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クラリオンの息吹  作者: 蒼原悠
第五楽章 奏でよ、悠久のレクイエム
168/231

C.157 “妹”

 




 コンクールメンバーが五人も増員されたことで、弦国管弦楽部ではコンクール不参加組の方が少数派になってしまった。

 不参加組の内訳は、三年生が部長のはじめ、詩、徳利。二年生が丈と佳子。一年生が花音、忍、光貴、真綾、唐也、元晴。当然ながら一年生の初心者が過半を占める上、管弦楽部の主力メンバーと呼べるような存在はみんなコンクール組に奪われた。ついでに指導者の京士郎もコンクール組にかかりっきりで、不参加組の面倒はほとんど見てくれない。

 ここまで少なくなると、もはやセクションごとに独立して練習を行う意味は失われる。不参加組の日々の練習は、全十一名の合同の形で行われるようになった。


「これじゃ私たちの方がコンクール組から隔離されてるみたいじゃんね」

「あっちは人数多くていいなぁ」


 などと、一年生の間からは練習のたびに不満の言葉がぼろぼろとこぼれ落ちてきた。まとめ役のはじめはそのたびに腰に手を当てて、ふくれっ(つら)をした彼らをなだめにかかっていた。


「仕方ないでしょ。コンクール組と不参加組では求められている役割が違うの。ほら、分かったら基礎練基礎練」


 初心者の多い不参加組の任務は、来るべき文化祭での演奏に向け、技術力を向上させることだった。野球部の応援演奏で場数を踏み、本番慣れはしてきているので、あとは細かな演奏の完成度を上げてゆくのが求められる。「はぁーい」と、一年生は揃って悲しげに応じていた。

 同じ境涯の花音とて、その切ない心情を抱えていなかったわけではない。

 それでも花音は終始黙々と、美琴に渡された練習のメニューを消化し続けた。三オクターブ分のロングトーン、テンポを一定にした長調・短調双方の音階練習(スケール)、音と音の区切り方や繋げ方を練習するアーティキュレーション。気分次第で練習曲(エチュード)にも手を出しつつ、文化祭本番に向けて夢中でパート練に取り組む。


「ねー、飽きないわけ?」


 休憩に入っても淡々と楽譜を読み込んでいると、隣に腰掛けた真綾が呆れ声で尋ねてきた。


「飽きてないよ?」

「うっそ! 一人でやってると退屈にならない?」

「んー、なんないや。思ったより続けられる」

「私なんか丈先輩いなかったらすぐに飽きるよ」


 ついた右手にあごを乗せ、真綾は向こうに座る先輩の方を(かえり)みた。同じトランペットパートの丈は、譜面台の上に広げた練習用の楽譜を指差しながら、覗き込んできた部長と何事かを話し合っていた。

 お互い、初心者からスタートしたこともあって通じ合う部分が大きいようで、真綾と丈はひどく仲がいい。同じパートの中に美琴や里緒のような上級者の揃っている花音には、真綾の至った境地は上手く想像することもできないものだった。


「まーやは飽きちゃいそうだね。確かに」

「むしろ私、花音が飽きてないことの方がびっくりだけど」


 心外である。花音は口を尖らせた。


「私だって集中する時は集中するもん」

「でも夏休み前の頃とか、休憩に入ったとたんに高松さんにくっつきに行ったりしてたじゃん」


 それは里緒がいたからできた芸当だった。コンクール組に里緒を奪われて──否、コンクール組に里緒が()()()()参加している現状、花音の甘えにゆける相手は誰もいない。


「私、もっと早く、上手くなりたいんだよね」


 コンクール組が練習場所にしている講堂の方向を眺めながら、花音はクラリネットを握り直した。


「上手くなって、里緒ちゃんとか茨木せんぱいの隣に普通に立っていられるようになりたい。だから練習、頑張ろうって思えるのかな。今の私は潜伏期間みたいなもんだから、コンクール組に負けないように基礎を頑張るの」

