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クラリオンの息吹  作者: 蒼原悠
第五楽章 奏でよ、悠久のレクイエム
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C.158 二者面談

 




 京士郎の夏休みは思いがけず多忙になった。

 何せ、毎日昼過ぎには管弦楽部の練習に顔を出し、延々三時間も練習に付き合わなければならないのである。これでも八月に入ってからはいくぶん楽になった方で、七月の後半などは再三にわたって球場に足を運び、炎天下で指揮棒(タクト)を振り回す仕事にまで追われた。とりたてて仕事や趣味に打ち込むつもりがあったわけではないが、こんなにも弦国の音楽室に縛り付けられるスケジュールになるとは、二ヶ月前の自分には想定もできなかったに違いない。

 そして同時に、生徒たちの都合に振り回されて生きる夏休みの日々を、京士郎はそれほど悪く感じてはいなかった。


 ──『先生、ファゴットの音がホルンに潰されて何も聴こえないんですが!』

 ──『演奏番号(レターネーム)Bのここ、何度やっても音が跳ねるんです。一気に一オクターブ以上も音が上がるんですけど、どうしたら滑らかに繋げられますか』

 ──『フルート三人の全合奏(トゥッティ)の滑り出しが上手く噛み合わないんですよー! タイミングとかペースってどう指示したらいいですか?』


 生徒たちからは日々、矢継ぎ早に質問や疑問が飛んでくる。だから、僕はピアノ科出身であって指揮の経験が豊かなわけじゃない──。時々げんなりしつつも、頼られる自分を演じるのは思ったよりも愉快で、楽しくて、ついつい京士郎も真剣になって彼らに向き合ってしまうのだ。

 生徒たちの側にも意欲が満ちあふれていた。そこにいるのは、何年も前に顧問の関与を拒絶した彼らの姿ではない。当たり前だけれど、当たり前ではなかった。


(僕も変わった。部員たちも変わったんだ)


 過去と今の差異を音楽室の片隅で拾い上げるたび、京士郎はその事実を意図して前向きに捉えるように努めた。

 思ってもみないうちに変貌を遂げた両者は、今、きちんと互いの存在を認めあって、ひとつの部活を動かしている。このまま二人三脚で、行けるところまで行ってみたい。心の底からそう思えるようになったことが、京士郎には時折、たまらなく心地よく感じられるのだった。






 八月十一日は日曜日だった。午前十一時、職員室で資料をめくっていると、事務員の女性が声をかけてきた。


「須磨先生。面談の方、いらっしゃいましたよ」

「ああ、ありがとうございます」


 慌ただしく京士郎は立ち上がった。すでに応接室に通しているという。資料の一式を抱え、忘れ物がないのを確認してから、副校長の天童と打ち合わせておいた内容を思い返した。

 大丈夫。

 話す用意も、向き合う用意もできている。

 急ぎ足で廊下を進み、応接室の扉を引いた。折しも、来客用のお盆を抱えた事務員の女性が、ソファに腰かけた男性の前に湯飲みを置こうとしていた。慌てて姿勢を正した男性に、「ああ」と京士郎は手を振った。


「すみません。少々早かったですね」


 いそいそと出てゆく事務員の女性に入れ替わって、男性の正面に京士郎も腰を下ろした。ワイシャツの上からジャケットを羽織り、居心地が悪そうに湯飲みを見つめる眼前の男性は、高校生の娘を持つ人物にしては驚くほど若々しく見えた。

