彼女が激しい感情の濁流にまみれている(さま)が、震えを抑えつけた声には如実に滲んでいた。


「同じ独奏(ソロ)だからかしらね。客席で聴いてる限り、クラパートとの相性もピアノが一番いい。そんな暗い顔してないで、もっと自信を持っていいのよ」


 底無しの褒め言葉を好き放題に叩きつけた矢巾は、次なる獲物をファゴットパートに見出だしたのか、頭ひとつ抜きん出て目立つ巨大な薪の束のような楽器を目指して歩き始めた。止めていた息を解き放ち、ほっ、と深い温もりをこぼした美琴が、何気ない顔で里緒のほうに視線を放ってきた。目と目が合って、慌てて意味もなく頭を下げると。


「高松」


 美琴は微笑んだ。


「ちゃんと伝わってたね」

「はい……!」


 里緒も懸命に微笑み返した。達成感とも充足感とも言えないが、先の見えなかった行く手の(やぶ)に道を発見したかのようなこの感慨を、どうにかしてピアノの前の先輩に届けたかった。伝えたかった。

 すぐに美琴は表情を引き締めた。


「早いとこブランクは埋めるから。それまでの間だけ、下手くそな今の演奏で我慢して」


 里緒だって完璧とは言われていないのだから謝られる筋合いはない。「私もです」と答えようとして、その答えがあまり適切ではないのに気づいた里緒は、ふたたび深々と頭を下げることで返事の代わりにした。









「んー、でもなんかね、不思議と自信が持てた」


▶▶▶次回 『C.160 強い人、弱い人』

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