「ふーん……」


 真綾の瞳は白黒と反転した。

 真綾の心境を花音が理解できないように、花音の心境を彼女は理解できないのだろう。無理に理解を求める気持ちも起こらなかった。花音にとって里緒は憧れの高嶺の花だし、美琴は大事な師匠。その事実が花音の胸のなかで揺らがなければいいのだ。


「そっちの二人ー」

「お菓子開けるけど食べる?」


 はじめと丈が声をかけてきた。真綾よりも先に「はいはい! 食べます!」と叫んで袋のもとに駆け寄ると、花音は袋のいちばん手前に入っていた黒い包装のチョコレートを口に放り込んだ。ちょっぴり苦い味が舌先にこびりついたが、容赦なく奥歯ですりつぶしてやった。




 本当は、寂しい。

 コンクール組が羨ましい。

 当たり前である。里緒も、美琴も、舞香や菊乃や緋菜も、仲のよかった人はみんなコンクール組に(とら)われてしまった。自分の(あずか)り知らぬ場所で彼女たちが和気あいあいと練習に励んでいることを思うと、切なくて心が張り裂けそうになる。

 だが、他の一年生たちならばともかく、どんなに頑張っても自分だけは決してコンクール組には加われないと花音は理解していた。〈クラリネット協奏曲〉において、クラリネットは独奏(ソロ)楽器。二人以上がいっぺんに舞台に立つことは許されない。

 だから、今の花音は泣いても叫んでも、コンクール組を離れて基礎練に打ち込むしかない。

 独奏(ソロ)パートという身に余る重責に、里緒は必死に食らいついている。同じように必死に基礎練に食らいつけば、いつか里緒と同じ目線に立って、同じ未来を見られるはず。そうと信じて花音は頑張らねばならないし、頑張る動機はそれで十分だった。


(寂しいか寂しくないかって言われたら、寂しいに決まってるじゃん。だけど、それを理由に里緒ちゃんを困らせる真似だけは絶対にしたくない)


 それが唯一無二の花音のモットーだった。

 部活終わりの時間になると、講堂まで練習に(おもむ)いていたコンクール組のメンバーたちが、ぞろぞろと群れをなして帰還してくる。背の高い里緒は簡単に見つかる。舞香や緋菜と自由に言葉を交わしながら眉を傾けて笑う、彼女の健気な出で立ちを目の当たりにするたびに、花音の胸はしくしくと無言の悲鳴を漏らす。その都度、痛む胸を手のひらの温もりでなだめすかしながら、花音は秘めた誓いの文句を何度も(かたく)なに反芻するのだった。






 午後四時、練習終了。今日もコンクール組は居残り練習をすると聞かされた。


「高松ちゃんの曲解釈に馴染ませられるように頑張らないとね! あとちょっと気合い入れよ!」


 ぐったりした様子のコンクールメンバーを前に、無尽の体力を持つ菊乃が檄を飛ばしている。すぐ隣で代用品のA管をいじくっていた里緒の席に、花音は椅子の足を持ち上げてにじり寄った。


「ねね、曲解釈って何のこと?」

「えっと、その、〈クラリネット協奏曲〉を演奏するときのイメージを変えることになって。こないだ私が提案したんだけど……」


 里緒は恥ずかしげに下を向いた。

 あの引っ込み思案な里緒が、ついに菊乃や上級生たちに向かって自らの意見を述べるようになったか。口に出せない感動を噛み締めたら、いつもの寂しさが強く込み上げてきた。一ミリも漏らさず誤魔化すつもりで、花音は「そっかー」と笑ってみた。


「みんな頑張ってるなぁ。私も真似しなきゃ」

「そっ、そんな。私なんてまだまだ」


 たちまち里緒は首を振り回して否定にかかる。音色が変わっても、強くなっても、謙遜大魔王な里緒の本質は昔と少しも変わっていない。些細な安堵に身を沈め、腹へ溜まる疎外感に耐えていると、帰宅の準備を終えた真綾や忍たちが花音の名前を呼び始めた。