 高松大祐。里緒の父親である。


「女子部一年D組で担任をしております、須磨です。授業では音楽を教えております」


 改めて京士郎は自己紹介にかかった。慇懃に頭を下げると、大祐もそっくり真似をした。


「里緒の父です」

「日曜日だというのに午前中にお呼び立てしてしまって、お忙しいところ申し訳ありませんでした。午後は部活の指導があるものですから」


 京士郎は頭を掻いた。「どちらの部活なんですか」と尋ねられたので、管弦楽部だと答えると、たちまち大祐は目を丸くした。


「うちの娘は部活の方でも先生にお世話になってるんですか」

「そうなりますかね。担任として、音楽教諭として、それから管弦楽部の顧問として、里緒さんとは様々な形で関わらせていただいております」


 話しながら、つくづく縁深い関係だと自分でも驚かされた。里緒に対する日常的な監督責任が、すべて自分にのしかかってくるわけだ。

 耳を澄ませば、廊下や階段を伝って管弦楽部の練習の音が漏れ聴こえている。すでに里緒も登校して練習に入っているはずである。京士郎は手元の資料を手繰(たぐ)り寄せ、口を開いた。


「それでは本日の二者面談、始めさせていただきますね」


 大祐は堅い顔でうなずいた。緊張や憂いが露骨に顔に出るあたり、京士郎の目に映る大祐と里緒は実に瓜二つの姿をしていた。




 話し合いは小一時間にわたった。

 まずは京士郎が聞き役に回り、『仙台母子いじめ自殺事件』の推移と現状を聞き出した。里緒が現時点でどんな問題に直面しているのかを洗い出せなければ、弦国としてもそこから先の対処を打ち出すことはできない。

 すでに第三者委員会が動き出し、いじめの実態調査が行われていること。先日、遺族の大祐に対しても聞き取り調査の依頼が舞い込んできたことを、大祐は言葉少なに語った。


「娘は同席させないことにしようと思っています。第三者委員会といっても向こうの教委が選んだ連中ですし、信用がおけるとも思えませんから」

「そのことは里緒さんとも相談されていますか?」

「いや、まだ話はしていないです。今日こうして二者面談があることは伝えてあるので、面談の報告も兼ねて今夜にでも」


 話を聞く限り、大祐は里緒ともきちんとコミュニケーションを取っているようであった。年頃の少年少女と膝をつき合って話を交わすことの難しさを知っている身として、京士郎はその事実に素直な感動をも覚えた。

 ともかく、いじめ事件の報道熱はすでに冷め、里緒のもとにメディアや野次馬が押し寄せるような事態は回避できた。ネット上では里緒や瑠璃の名前が出回ってしまったが、現状、それによって里緒が実害を(こうむ)っているような状況もない。弦国の生徒にモラルがあって助かったと、大祐は皮肉にも取れるような笑い方をした。

 それが済めば、次は京士郎の報告の番である。


「我が校としましては、里緒さんに対する心理面のケアを軸に置きたいと考えています」


 冒頭に結論を置いた京士郎は、弦国の取りうる対応のスキームを図示した紙をファイルから抜き取り、大祐の前に並べた。天童たちと相談して、事前に準備してきた資料だった。


「里緒さん本人との相談の上、場合によっては外部のカウンセラーを呼べるよう手配を済ませております。これまでも授業中に過呼吸を起こしたりですとか、精神的に疲弊した状態に追い込まれるケースも見受けられましたので、そういった場合には原則、本校養護教諭の対馬や校医の小諸などと連携して対応を行うことになっております。全教師間での情報共有、対応の確認につきましては、すでに職員会議などを介して行っている状況です」

「いや、本当、いろいろとやっていただいてすみません」


 恥ずかしげに大祐は後頭部へ手をやった。


「弦国の先生方には理解のある方が多いんですね。ほっとしました」


 その言葉には、()()()()()先生の集まる中学校へ娘を通わせてしまったという、大祐なりの後悔がにじんでいるようにも聞こえた。


「報道関係者その他の訪問や取材につきましても、原則として対応しないことにしております。なにぶん先例のない事態ではありますが、里緒さんが安全に通学できる環境を維持すべく、わたくしどもとしても全力を尽くします」


