C.016 彼女は笑って
見ると、紅良の右手は書店の袋を握っていた。
この時間まで本屋にでもいたのだろうか。それとも同じく部活体験からの帰りで、そのついでに本屋に立ち寄ったのか。
──ほら、話題が見つかったじゃない。
がんばってよ、私。『その袋どうしたの』で十分なんだから──。
無言のまま何度も発破をかけようと試みた里緒だったが、結局、勇気を出すことはできなかった。無視されたり『考え事してるから話しかけないで』などと拒絶されて、かえって自分が傷付けられるのが容易に想像されてしまうのだ。
そのうち努力も空しく、先に紅良の方が話しかけてきてしまった。
「高松さん、部活帰り?」
「……うん」
悄気ながら応じた里緒を、振り向いた紅良は一瞥した。その鋭利な視線が、里緒が抱えたままのクラリネットのケースの辺りを漂う。
「管弦楽部?」
さすがは経験者、一瞬で見抜かれた。首を縦に振ると、紅良の瞳孔は少し、細くなった。
「やめておきなよって言ったのに……。さては、青柳さんに拉致されたのね」
「こ、断りきれなくて」
何か答えなくてはと焦って、里緒は小声で口にした。口にしてから、今のは花音にも紅良にも失礼な発言だったと気付いたが、紅良はさほど気にも留めなかったらしい。
下を向いて嘆息した彼女は、里緒を見ないまま問いかけを重ねた。
「管弦楽部、入るの?」
「えと、それはまだ決めてなくて……。部長さんが言うには、来週末の春季定期演奏会が終わってから、正式入部の受付を始めるって」
「そう」
「……うん」
返答が短いと、無性に不安になる。紅良は呆れたように声の音程を上げた。
「覚えてるよね。前に、私が言ったこと」
「……『管弦楽部はやめておけ』っていうこと?」
首を動かして応じた紅良は、里緒のクラリネットケースを視線で貫いた。里緒はとっさにケースを隠したくなった。
「私も今朝、あなたのを聴いた。お世辞抜きで、すごくいい音色を持ってると思う。だからなおさら、管弦楽部なんかに入って才能を摘んでほしくない」
「さ、才能を? 私の……?」
「吹奏楽部に入っていた時期があるなら知ってるでしょ。吹奏楽とか管弦楽とか、合奏をやる部活は個性より調和、コンクールの得点を追求する団体でしかない。特にクラリネットなんか、吹奏楽でも管弦楽でも大集団での演奏になるのよ。高松さんの音色は独奏の時にこそ真価を発揮する代物だと思う。せっかくの個性あるクラリネットを、集団の中なんかに埋没させてダメにしたくない」
「…………」
またしても里緒には返すべき言葉が浮かばなかった。
日本の中学や高校における吹奏楽部の活動は、もっぱら全日本吹奏楽コンクールをはじめとした各種コンクールへの参加を軸に行われている。
それは里緒のいた中学でも同じだったのだけれど、里緒が一年生だった時はたまたま部員たちがやる気を出さず、コンクールの県大会にも出場しないで夏を終えたのだ。おまけに、中学で吹奏楽部に属していたのは実質的に一年生の間だけだったので、里緒には大きな晴れ舞台で演奏をした経験はほとんどないし、厳しい練習で出る杭を打たれた経験もない。
紅良は徹底して管弦楽部を悪し様に語ろうとする。その理由も、目的も里緒には分からないが、少なくとも紅良が嘘八百を並べ立てて里緒を騙そうとしているようには思えなかった。クラリネットが協調を求められるのは事実なのだ。それこそが、多くの曲におけるクラリネットの存在意義。同じ楽器を吹いていたなら、紅良はそのことをよく知っているはずである。
改札が迫ってくる。ICカードを自動改札機にかざしながら、紅良は里緒を急かすように質問を突き付けてきた。
「断りきれなくて管弦楽部に行ったって、さっき言ってたけど」
「……うん」
「それなら、高松さんの本心はどこにあるの?」
的確に核心を衝く質問を食らい、里緒はまたしても、答えるべき言葉をどこかへ落としてしまった。
──自分の言動には徹底して主体性がない。
それが、里緒の自己分析の結論だった。
たとえば、花音から話しかけるばかりの、花音と里緒の関係。あるいは、紅良から問いかけるばかりの、紅良と里緒の関係。いずれにしても里緒の側から何かを働きかけることはない。相手の人格はまるで正反対だが、考えてみると、どちらも似た者同士の関係として説明することができそうだ。
ならば、紅良が里緒に関心を抱いた理由は、きっと花音のそれと同じはずだと里緒は思う。他人の心を惹くような特技や魅力など、里緒はいくつも持ち合わせてはいないから。