「じゃ! 私、一足先に帰るね」


 満面の笑みを保ったまま、立ち上がった。うん、と里緒はうなずいて、小さく手を振ってくれた。

 三人で連れ立って校門を出ても、途中のコンビニでお菓子やフライドチキンを買い食いしても、上り方面に向かう二人と別れて下りの電車に乗り込んでも、国立駅で降りても、描いた笑みは頑固に貼り付いて剥がれ落ちなかった。駅前の駐輪場に停めていた自転車を引き出して、カバンを前かごに放り込んだところで、ようやく文字通り肩の荷を下ろした花音は、深みのあるため息を地面に落とした。


「はぁ…………」


 疲れたし、お腹も空いた。

 心だってちっとも満たされてはいない。

 それでも今日は里緒の照れ顔を拝めたので、よしとすることに決め込んだ。「よいしょっ」とペダルを踏み込んで地面を蹴り、南の方角にある自宅を目指して走り始めた。

 夕暮れまでは二時間ほどの猶予があった。金色に輝く西陽の温もりを肌に感じながら、風を切って走った。国立(くにたち)の駅前には文系の国立(こくりつ)大・神田橋大学がキャンパスを構えていて、道を往来する人々の多くが本やカバンを抱えた大学生である。たむろする彼らを避けて信号を渡り、自転車レーンを走りながら、「勉強しなきゃなぁ」と独り言が口をついた。


(夏休みの宿題ぜんぜん終わってないし、また勉強会でもやれたらいいのにな)


 どうせやるのならば、六月末の勉強会の二の轍は踏みたくない。里緒や舞香や緋菜を呼んで、楽しく大々的に開いてみたい。まさかね、コンクール組はみんな忙しいか──。空虚な期待を地べたに払い落とし、ペダルを漕ぐ足に力を入れた。勉強は今度、紅良にでもゆっくり教えてもらえばいい。きっと彼女は嫌な顔をしながら付き合ってくれるだろう。

 考えごとにふけっているうちに大学の脇を過ぎ、高いマンションの横をかすめ、団地の商店街を横目に交差点を曲がって西へ進路を変え、市役所の近くまで戻ってきた。風を感じながら細い街路を走り抜けてゆくと、じきに近所の公園が視界に映って、花音は意識を手元に引き戻した。

 自宅までは、あと少し。一気に増速しようと花音は立ち漕ぎを始めた。

 不穏な音を聴神経が捉えたのはその時だった。


「ぐすっ……ひっ……う……」


 公園のなかで泣く声がする。

 見回すと、こちらに背を向けてベンチに腰掛け、腕で顔を拭う夏服姿の少女が見当たった。

 花音は血が騒ぐのを覚えた。どうしよう。彼女の事情など何も知らないが、ともかく放ってはおけないと思った。困っている人のことは見捨てられない性分なのである。

 ひとまず自転車を停めてカバンを下ろし、おそるおそる、少女の背中に近寄ってみる。どことなく引っ掛かるもののある服装だったが、その違和感が完全に高まる前に、声が唇を破って飛び出していた。


「あの……、大丈夫?」


 おっかなびっくり控えめの声をかけた花音は、振り返った少女の顔を目にした途端、心臓すら止めるほどの衝撃に胸を突かれてよろめきかけた。少女のかすれた声が耳を穿(うが)った。


「──花音お姉ちゃん」


 彼女の正体は清音だったのである。

 最悪だ。よりにもよって最悪の子に声をかけてしまった。なんで、どうして国立(ここ)にいるの──。疑問符で重たくなった頭を必死に首の上で維持しながら、「あは……は……」などと花音は笑った。不審きわまりない笑い方に吐き気が込み上げた。


(ダメ)


 肋骨の奥で心が(わめ)く。


(清音ちゃんはダメ。早く逃げて。逃げてよ)


 しかし自発的に声をかけた直後である。いま逃げ出そうものなら、清音にどんな余計な悪印象を植え付けるかも分からない。おまけに青柳家は目と鼻の先だ。うっかりすると家の場所を知られてしまう。

