C.154 二人だけの朝【Ⅰ】
おとなしく楽器を放り出し、治療に専念していたのが奏効したか、美琴の右手首の経過は思いのほか芳しかった。
「このまま推移すれば、一週間以内にはテーピングを外せそうだ。少しずつ練習も始められるでしょう」
病院の先生は力強く笑って、丸まった美琴の肩を二度ほど叩いた。
「そんな暗い顔をしなさんな。大丈夫、コンクールには間に合うよ」
美琴は曖昧に笑って返した。意気消沈しているように見えただなんて甚だ心外だった。美琴としては、普段通りにクールで沈着なふりを保っているつもりでいたのに。
医者にどう思われようとも知ったことではないが、部の仲間に凹んでいるなどと悟られたくはない。意識、改めなくちゃな──。反省の念をいじくりながら、「ありがとうございました」と機械的に感謝を述べて立ち上がると、見栄っ張りの心が少しだけ疼いて、痺れにも似た痛みを放った。
病院の外は夕刻の闇に包まれていた。無傷の左手にカバンを握り、静かな家路をとぼとぼと辿った。
『来週中にはテーピングを外せる』なんて悠長なことを言っていられる状況ではないのに、自分はいったい何をしているのだろう。逸る気持ちが爪先にまで充満して、目についた小石を美琴は蹴り飛ばした。小石は目にも留まらぬ早さでアスファルトの上を駆け抜け、側溝に落ちる手前で止まった。ほっ、と温かな嘆息が口の端を流れ出した。
(……いつまでこんな惨めな暮らしを続けなきゃならないんだか)
胸を締め付ける切なさが足をも止める。雑念を振り払うつもりで深呼吸をひとつしてから、つい、日頃の習慣でスマホを取り出した。
するとそこには里緒のアイコンが浮かんでいた。
「高松?」
美琴は名前を復唱した。里緒からメッセージの通知があるだなんて珍しい。
里緒は今日、部活終わりに楽器を修理に持っていっていたはずだ。メッセージを開封してみると、里緒の送ってきた文面は簡素だった。
【自分の楽器を修理に出してしまったので、先輩の持っていたAクラ、お借りできませんか?】
そういえば自分は楽器管理係だったと、まるで他人事のように思い出した。お借りするも何も、美琴だって備品の楽器を勝手に借りただけである。
【準備室の棚の一番手前に置いてあるから、自由に使っていいよ】
最後に自分の置いた場所を思い起こして、返信を打った。ものの十秒も経たないうちに既読のサインが表示され、まもなく返信が飛んできた。
【わかりました。ありがとうございます】
存外あっさりと解決した。大したこともしていないのに善行を一つ積んだ気になって、美琴はスマホをカバンに放り込もうとした。
すかさず里緒が追加でメッセージを送ってきた。話はそこで終わっていなかったのだ。
【それと先輩、明日の朝、お時間はありますか?】
明日も平日である。むろん部活があるし、練習に加われない美琴も午前九時のコンクール練開始には間に合うように顔を出していた。里緒が“朝”と言っているのは、それより早い時間帯のことか。
【朝八時以降なら】
そう書いて、送った。すぐに返信が来た。
【お時間がよろしければ、その時間に音楽室でお会いできませんでしょうか。相談したいことがあるのですが……】
里緒はメッセージの文面ですら、徹底的に堅苦しい低姿勢を貫こうとする。とっさに美琴は訝った。
(私に相談することなんてあるわけ?)
