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クラリオンの息吹  作者: 蒼原悠
第五楽章 奏でよ、悠久のレクイエム
166/231

C.155 二人だけの朝【Ⅱ】

 




 ここに至って美琴にもようやく、里緒の口にしたことの全貌が見えてきた。咀嚼しきれた分の納得感を喉に押し込んで、「うん」と美琴は(うな)った。

 文字や言葉としての機能を持たなくとも、音には人の気持ちを伝えうるだけの表現力がある。それこそ今、美琴が「うん」と唸って同意を表現したように。モーツァルトのごとく多様な表現力を身に付けた手練の作曲家であれば、自らの作品に非言語的なメッセージを織り込むことは、それほど特別でもなければ難儀でもなかったはずだ。

 里緒はいっとき唇を噛んだ。


「もう二度と言葉を交わせるかも分からない、もしかすると最期のチャンスになるかもしれない心境で手紙を書こうとしても、悲しくてなかなか書き進まないと思うんです。……私、この〈クラリネット協奏曲〉の第二楽章って、前後の楽章と比べてもすごく、すごく、悲しい曲のように感じます」

「…………」

「でも、それだけじゃないんです。悲しい以上に、優しいんです。離ればなれになってしまう悲しみはもちろん強いんですけど、モーツァルトは死別を悲しむのと同時に、自分の死後も変わらず生き続ける友人の幸せを、心から願っていたんじゃないかな……って。そうでなかったら、ただの悲しい別れの曲になっていたと思います」


 美琴は黙って里緒の話に耳を傾けた。自信のない苦しみに時々やられるのか、里緒は美琴と、広げた譜面と、それから床を交互に見つめて視線のやり場を探しながら、それでも途切れることなく話を繋いでいた。

 話を遮らないようにしよう、などという真っ当な配慮があったのではない。率直に言って、美琴は驚かされていた。その主張に確かな説得力が伴っているのもさることながら、他人に流されてばかりだったはずの里緒がこんなにも確固たる己の意見を持ち合わせていることに、素直な驚きを覚えていた。


(なんだ。ちゃんと自分の考え、言えるじゃん)


 拍子抜けしたような、安心したような。話の本筋とはまったく無関係の感慨に浸りつつ、同時に美琴は里緒の語ってくれた〈クラリネット協奏曲〉の解釈を、ようやく頭の奥で噛み砕くことができた。

 逃れられない死を前にして、遺してゆく大切な友人の幸せのために作り上げた離別の歌。それこそが〈クラリネット協奏曲〉第二楽章だと里緒は述べたいのである。美琴が前後を挟む楽章の文脈を考え合わせ、明るく、幸せな曲として解釈しようとしていたのとは、まるで真逆の発想だった。


「寂しいし、悲しいけど、きみには僕のことなんか忘れて幸せになってほしい──なんて。当時のモーツァルトが本当にそんなことを考えていたのか、私には真実は分からないです。でも、天才って言われ続けた名作曲家のモーツァルトなら、そういう複雑な感情を曲に織り込むのも可能だったんじゃないかと思うんです」


 終始、うつむきがちに持論を述べ終えた里緒は、そこで初めて美琴の顔を覗き込んだ。


「その、茨木先輩はどう思われますか。今の私の話……」

「いいと思う」


 無意味な()を置くことなく、美琴は応じた。本心からの感想を口にするのに躊躇(ためら)いなど要らなかった。「ほんとですか」と里緒が顔を上げた。


「こんなことで嘘ついてどうするわけ。筋も通ってるし、説得力だってある。成立背景に視点を置いて考えるっていうのもありかもしれないな」

「よかった……!」

「どうやって着想したの、その解釈」


 ほんの何気ない気持ちで尋ねると、とたんに里緒は表情を伏せた。漆黒の前髪の奥で、二つの瞳が暗い色に変じた。


「えと、その、お母さんの遺してくれた……遺書から」


 失言に気づいた美琴は臍を噛んだ。しまった、安易な気持ちで尋ねるべきではなかったか。

 すっかり失念していたが、里緒はすでに一度、大切な人を亡くす立場に立っている。まるで、モーツァルトから〈クラリネット協奏曲〉を受け取る側となったクラリネット奏者、アントン・シュタードラーのように。里緒が新たな曲解釈にすんなりとたどり着くことができたのは、里緒自身に離別の経験があるからかもしれないのだ。