 花音は八方塞がりになって立ちすくんだ。ブランコから腰を上げて立ち上がった清音が、泣き腫らした目をこすりながら花音を見上げた。


「花音お姉ちゃん、このへんに住んでるの?」

「き、清音ちゃんは……?」

「わたしは住んでないよ。中学、この近くだから」


 その時になってようやく、清音の通学先が都立立国中であることを花音は思い出した。都立立国中のキャンパスは、国立駅と青柳家のちょうど中間に位置している。つい今しがた、花音も自転車で校門の前を通過したばかりだ。ひどく浅い声なのを自覚しながら、「でも」と花音はつぶやいた。


「この公園に都立立国の子がいるのなんて、今まで見たことなかった……」

「ひとりで泣きたかったの。人目を避けて歩いてたら、ここ、見つけた」


 証拠とばかりに赤らんだ目尻へ指を宛がった清音は、そこで我慢の糸を切らしたように「ねぇ」と悲しげな声を上げて花音にすがり付いてきた。花音は逃げる間も与えられなかった。


「花音お姉ちゃん、わたしの話、聞いてってよぅ……。こんなこと花音お姉ちゃんにしか話せないよぉ……っ」


 そのまま、清音はめそめそと泣き出してしまう。細い白亜の両手が花音のスクールベストをしっかりと握りしめているのを見て、いよいよ花音は逃避が不可能であることを悟った。

 小刻みに震える清音の肩は花音よりもずいぶん小さくて、手を伸ばせば頭もろとも身体全体を腕のなかに抱き込むことができる。つい先日、両親を通して花音が連絡先を教えるのを拒絶したことを、この幼気(いたいけ)な少女は少しも知らないのだろうか。思わず疑ってかかりたくなるほどに、清音の甘え方には遠慮が見られなかった。


「その……。何、あったの」


 せいいっぱい押さえつけた声で尋ねると、ぐず、と清音は鼻をすすり上げた。顔をベストに押し付けられている花音は生きた心地もしなかった。


「わたしね、中学で吹部やってて、今日、コンクール行ってきたの」

「……今日だったんだ」


 花音は顔をしかめながら応じた。東京都の吹奏楽コンクール予選は中学校の部が八月上旬、高等学校の部が八月半ばである。以前、興味本位で調べたことがあった。

 清音は花音のひとつ年下だから、今は中学三年生。吹奏楽部ならば執行代を務める年齢のはずだ。

 果たして、清音は花音の胸に顔を(うず)めながら、ぐずぐずと嗚咽を漏らした。


「それでね、わたしね、1st(ファースト)クラの首席やっててね……。いちばん大事なポジションで、失敗なんてぜったい許されなかったのに……。今日、演奏うまくいかなくて……みんなの足、引っ張っちゃって……っ」


 さすがの花音にも話の先が読めた。「負けちゃったの」と尋ねると、清音は胸の膨らみの中で首を何度も縦に振って応答した。

 銀賞か銅賞を取ったか、もしくは上位大会への出場を逃したのか。いずれにしても弦国のように出場経験や実績のない学校ならばともかく、都立立国は西東京の誇る吹奏楽部の名門である。犯した失態に科せられる責任は、きっと花音の想像など及ばないほどに重い。


「……そっか」


 重い責任を与えられたことのない花音は、それ以外にかける言葉を何も持たなかった。

 カバンを握っていない方の手が暇を持て余していたので、仕方なく清音の頭を撫でた。とにかく一刻も早く泣き止んでもらって、早急にこの場を立ち去りたい。その一心が花音の行動力の源だった。

 そして、当の清音に、花音の思惑はまったくといっていいほど露見していないようだった。


「お姉ちゃん、優しいね」


 しゃくり上げながら清音は喘いだ。


「最初はびっくりしたけど、声かけてくれたのが花音お姉ちゃんでよかった……。よかったぁ……」


 懐かしい面影が肩に弾けて燃え、儚い輝きを放って消える。施設で年上の子に叩かれた時も、先生に怒られた時も、清音はこんな勢いで花音にすがりついて泣いていた。清音のことを妹分と信じて疑わなかったあの頃、その言動は彼女が花音に寄せる心からの信頼の証に感じられて、たまらなく嬉しくて、いつも花音は夢中で抱きしめ返したものだった。