 京士郎は畳み掛けた。それはいつか合宿三日目の夜、里緒本人の前で誓ったことでもあった。耳を傾け、順に資料へ目を通す大祐の頬には、時間を追うごとに柔らかな色が乗ってゆく。そのさまを、一息をついた京士郎は落ち着いた面持ちで眺めた。

 ふと、大祐の視線が一点に定まった。


「あの」

「はい」

「おたくの生徒さんは今回の騒動のこと、どのくらい知っているんですか」

「わたくしどもからはいっさい説明していませんが、如何(いかん)せん、大手メディア各社が大々的に報じているような状況ですから……。里緒さんが当事者であるとは知らなくとも、かなりの生徒が事件そのものについては認知していると思います」


 そうですか、と大祐は嘆息した。


「ま、人の口に戸は立てられませんしね……」


 インターネットで本人特定が行われた以上、ほんのわずかでも事件に興味を持って調べれば、当事者の少女が自分の学校に通う生徒だと気づくのは容易なはず。大祐の懸念は察するに余りあった。

 けれども今の里緒には、管弦楽部という安全地帯(ヘイヴン)がある。

 京士郎は握った両手を膝へ乗せた。


「わたくしどもからいっさい説明をしていないと申し上げたのは事実です。しかし実は、里緒さんの所属する管弦楽部の生徒たちには、ある程度の話をしております」

「……そうなんですか」


 大祐が顔を上げた。ええ、と首肯して、京士郎は音楽室の方向へ目をやった。


「管弦楽部の生徒たちは理解を示してくれまして、ともすれば追い込まれがちな里緒さんのことをサポートしてくれています。里緒さん本人も、部活には居心地のよさを感じているようです。私としては、管弦楽部が里緒さんの逃げ込み場所として機能するのが望ましいと考えています」

「そういえば先生が顧問をなさってるんでしたね」

「ええ。そういった意味でも、コントロールが利きやすいと考えておりまして」


 管弦楽部には里緒のクラスメートでもある花音がいるし、クラスメートの中にも里緒と特に仲良くしている紅良のような例がいる。ただ漫然とカウンセリングを施すのでは不十分なのだ。里緒にとって最適の居場所となる環境を探り当て、保全し、提供することも、いじめや報道騒ぎで心を病んだ里緒には必要な手立てと考えられた。


「娘は部活に居心地のよさを感じているんですね」


 大祐は念を押すような尋ね方をした。


「コンクールに参加するとか何とか、娘からは色々と近況を聞いていますが……。あの子は上手くやっていけていますか。中学の時は部活動でもずいぶん苦しい目に遭わされていたみたいで、そのあたりは今も心配なんです」


 合宿以前の管弦楽部を知らない京士郎にとって、その質問はいささか答えに詰まる。

 そうですね、などと仮の反応をいったん置いて、最近の様子を思い浮かべた。合宿最終日に至って音を取り戻した里緒、応援演奏中に熱中症で昏倒した里緒、コンクール練習の中心に立ってクラリネットを取り回す里緒。思えば、この一ヶ月ほどに限っても、さまざまな里緒の姿を目の当たりにした。

 その上で、胸を張って、自分はこう伝えられると結論付けた。


「里緒さんは上手くやってゆけていると思います。これまでも、これからも」


 ときに怯え、ときに苦しみながらも、あの少女は管弦楽部二十六名のなかで自分の在るべき姿をきちんと見つけている。それがもっとも肝要なことだと京士郎は思うのである。

 他ならぬ自分も、里緒と同じく、在るべき姿を見失って路頭に迷った人間のひとりだから。


「……そうですか」


 大祐は静かに答えた。

 終始、低くて覇気のない声だったが、その顔には確かに安堵の色をした微笑みが浮かびつつあった。二者面談の成功を確信した京士郎は、同時に自分が大きな仕事のひとつを達成しようとしているのを悟って、大祐に窺い知れないところで大きな吐息をこぼしたのだった。








「そんな暗い顔してないで、もっと自信を持っていいのよ」


▶▶▶次回 『C.159 伝わった音』

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