「そっか。……だから、か」


 感嘆の言葉がこぼれ落ちた。不安げに里緒が眉を傾けてゆくのを見て、慌てて付け加えた。


「私はそれでいいと思う。今の話、コンクール組の他の人たちにもきちんと伝えておいた方がいい」


 協奏曲でもっとも大切なことは、独奏者(ソリスト)自身が曲の解釈に納得していること。こうして自分で納得のゆく答えを見つけられたのなら、あとは精一杯、背中を押してやるのが自分の役目だと美琴は思った。そこに敢えて自分の意見や文句を割り込ませるつもりはないし、そんなことをするべきではない。

 それに、満足に楽器を弾くことも吹くこともできない今の自分では、何を語ろうとも説得力がない。


「少なくとも私は賛同する。自信、持ちなよ」


 だめ押しのつもりで口を挟むと、やっと里緒の頬には(ほの)かな色が戻り始めた。その顔が徐々に綻んでゆくのを目の当たりにして、美琴の胸は切ない音を立てながら縮んだ。確かな未来を夢見て懸命に藻掻(もが)き続ける里緒の前では、手の傷に後ろ髪を引かれて前に進めないでいる自分があまりにも不釣り合いに思えた。

 どうして私はこんなことをしているのだろう。

 そう、強く疑問が弾けた。それこそ菊乃だとか、花音だとか、京士郎だとか、この話を持ち掛けられる相手はいくらでもいただろうに、なぜ里緒は美琴に声をかけたのか。


「あのさ」


 つい、気が()いて、疑問符が台詞になった。


「今の話、私に意見を聞く必要ってあったわけ」

「だ、ダメでしたか」

「普通は菊乃とか須磨先生とか、そうでなかったらコンクール組全体に相談しようとするでしょ。その……、なんで私個人に聞こうとしたのかって思っただけ」


 話しているうちに羞恥心が滝のようにあふれ出して、美琴の声はどんどん小さくなっていった。これでは()ねた駄々っ子のようではないか。いたたまれない思いが燃え上がって音楽室を逃げ出したくなったが、そんな醜態を里緒の前で晒すなど真っ平御免でもあった。

 だって。

 美琴は後輩の里緒のことを、幾度となく、しかも意図的に傷付けた人間である。

 独奏(ソロ)の不出来を責め立てたことも、応援演奏の責任を押し付けたことも、里緒は決して忘れてはいないはずだ。憎みこそすれ、こうして心を開くことなんて、本来だったらあり得ないことだろうに。

 里緒は数秒間、言われたことの意味を読み込み損ねたかのような顔つきで座り込んでいた。


「えと……」


 うなじを掻いて、彼女はクラリネットにかける指の力を強くした。抱き込まれた管のキイは馴染みの金色ではないが、その光沢は窓の外から染み込んでくる朝の青空に照らされて、普段よりもいくらか目映(まばゆ)かった。

 ぼうっと見つめているうちに、里緒が答えを口にしていた。


「……独奏(ソロ)クラリネットパートのこと、いちばん理解してくださってるのは、茨木先輩だと思って」

「私が?」


 美琴は声を裏返らせた。


「茨木先輩は私と同じクラパートだし、演奏の工夫とか難しい箇所の認識とか、他の楽器の人たちよりもずっと相談しやすいと思ったんです。それに、先輩はこんな私のことを信用して、独奏(ソロ)パートを預けてくれたから……」


 とんでもなく聞き心地のいい建前に背筋が冷えた。そんな、私は褒められていい立場の人間じゃない──。里緒の(かも)し出す温もりの中から必死に逃れようと暴れたら、反動で「はぁ?」と甲高い声が漏れた。里緒が肩を跳ね上げた。

 相談しやすい?