 今、花音は同じことをしてあげられない。

 あれが文字通りの()()だったことを、骨身に染みて知ってしまったから。


(清音ちゃんは……私の“妹”なんかじゃないから)


 ひどく冷めた思いで清音の髪を見下ろし、機械的な所作で頭を撫で続けながら、花音は真一文字に結んだ唇を固く噛みしめた。

 花音にとって清音がかけがえのない大切な存在でも、清音にとって花音は他人(両親)で代用できる存在だった。清音にとって、その違いはほんのわずかな認識の濃淡に過ぎないことだろう。横たわる無邪気で冷酷な事実が、声も出さずに花音を傷付ける。

 心の重みに耐えきれなくなって手を離した途端、ふと、たまらなく意地悪な質問が頭に浮かんだ。

 浮かんだそれを花音は口に出していた。


「……ね、清音ちゃん」

「うん」

「私にどうしてほしいの?」


 清音は喉を詰まらせた。ささやかな沈黙を挟み、彼女は短く折ったスカートの裾を握りしめた。


「前みたいに、ぎゅってして、よしよしって……してほしい」

「私、部活仲間でも、彼氏でも、先輩でも後輩でも、ましてや家族でもないのに?」


 花音はしつこく畳み掛けた。

 ひどいことを尋ねている自覚はあった。そして清音も(ひる)まなかった。一歩後ろへ引き下がり、花音の真正面に立った清音は、まっすぐに花音を見つめて言い切った。


「花音お姉ちゃんは、お姉ちゃんだから」


 その濡れた瞳に浮かぶ光は揺るがなかった。たじろいだ花音を前に、何度も唇や喉を危なっかしく震わせながら、清音は一言、一言と、積み木を重ねて塔を築くように声を紡いでゆく。


「パパも、ママも、わたしは大好きだけど、こういうときに何も言わずに慰めてはくれないもん。友達だってそうだし、恋人なんてそもそもいないし……。それにわたし、コンクールメンバーでは最高学年だから、年下の子たちの前で弱い姿なんて見せられない。花音お姉ちゃんみたいに、なんの心配もしないで甘えられて、頼れる人、わたし、誰も……いないんだよ」


 清音のなかで花音の存在価値は揺らいでいない。

 そう主張することで、清音は花音を懐柔し、一時の保護を巧みに得ようと企んでいる。

 騙されてたまるか。待ち構える痛みを予測して、花音はいよいよ強く唇を噛みしめた。かつて施設を卒業するとき、清音は確かに花音のことを見捨てたではないか。『待って』と泣き崩れた花音の手を突き放し、迎えにきた家族に笑顔で飛び付いていったではないか──。

 花音の葛藤など少しも知らない様子で、清音は潤んだ瞳の光を切々と花音に向け続ける。


(やめて)


 花音は胸のなかで必死に叫んだ。


(そんな目で私を見ないで。私は何も(こた)えられないよ。清音ちゃんのことなんか、もう二度と──)


 “信じられない”と続けようとしたが、そこで思念の糸がぷっつりと途切れた。その瞬間、無の空間を挟んで対峙する清音と花音の関係に鮮烈な既視感を覚えて、わけのわからないまま花音は茫然と立ち尽くした。複雑に絡まった脳の線がほどけ、緩み、正しい配列へと順に置き換わる。それまで思いつきもしなかった発想が浮かんでくるのに、長い時間は必要なかった。

 そうだ──。

 この関係は、かつての花音と里緒の関係に似ているのだ。花音の愛情表現を恐れ、怯え、逃げ回っていた以前の里緒と、昔のような親善を求めて追いかけてきた清音を振り払おうとする今の花音。あのころ里緒は花音の内心を知らなかった。そして今、花音は清音の本心をわずかな記憶に引っかかる過去の言動に見出して、すべて見透かしたふりをして突き放そうと企んでいる。

