C.156 最善の道
『仙台母子いじめ自殺事件』の第一報が日本を駆け巡ってから、早くも二ヶ月近くもの日々が経過した。
幸手たち仙台支局からの情報によれば、設置されたいじめ調査の第三者委員会は基礎的な情報収集を進め、夏休みの期間を利用して佐野中学校の教職員に話を聞いて回っているようだった。良識のある委員が多かったのか、案外、しっかりと職務を遂行しているらしい。第三者委員会には中間報告の義務がないため、結論がまとめられるのは早くとも来年以降になる見込みだという。
第三者委員会の設置や、遺族・大祐に対する取材の記事など、ここ一ヶ月ほどで日産新報は『仙台母子いじめ自殺事件』に関する報道を完全にリードしていた。特に、大祐が取材に応じたことの効果は大きかった。本物の遺族が動き出し、態度を明らかにしたことで、それまで正義漢を演じてきたインターネット上の特定運動が一気に沈静化に向かったのである。飽きられた、と表現することもできるだろうが、ともかく加害者とされた高校生たちや学校職員、地域住民に対する誹謗中傷の嵐は、日を追うごとに勢力を弱めていった。競い合うようにして報道合戦を繰り広げていた新聞やテレビ局各社も、遺族と第三者委員会が本格的に動いているのを知ると、徐々に情報の争奪戦から身を引いていった。
たった一誌の週刊誌が特集のなかで報じたに過ぎなかった『仙台母子いじめ自殺事件』は、結果的には日本中を巻き込んだ大騒動にまで発展し、それまで動きの見られなかった市の教育委員会や遺族、学校をも突き動かした。──一段落のついた今にしてみれば、そんな評価もできる顛末だっただろう。
だが、火付け役を演じた紬個人としては、楽観的な見方で一連の事件を振り返れるわけもなかった。
報道によって事件の全容が暴かれてゆく裏で、当事者の里緒や大祐には限りのない苦痛を与えてしまった。すべての引き金を引いた者の責務として、紬はその苦痛や悲鳴と逃げずに向き合い続けねばならないのだ。
夕方、五時。雅と連れ立って立川多摩支局のオフィスを出ると、子ぎつね色の空が視界の上層を埋め尽くしていた。切ないセミの鳴き声に鬱陶しさを覚えながら、紬は汗の詰まったワイシャツの襟元をつまんで、叩いた。
「毎日毎日こう暑いとやってらんないな」
ぐったりとした顔の雅がつぶやいた。
「神林、アイスでも食べて行かない? 園のお迎えまで時間あるでしょ?」
真夏の陽気は夕刻になってもいっこうに気を緩めない。雅の提案に大人しく乗ることにして、「いいですよ」とうなずいた。水を得た魚よろしく相好を崩した雅は、さっそく紬を引き連れて立川北口公園を横切り、横断歩道を渡り、向かいのコンビニに入った。
それぞれ欲しいものを手に取って、レジに並んだ。雅が選んだのは、高い値段設定で有名なカップ入りのアイスクリーム。紬の選んだ氷菓子とは値段が四倍も違う。
自分にはあんな高いアイスは買えない。
とっさに、思った。
(心にゆとりがないのかな。気が進まないや)
拓斗に買い与える分には問題ないのだが──。アイスと聞くと瞳を輝かせる息子の幼気な顔を思い浮かべつつ、破った包装をゴミ箱に突っ込み、イートイン席に腰を下ろして中身を口へくわえた。突き抜けるような痛みが歯から脳天に抜けて、紬は思いっきり顔をしかめた。
「最近ほんと贅沢しないよね、神林」
見咎めるような口ぶりでつぶやいた雅が、アイスの塊を乗せた木製スプーンを口に突っ込んだ。ため息の代わりに紬は羨望混じりの毒を吐き出した。
「雅さんがハーゲンばっかり食べ過ぎなんですよ」
「いいじゃない、日々のささやかな楽しみなんてこれくらいなんだし。働いてる大人の特権よ」
「それは……そうでしょうけど」
「遠慮してる相手でもいるの?」
“いる”とも言えるし、“いない”とも言えそうだった。答えずに紬はアイスへかぶりついた。すさまじい冷感にきしきしと奥歯が痛んだが、我慢するのも自分の務めだと言い聞かせた。
