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クラリオンの息吹  作者: 蒼原悠
第五楽章 奏でよ、悠久のレクイエム
164/231

C.153 オーバーホール

 




 立川には瑠璃の遺品の一部を持ってきていた。押入れの奥に収まっていた未整理の段ボール箱を開け、中を探ると、里緒の手元にはひとひらの封筒が転げ落ちてきた。

 中身は二枚。

 里緒宛のものと、大祐宛のものである。


【私のクラリネットは里緒にあげる 大切にしてね】


 里緒宛の一枚にはそう記してある。

 この二十一文字こそ、一年前の五月に家の片隅で首を吊って自殺した瑠璃が、遺してゆく娘に伝えようとしてくれた最期の言葉だった。

 改めて広げてみると実に簡素なものだ。伝えるべきこと、伝えねばならないことはきっとたくさんあって、わずか二十数文字の遺書では書き表しきれていないはずなのに、たったこれだけの言葉を遺して瑠璃は命を絶った。その悲痛な事実を、以前の里緒は“自分に対する母の恨みの表象”だと捉えることで、どうにか強引に理解しようとしていた。

『里緒のせいで私は死ななければならなかったんだ、一生その重みを背負いなさい』──。そんな、生前の瑠璃ならば決して口にしなかったはずの声が、遺書の文面を読み返すたびに鼓膜の内側で炸裂した。けれども真実は逆だった。瑠璃は里緒を恨むどころか、むしろ里緒や大祐に後悔や罪悪感さえ覚えていたかもしれないのである。


 ──『お母さん……』


 二度と伝わらない声で呼びかけたら、また、一筋の涙が浮かんで頬を流れ下った。

 これではいよいよ、瑠璃の真意が分からない。瑠璃は今際に何を言い残そうとしていたのだろう。十五年近くも隣で一緒に生きてきたのに、そんなことも分からない私なんて娘失格だ──。つくづく不甲斐ない思いに心を(やつ)されて、やりきれなくて、しばらくその場で静かに泣いた。しゃくり上げるたび、無様な自分に嫌気が差した。

 だが、床へこぼれた涙の(しずく)が弾けるたびに、なぜか視界は澄み、遺書の文面を克明に読み取れるようになっていった。






『楽器修理工房Cheers』は、東京都武蔵野市の吉祥寺北町に立地している。国分寺から中央線に乗って東に向かうこと十数分、最寄り駅は吉祥寺。立川とは違った(おもむき)の繁華街の広がる、理想の住みたい街として一躍有名になった都市である。

 かんかん照りの暑さに参りつつ、住宅街の中をさまよって看板を探すと、目当ての名前はアパートの二階に掲げられていた。店らしくもない風貌だが、果たして本当にここなのか。おっかなびっくり門に手を掛けて外階段を上り、店の入り口を伺うと、ちょうど作業中の様子だった従業員の男性が、黒色のエプロンを翻しながら里緒を迎えてくれた。


「修理依頼の方ですか」

「えと、はい……。この楽器をお願いしたいんですけど」


 里緒はおずおずとクラリネットのケースを差し出した。すばやく目を走らせた男性は、「ああ」と納得の声を漏らして、丁寧な手付きでケースを受け取った。


「西成先生のお知り合いの方ですね。昨日の夜、電話がありまして」


 さすがは西成、しっかり先んじて手を回してくれていたようだ。

 男性はすでに中身がA管バセットクラリネットであることも知っていた。てきぱきとケースを開き、状態を調べる彼の姿を、猛暑に痛め付けられた皮膚を(いたわ)りながら里緒は眺めた。胸元の名札には【(さかい)継敏(つぐとし)】の名があった。


「修理の項目はいかがいたしましょうか」


 尋ねながら、堺は価格の表を里緒の前に出した。

 タンポ交換、バランス調整、ジョイントコルク交換、管体割れ修理、キイスプリング交換、キイ動作調整、ボアオイル塗布。こう見えても精密機械ゆえ、クラリネットの修理(リペア)項目は極めて多い。しかし今回はオーバーホールのつもりで来ている。ずらりと並ぶ項目を見渡して、里緒は「その」と吐息をひとつ置いた。


「ぜんぶお願いします」


 堺の目が輝いた。


「オーバーホールということでよろしいですね」


 里緒はうなずいた。修理費の手配にも目処(めど)はついている。

 手早く要修理箇所を調べていった堺が、価格と修理期間を算出してくれた。価格は最低でも約九万円、引き取りは三週間後の八月二十六日。それだけあれば元通りの完全な状態でクラリネットを引き渡せるという。費用は後払いなのだそうで、今回は楽器を手渡すだけである。