花音や菊乃や部長ならばともかく──。たちの悪い冗談かと思ったが、里緒は先輩相手に冗談を飛ばすような少女ではないとすぐに思い当たった。一応、探りを入れてみることにした。
【何の相談?】
【その、コンクール曲についてです。私なりに曲解釈を考えてみまして】
やはり返信は一瞬だった。わずかに納得を覚えつつ、いや、と美琴はさらなる返答を打ち込んだ。
【私じゃなきゃ駄目?】
書き出した本音は思ったよりも醜かった。数秒、その場に立ち尽くして返信の是非を考えたが、時間を追うごとに気恥ずかしさが加速して、送信ボタンにかけた親指がタップを頑なにためらった。
(やっぱやめた)
そう思い立って、美琴は送りかけのメッセージを消してしまった。
翌朝、八時に音楽室へ着いてみると、里緒はとうの昔にカバンを置いて、床に座り込みながら代用品のA管クラリネットを組み立てていた。無事に音楽準備室から見つけ出せたらしい。
「……早いね」
声をかけると、彼女はぴんと背を伸ばして美琴を振り向いた。
「おっ、おはようございますっ」
ただでさえ小ぢんまりと竦んでいるのに、広い音楽室の床に座り込む里緒の肩はいっそう小さく見える。背は高いのにな──。里緒の隣を目指して音楽室を横切りながら、美琴は湿り気の溜まった唇を内側に巻き込んだ。
別に、先輩だからといって崇められたいわけではない。花音や他の一年生のごとく、もっとゆるい態度で接してくれればいい。肩肘を張る必要はないし、むしろ大きく出てきてくれていい。里緒には、そうする資格がある。つねづね美琴はそう思うのだが、その旨を里緒に伝えようものなら彼女はきっと必死の形相で引き下がろうとするだろうし、それもそれで美琴にとっては何となく不本意なのだった。
「それで」
至近の椅子にカバンを放り出しながら、尋ねた。
「用件、コンクール曲の話だったよね」
里緒はまだ正座の姿勢を崩そうとしなかった。はい、などと背骨から響いているような声を発しながら、彼女はクリアファイルから〈クラリネット協奏曲〉の譜面を引っ張り出し、美琴の前に並べた。
美琴は眉を潜めた。ところ狭しと並んでいたはずの付箋が、そこには一枚も残っていなかったのだ。
「剥がしたの?」
「今日からまた、逐一追加していこうと思っています。その……一旦、ぜんぶリセットしたくて」
完成したクラリネットを握りしめ、里緒は美琴を見上げた。
物腰も、迫力も、普段の里緒と大差はない。しかし美琴は直感的に、目の前に座り込んだ後輩の瞳の色が平素と違うのに気づいていた。あの後ろ向きな里緒の口から“リセット”などという挑戦的な単語が飛び出すだなんて、それこそ意外もいいところだ。
「相談、させてもらってもいいですか」
里緒は上目遣いに尋ねてきた。
「……いいよ」
うなずいた美琴は椅子から腰を持ち上げ、里緒の向かいの地べたに座った。パイル地のカーペットがちくちくと肌に刺さって、小気味のいい違和感を演出する。それだけで、どんな想定外の発言が来ても多少は受け止められる覚悟が定まった気がした。
里緒は一瞬ばかり、クラリネットを抱きしめたまま沈黙した。
かと思うと、いつもの愁いを帯びた表情のまま、白い顔の美琴と楽譜とを何度も見比べた。
「あの、茨木先輩、友達に手紙とか贈ったことってありますか」
のっけから美琴は面食らった。すんなり曲の話に入ってゆくのかと思っていたのに。
「ないよ。私、そういうの苦手だった」
普段の癖で突き放すように答えてしまった。実のところ、『そこまでするほど仲のいい存在がいなかった』というのが正解だと分かっていたのだけれど、こと里緒の前でそれを素直に白状するのは見栄っ張りの自意識が許さなかった。
里緒はためらいがちにうなずいた。
「……私も、ないんですけど」
「それって曲と関係あるわけ?」
「この〈クラリネット協奏曲〉って、モーツァルトがクラリネット吹きの友人のために作曲したものじゃないですか。今の感覚でいえば、きっとそれって友達同士で交換する手紙とか、プレゼントみたいなものなのかなって、私、思っていて」
「……まぁね。そうかもしれない」
美琴は曖昧に肯定した。実際には、受け取った奏者は楽譜をもとに演奏をして収入を得ることができたので、必ずしも友達同士で交わす手紙やプレゼントなんかと同一視できる代物ではあるまい。けれども、里緒の喩えの主眼はそこではないはずだ。
「茨木先輩はこの曲の製作背景のこと、どのくらい調べられましたか」
里緒が尋ねてきた。社会科目の記述問題に向き合う要領で、美琴は記憶の戸棚に手をかけた。
「一七九一年十一月の半ば、モーツァルトが死の間際に友人のために制作した曲。友人とは秘密結社のフリーメーソンで出会っていて、彼のクラリネット吹奏はモーツァルトのお気に入りだったって言われてる。モーツァルト自身、当時としては珍しいくらいクラリネットに入れ込んでた。そんなとこ」
これでも人一倍、曲のことを詳しく調べている自負はあるのだ。
「私もそんな感じです。あとは……完成から半月後にモーツァルトが亡くなってしまったことくらい」
付け足した里緒は、その、と小さな声を漏らしながら、手元のキイの凹凸に指を押し当てた。
「当時は携帯電話も何もなかったから、きっと他人と連絡を取るのはすごく大変な時代だったと思うんです。友達と話をしたくても、簡単には機会を作れないし……。そんな時代を生きたモーツァルトが、命の潰えるタイミングで大切な友達に曲を贈ったとしたら、その曲にはモーツァルトから友達へ宛てた何かのメッセージが込められていたとしても、不思議じゃないと思われませんか」
「私……、茨木先輩が苦しい気持ちでいるの、分かってます。分かってました」
▶▶▶次回 『C.155 二人だけの朝【Ⅱ】』