 信用してくれた?

 そんなことがあってたまるか。

 美琴の胸は見る間に猜疑心で埋め尽くされた。


「ちょっと待ってよ、知ってんでしょ高松。私がどんな先輩で、どんな汚いこと考えて高松に独奏(ソロ)パートやらせようとしてたか……。私は高松が思ってるような先輩じゃない。買いかぶらないでよ」

「そんな、買いかぶってなんて……!」

「してるでしょ!」


 里緒の瞳孔は瞬時に小さくなった。うつむき、後輩の顔から懸命に視線を反らしながら、美琴は荒れ狂う胸の内を無理やり深呼吸で押さえにかかった。


「……別にさ、私のこと頼るのは高松の勝手だし、それに文句つけるつもりはないよ」


 一言、一言、噛み砕くように美琴は言葉を重ねた。胸の中に積み上がりかけた華やかな感情を、自分を傷つける言葉で意図的に突き崩しながら。


「だけど私に遠慮するのだけはやめて。気遣いなんか要らない。してくれなくていい。だって高松は立派に音を取り戻したんだ。もう、堂々と大手を振って、他の一年とか先輩を頼りに行っていい。同じパートだからって私のところに来ることはない」


 それは、里緒の抑圧者として君臨していたくないという、(まぎ)れもない美琴の一方的な願望の叫びだったように思う。先輩を名乗る資格のない美琴のことなど、いつまでも先輩扱いすべきではない。もっと自由に振る舞っていい。

 美琴が腱鞘炎で指をダメにしてからというもの、いちいち里緒は美琴に気を配りすぎるのだ。応援演奏で倒れた時は泣きながら謝ってきた。ひとりで家路をたどる美琴の隣にわざわざ並び、話しかけてきた。里緒が覚えていなくとも美琴は覚えている。

 本当は、ずっと、嫌だった。辛かった。


「…………私」


 力なく、里緒はつぶやいた。

 美琴の視界に入るのは、カーペットの床に押し付けられた里緒の両手だけだ。不意に、その手に静かな震えが走り、弱々しい彼女の声が折り重なった。


「私……、茨木先輩が苦しい気持ちでいるの、分かってます。分かってました」

「だから──」

「元気、出してほしかったんです」


 美琴の口出しを遮った里緒は、叫ぶように声を大きくした。釣られて顔を上げた美琴の目に、半泣きの瞳で自分を見つめる後輩の姿が映った。


「元気のない先輩を見てると私も悲しいです。元気のないまま過ごすのがどんなに苦しくて、つらくて、痛いことか、少しは知っているつもりだったから……。だから、先輩には前を向いてほしかったし、私にできることはないのかなってずっと悩んでました。……今日、こうして声をかけたのも、その思いがなかったわけじゃなくて」


 美琴は里緒の言葉に茫然と聴き入った。案の定、気遣われていたことへの痛みが心臓を(おびや)かしたが、里緒のかすれた声は傷口にそっと覆いかぶさり、蓋をして、中身が染み出すのを防いでしまった。

 里緒の声はみるみるうちに尻すぼみになった。返す言葉が思い付かず、唇を噛むばかりの美琴を前にして、自分のせいで先輩を不機嫌にさせたと勘違いしたらしい。


「そんな、」


 苦しげに喘ぎ、里緒は立ち上がった。


「私……、先輩に迷惑かけるつもりじゃ……」


 よろめきがちの彼女の足が、美琴の横を掠めて音楽室の扉の方に向かってゆく。その様を、美琴は座り込んだまま見つめていた。トイレ行きます、と言い訳のように里緒は口走った。芯の抜け落ちた声は美琴の眼前に落ちて砕け、水溜まりを描いた。

 そのとき。


「──待って」


 ようやく美琴は、喉から息を絞り出すことができた。

 里緒の足音が背後で鳴り止んだ。間に合ったことへの安堵で満たされた美琴の胸には、次の瞬間には無数の叫び文句が泡沫のように浮かんで、弾けて、それがどんどん喉元を上がってきた。