 抱える背景は違っていても、きっと端から見れば、今の花音の姿はかつての里緒と同じ影を引いている。すとんと胸に落ちた納得が、反動で「そっか」というつぶやきを喉元まで押し上げた。


(里緒ちゃんもこんな気持ちだったんだ)


 当の里緒は恐怖を克服し、花音や紅良に心を開くようになった。けれども、その実現のために彼女は途方もない努力を払い、心労を重ねてきた。絶望で前が見えなくなって、泣きじゃくりながら毒を吐き出して、それでようやく里緒は未来を取り戻したのだ。花音には、もがき苦しんでいた里緒の姿を誰よりも近くで支え、見守っていた自負がある。静かな危機感に苛まれたのもそのせいだった。──同じだけの苦心を重ねなければ、花音は清音への恐怖を克服できないことになるのだろうか。


「……あのね」


 耳に飛び込んだ清音の声で、花音は現実に引き戻された。

 いつしか清音は花音から目を離し、うつむいていた。口の形が不自然に歪んでいる。前髪に覆い尽くされて窺えない二つの目のあたりから、みるみる透明の水滴が流れ下ってゆくのを、花音は口を閉ざしたまま見つめた。


「わたし、知ってるよ。花音お姉ちゃんがわたしを嫌がってること」

「…………え」

「電話番号、教えないでって言われたって、『ひかりの家』の人に聞かされたから」


 花音は息を飲んだ。花音の拒否を清音は知っていたのである。


「なんかひどいことしちゃったかな、嫌われちゃったかなって、頭の中がぐるぐるするくらい悩んだよ。だけど、いくら悩んでも分かんなかった。わたし、バカだし、頼りないし、花音お姉ちゃんがいないと一人で立つこともできないから……。だからね、さっきお姉ちゃんが声かけてきてくれたとき、わたしすっごく、嬉しかった」


 清音はスカートを手の中に握り込んだ。


「ねぇ、花音お姉ちゃん。わたし、もう、前みたいに甘えちゃいけないのかな。お姉ちゃんがダメって言うなら、わたし、何もしないよ。したくたってできないもん。だけどもしもダメって言わないでくれるなら、わたし、ほんとの姉妹みたいだった頃の関係に戻りたい……」


 そのとき、いつだったか管弦楽部の誰かに『目が真っ直ぐすぎる』といって罵られたのを、立ち尽くしながら花音は思い返した。

 あれは、何事も疑わず、正面から受け止めすぎているという趣旨の指摘だった。そして真実、自分は素直に物事を捉えすぎるきらいがあると、今更になって花音は痛感した。清音の叫びが本心に根を張っているにしか感じられなかったためだった。

 一時の安寧を得たいがために、清音は本心を偽って甘えようとしているだけなのかもしれない。邪推の余地はいくらでもある。それでも花音には、邪推の道を選ぶ勇気がどうしても出せなかった。

 どうすればいいのか分からなくなって、夢中になって手を伸ばしたら、そこに清音の頭があった。清音が反射的に首をすくめかけたのが分かったが、そのまま勢い余って花音は清音を抱き寄せた。そうしたいと思ったわけではない。ただ、抱き寄せてしまえば、自分のなかで何かが自然と腑に落ちて解決するのかもしれないと思った。


「お姉ちゃん──」


 もごもごと清音が訴える。息をするのも許さないつもりで抱きしめながら、花音はやっとの思いで声を振り絞った。


「……ずるいよ」


 それは、一方的な好意を里緒に押し付けて(はばか)らなかった、かつての自分に向けた言葉のつもりでもあった。

 セミの声が穏やかに響き渡った。西陽の差す公園の真ん中で、一面オレンジ色の世界に黒々とした影の固まりを描きながら、花音はしばらく無心で清音のことを抱きしめ続けた。いつしか暑苦しさは鳴りを潜めていた。ただ、夕闇の連れてきた静かな清涼感が、半袖から覗く花音の腕に柔らかな鳥肌を立てて消えていった。









「里緒さんは上手くやってゆけていると思います。これまでも、これからも」


▶▶▶次回 『C.158 二者面談』

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