この二ヶ月間、里緒や大祐にはずいぶん苦しい思いをさせた。もしかすると今も紬の知らないところで、小さな心臓に痛みを抱えてうずくまっているのかもしれない。その里緒や大祐を差し置いて、自分ひとりが豊かな生活を送ろうとするのが、紬にはたまらなく辛抱ならなかったのだ。……もちろん、ここで紬が我慢をしたところで何の贖罪にもならないことは、すべて分かりきっている。
「一口あげようか」
言うが早いか、雅はカップの中身をひとすくいして、紬の口の前に持ってきた。「いいです」と紬は固辞を貫いた。
「そういう気分ではないだけですから」
「そう言ってここ一ヶ月くらいずっと、私の厚意を拒んでない?」
「溜まった疲れが抜けてないんですよ。たぶん」
アイスの棒を握りしめたまま紬は答えた。自分の声に聞こえなかった。ばつの悪い顔になった雅が、引っ込めたスプーンを自分の口に捩じ込んだ。
「……ま、そりゃ疲れてるか。ずっとあちこち飛び回ってたもんね。甲子園の西東京予選の取材も立て込んでただろうし、神林の場合は仙台の一件もあったわけだしな」
甲子園の地方予選を取材するのは、もっぱら各地方支局の記者の仕事である。トーナメントの進行に伴って、紬もあちらこちらの球場を渡り歩いた。実は、弦国の出場する試合だけは周りの記者に押し付けて逃れていたのだけれど、同僚たちが紬の企みに気づいていたのかは定かではない。おかげさまで里緒が倒れたことも長く知らないままだった。
なんにせよ、目の回るような一ヶ月間だったことだけは確かだった。そして、その多忙を形成する要因の半分は、自らの行いが招いたものでもある。
紬はしばらく無言でアイスを頬張り続けた。あれほど大きかった氷の塊も口の中へ収まってしまえば一瞬で溶け、形を失い、喉の暗闇に流れて消えてゆく。棒の先端におぼろに印字された“はずれ”の文字を見つめるたび、生産性のない戯れに時間を浪費しているのを自覚して、心の奥まで冷たくなった。
「……雅さん」
「うん?」
スプーンをカップへ放り込んだ雅が応じた。“はずれ”の文字を無意味に睨みながら、紬は尋ねた。
「覚えてますか。ちょうど二ヶ月前でしたよね。知り合いの子がいじめられているって知った私が、雅さんにアドバイスを求めたの」
「うん。覚えてるよ」
「あのとき、週刊誌に情報を回すようにアドバイスをいただいたから、こうして仙台の事件は世の明るみに出たわけですけど。……私、本当にこれでよかったんでしょうか」
紬は呻いた。長い題目は枕詞に過ぎなくて、本当に尋ねたかったのは最後の一言の部分だった。
報道関係者としてやれるだけのことはやってきたし、今も取り組み続けている自負がある。それでもこうして他人のお墨付きを得たくなるのは、引き起こした事態の大きさを認識しているからでもあり、生来の臆病な自分のせいでもあるのだと思う。
雅にも即答は難しかったようだ。スプーンをカップの中に浸けたまま、雅は少しの間じっと視線をテーブルに注ぎ、考え込んでいた。
やがて、彼女は粘ついた唇を開いた。
「……私もね。今だから言えるけど、仙台の事件がどんどん世間に拡散して大事になっていくのを見た時、ミスったかなって思ったんだ。いちばん肝心な遺族の声を聞けていない状態で、安易に週刊誌に持ち込ませるべきじゃなかったなって」
「……ミス、ですか」
「浅はかだったんだよ。神林じゃなくて、私が」
嘆息交じりの声が口元を漂う。そんな、と紬は喘いだ。雅に謝ってほしかったわけではない。実行責任は雅のアドバイスを鵜呑みにした紬にある。
「でもさ」
そういって紬を制した雅はカップの中のアイスをすくい取り、口に運んだ。