他者に興味や関心を持たれ、存在を認められる世界の中でしか、里緒は生きてゆくことができない。自分だけのための確固たる意志も、行動原理も、自信も、そこには何も見当たらない。
それが高松里緒という人格のすべてなのだ。
時刻は夕方。コンコースの賑やかさは刻一刻と増しつつある。半端に立ち止まっていると、往来の邪魔になってしまう。
紅良はぐいぐいと人波をかき分けて進んでゆく。その後ろを一生懸命に追いかけながら、里緒はようやく、口を開いた。
「私、思うの」
「何を?」
「もしも、私がクラリネットを持ってなかったなら、西元さんがこうして私に話しかけることもなかったのかな、って」
紅良が立ち止まった。
一瞬、駅ナカの喧騒が鳴りを潜めた。胸の前に押し付けたクラリネットのケースに、重たい冷たさが浸潤するように広がったのを感じた時、紅良の控え目な返答が静寂をそっと取り払った。
「……うん。そうかもしれない」
「他の子もそうだと思う。私が自己紹介でクラリネットのことを言ったから、みんな私に話しかけてきてくれる。興味を持ってくれる。もしも私がクラリネットを吹いていなかったら、吹奏楽をやっていた経験を持っていなかったら、私みたいに誰かに話しかける勇気のない人なんて、きっと……簡単に忘れ去られちゃってた」
届いてほしい一心で里緒は懸命に言葉を選び、並べていった。それは紅良に答えるためだけのものではない。自分自身の抱える疑問に、答えを出すためのものでもある。
そうだ。
部活で音楽をやるのが本当に嫌だったら、花音に連行されかかった時に何をおいても拒絶していたはずなのだ。
それをしなかったのは一重に、花音がクラリネットという楽器を媒介して自分のことを認識してくれていたから。その厳然たる事実を、手首を掴んだ花音の手のひらの温度に、ひしひしと染み渡るように感じられたからだった。
「関心を持たれない生き方より、持たれる生き方がしたい。……私、小学校でも中学でもみんなの輪から外れ続けて、ずっとひとりぼっちだった。悪い意味で目立つことはたくさんあったけど、いい意味で目立つことなんてちっともなかった」
ケースの持ち手を握りしめ、里緒は訴えた。
「管弦楽部では怖いくらい褒められたんだ。だからって、褒め言葉をカンタンに信じることなんてできないし、カンタンに誘いに乗ることだってできないよ。だけど、あの管弦楽部でなら、こんな私でも少しは役に立てるかもしれない、少しは部の人たちに好いてもらえるかもしれない、仲間だって思ってもらえるかもしれない……って」
紅良は終始、口を閉ざしている。
その表情に絶望的なほどに変化がないのを認めて、里緒の声は急にトーンダウンした。──しまった、調子に乗って余計なことまで。
「……こんな気持ちでいたら、だめ、かな」
「仲間がほしいの?」
うなだれた途端、紅良が割って入ってきた。あまりにも簡潔で鮮やかなその響きに、里緒は思わず首を縦に振っていた。
たった八文字のその言葉が、里緒が長々と時間をかけて説きたかったことを見事に要約していた。
「……うん」
その時、はじめて紅良が口の端を崩した。
コンコースの真ん中で立ち尽くす二人の女子高生を、道行く人々は珍しげに眺めてゆく。里緒を見つめる紅良の瞳も、たぶん、彼らの目と同じ色をしていた。彼女は里緒の顔を見て、胸に抱えたクラリネットのケースを見て、それからもう一度、顔を見た。
「あんなに素敵な音色を放てる腕を持ってるのに?」
「…………」
「なのに、望むのは仲間だけ?」
「……うん」
「もっと上手くなろうとか、世界に認められようとか、周りより上に立とうとか、そういう欲はないわけ?」
「ない……と、思う」
自分のクラリネットの出来が上位の部類に入るということさえ、今日、初めて知ったのだから。
紅良は見る間に口角を上げた。ふふっ、と端の隙間から吐息が漏れて、そこでようやく里緒は紅良の表情の変化を明らかに感じ取ることができた。
紅良は、笑っていた。
「高松さんって変わってるね」
息を整え、髪を手で梳いた紅良の顔付きは穏やかで、それから少しだけ安心したようでもあった。呆気に取られていた里緒にも辛うじて知覚することができたのは、ただ、耳元を抜けていく無数の賑わいの残響と、足元を抜けていく電車の振動だけだった。
「私にはこれしかないから」
▶▶▶次回 『C.017 父』