 今、ようやく真実を受け止められた。

 里緒は悪くない。

 悪いのは美琴だ。


(待って。謝らせて。素直に信じられなくてごめん、って……)


 まぶたを閉じ、暗闇の中で美琴は喚いた。あれほど見えなかった心の闇の奥を、今は嘘のように克明に窺うことができた。

 初めから分かっていたことだった。美琴はただ、自暴自棄になっていたのだ。里緒への負い目を引きずり、部の活動の邪魔をしたことへの後ろめたさに(おび)え、そのうえ腱鞘炎のせいで楽器を手に取ることもできなくなって、ここのところ美琴は自分の存在価値を完全に見失っていた。それでも強がるのをやめられなくて、里緒の前でも、部員の前でも、いつも通りの自分を演じ続けようとした。けれども、その(むな)しい足掻きの裏に隠した本音は、すべて里緒に見抜かれていたのである。

 ──もしかすると本当は、誰かに気づいてほしかったのかもしれない。

 弱い自分を受け止めてくれる相手を、心のどこかで欲していたのかもしれない。


「戻ってきて」


 里緒の座っていた床を睨みながら美琴は求めた。普段のくせで言い付けるような口調になり、命じられた里緒は大人しく元の場所に戻ってきた。

 その双眸がぐったりと濡れているのを目の当たりにして、『トイレ』というのが嘘だったのを美琴は確信した。


「……ごめん。つい、邪推しすぎた。高松には邪推なんて必要なかったね」


 謝りながら、美琴は無理をして口角を上げてみた。どんな表情を浮かべたものか見当もつかなかったが、いずれにせよ仏頂面のままでは伝わるべきものも伝わらないと思った。目頭が熱く燃えかけたが、気合で涙は奥に押し込めた。

「そんな……」と里緒は口ごもる。首を振って制してから、立ち上がって里緒に歩み寄った。こうしてみると、美琴の身長の方が数センチばかり里緒よりも高い。美琴と里緒の()なんて、所詮、この程度のものだと思った。

 思いきって里緒の頭を撫でてみた。飛び跳ねんばかりの勢いで里緒は首をすくめ、目を閉じた。


「私は、自分のこと、ダメな先輩(やつ)だと思ってる」


 美琴は撫でながら口を開いた。手のひらに伝わる里緒の温もりが、ぞっとするほどの落ち着きと安心感を美琴の身体に流し込んで、口元に浮かべた空虚な表情を残らず吹き飛ばした。


「だから、変に気を遣ってくれなくていい。ごく普通に、高松のやりたいように接してくれればいい。それが本音なんだよ。……それでもさ、高松が私に元気出してほしいって心から願ってくれているのなら、私はそれを無下にしたらいけないんだな。逃げることばっかり考えていてはいけなかったんだ」


 里緒の目が大きくなった。少しだけ湿度の上がった音楽室の空気を、吸って、吐いて、美琴はまばたきをした。


「心配かけてごめん。……それと、ありがとう」


 ようやく口に出すことのできた本心は重く、しっとりと湿り気を帯びて、胸の前に立ち尽くす後輩の周りにまとわりついた。

 頼ってくれたこと。

 許してくれたこと。

 気遣ってくれたこと。

 それらすべての感謝を背負った“ありがとう”の語を、里緒はどのように受け取ったのだろう。人の感情を読み取るのが下手な自覚のある美琴には、きっと本当の答えは永遠に分からないものと思う。

 けれども、同時にこうも思ったのだ。里緒の言葉ならば信じられる、と。

 里緒はいっとき、身を固めてその場に立ち尽くした。潤んだ瞳を拭い、そこでようやく投げかけられた感謝の意味を悟ったように彼女はうなずいて、


「はい」


 眉を傾けながら笑い返してくれた。

 たとえ真実が分からなくても、今の美琴にはそれで十分だと思えた。








「もしも誰も報じなかったら、今頃それが新たな悲劇を生んでいたかもしれない。実現しなかった未来のことなんて誰にも分からない」


▶▶▶次回 『C.156 最善の道』

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