「もしも誰も報じなかったら、誰も気づかなかったら、今頃それが新たな悲劇を生んでいたかもしれない。実現しなかった未来のことなんて誰にも分からない。少なくとも私は神林のこと、きちんと最善の道を探り続けて頑張ってる人だって評価しているつもりだよ。今回の騒動に関しても、子育てに関しても、……旦那さんの件に関しても」
どろりと溶けたアイスの塊は、お世辞にも美味しそうな姿をしてはいなかった。うつむいて視線を反らしながら、あれが雅の本音のカタチなのかもしれない、と紬は考えた。
絶対に正しい道というのが見つからないなら、最善の道を探して進むしかない。もしも途中で不具合を見つけても、過去に戻って針路選択からやり直すことは叶わないのだ。里緒や大祐を傷付けた自覚があるなら、後悔している暇があるのなら、紬はめげずに彼らの声を聞く努力を続けねばならない。
それこそが、火付け役の果たすべき責任の在り方なのだろうと思う。
「そんな思い詰めないの。遺族の人とも今はコンタクト取れてるんでしょ?」
励ますように雅が笑った。
「それなりに信用を置いてくれてるってことじゃないの?」
「そうだといいですけどね……」
紬も釣られて苦笑いした。『信用してくれていますか』などと直に大祐に尋ねるわけにもいかないし、これまでも、これからも、高松家と接する上では緊張感を抱え続けなければならないだろう。そんな確信を持ってもいた。
空になったカップをまとめてゴミ箱に放り込んだ雅が、「ねぇ」といってスマホを紬に突き出した。まるっきり話を変えたくなったらしい。
「文化芸能部のオフィスで話題になってたんだけど。今度、こんなのあるんだって。知ってた?」
置かれた画面を紬は目で追った。
何かのコンクールの公式ホームページのようだった。真っ先に視野に入ったのは、ページの斜め左上に鎮座する『ASEC』の文字と、それから横一列に表示されたコンクールの正式名称である。
「『全国学校合奏コンクール東京都大会』ですか」
そうそう、と雅は鼻を鳴らした。
「吹奏楽コンクールとは別物らしいんだよね。管弦楽とかでも参戦できるコンクールなんだって。今度、気晴らしに──」
「──これ!」
紬は不覚にも叫んでいた。これはもしや、ずいぶん前に里緒から聞いた、弦国の管弦楽部が参戦を計画しているコンクールではないのか。
「食い付くなぁ」
うろたえ気味に眉を曇らせた雅が、ほら、と開催概要のページを開いた。期日は九月の二十二日、二十三日。二十二日は中学校の部に費やされ、二十三日には小学校の部と高等学校の部が催される。出場校数は小学校が十七校、中学校が三十三校、高校が二十校。残念ながら具体的な校名の記載はない。
「会場、立川フェアリーホールですか。すぐそこですね」
「そうそう! それに見て、審査員の顔ぶれ」
言われるがまま視線を下へ移した紬は、絶句した。列挙されていた審査員五人の名前と肩書きは、そのいずれも界隈の超有名人ばかりなのである。
「指揮者の水沢灰司……ってこれ、世界的に活躍してる人じゃないですか!」
「でしょ? 他にもほら、オーボエ奏者の石巻優介、作曲家の行橋俊太郎、ピアニストの横芝静子、パーカッショニストの流山由美。どれも第一線で活躍するプロで占められてる」
頬杖をついた雅が口角を上げた。
「下手したら吹コンより豪華よ、これ。よっぽど注目されてるコンクールなんだね」
自分の知らないところで、大きなコンクールが動き出している。夢中になって開催概要を読み込みながら、もしかすると参戦するのかもしれない里緒の晴れ姿を脳裏に思い浮かべ、紬は深くも浅い吐息を机の上に落とした。
たとえ自分が動かなくとも、世界は勝手に回ってゆく。
動いて、鳴って、未来を描いてゆく。
ちょっぴり理不尽な世界の片隅で、紬もまた、不器用に苦しみながら未来を見据えようとする者の一人だった。
「なんの心配もしないで甘えられて、頼れる人、わたし、誰も……いないんだよ」
▶▶▶次回 『C.157 “妹”』