 九万円もの大金を口座から引き出すのには、さしもの里緒も勇気が()りそうだった。


(それだけあったら何ヶ月生きていけるかな、私)


 引換票に住所や電話番号、それに名前を書き入れて堺に手渡しながら、里緒は苦味の深い息を飲み込んで喉を鳴らした。九万円もあれば様々なことができる。たくさんの本やゲームを買えるし、どんな高額のレジャー施設にでも遊びに行ける。

 それでも、このクラリネットが往時の輝きを取り戻してくれるのなら、これだけの大金を(はた)くのも惜しくはないと思えた。

 名実ともにクラリネットの(とりこ)になっているのを自覚しつつ、里緒は堺が伝票の書き漏れを確かめるのを待った。確認を終え、彼は眉を上げた。


「確かに承りました。作業が終わり次第、こちらの番号にご連絡を差し上げます。費用についてはその際に改めてご案内いたしますので」

「よろしくお願いします」


 里緒は深々と頭を下げた。




『Cheers』を出ると、すでに陽は大きく傾いていた。西の方角に横たわる奥多摩の山々は黒く霞み、その頭上に沈みかけの太陽が眩しい金色の光線を放ちながら滞空している。


【楽器、修理に出しました】


 店を出たところで菊乃にメッセージを送った。間もなく、待ちわびた勢いで返信が飛んできた。


【おー! おつかれ! じゃ、明日からは備品のA管使って練習しよっか】


 自前のクラリネットが手元にないからといって、練習を怠るわけにはいかないのだ。【わかりました】と返信を(したた)め、送ると、里緒は何となく西の方角を目指して歩き始めた。

 最寄り駅は吉祥寺だが、西へ二十分ほど歩けば隣の三鷹駅も遠くはないようだった。吉祥寺のような繁華街には人目が多い。世間に“顔”の割れている里緒にとって、人の多い場所はまだまだ歩きづらい。

 コンクールまでの時間は一分も無駄にしたくない。歩く道すがら、イヤホンを取り出して耳に詰める。ジャックをスマホに接続し、〈クラリネット協奏曲〉の再生を始めた。

 柔らかなA管クラリネットの音色が耳元に響き渡った。空いっぱいに溶けて広がる淡いオレンジ色のように、その音色は確かな温もりと寂しさを(たた)えて、遠く、強く、歌を歌って(かす)(かす)む。

 近年になって発売されたCDの収録では、きちんと往時のようにバセットクラリネットが用いられているらしい。一度はソプラノA管用に直されてしまった楽譜も、数々のモーツァルト研究者たちの手でバセットクラリネット用譜が再現され、すでに市場流通しているそうだ。モーツァルトの遺志は現代にもきちんと引き継がれている。アスファルトに影を落として転がる小石を見つけ、さしたる意味もなく拾い上げて握りしめながら、里緒は〈クラリネット協奏曲〉の描く優しい世界のなかを歩いた。

 何べん聴き返しても、どこまでも“優しい”という言葉の似合う曲だと思う。


(きっとシュタードラーも嬉しかっただろうな。仲良くしていた友達(モーツァルト)が、こんな自分専用の素敵な曲を作ってくれたんだから)


 つい、子供じみた感想が胸をよぎった。それこそ『天国的』だとか『優美』だとか、織り込まれた“優しさ”の在り方をもっと具体的に表現できるような言葉が思い付ければいいのだけれど、あいにく里緒には語彙力もなければ表現力もない。そのうえ、モーツァルトの描く世界観を評した音楽家や学者の言葉も、何一つとして知らない。

 里緒は、里緒の持つ価値観の範囲でしか、この曲を理解することができない。

 京士郎の説明してくれた曲の製作背景が思い出された。空を見上げ、浮かぶ雲の輪郭がオレンジや藍に染まっているのを見つめながら、里緒は甘い香りの吐息をゆるゆると(こぼ)した。


(どうしてモーツァルトは、こんな優しい曲を友達に捧げようと思ったんだろう)


 作曲当時、すでにモーツァルトは肉体的にも精神的にも経済的にも追い詰められ、自らの死期を悟っていたのだと言われる。死の淵に立った稀代の天才作曲家が、これほどに情緒のあふれる曲を作ってまで友人に伝えたかったこととは、いったい何だったのだろう。

 里緒がモーツァルトの立場だったなら、どんな曲を作ろうと考えただろうか。しばし立ち止まって熟慮に耽ったが、ついぞ何も浮かんでくることはなくて、里緒はたまらなく虚しい無力感に包まれた。

 ダメだ。

 そんなの分かるわけがない。

 いくら考えたって思いつかないし、むしろ悲しみが深まるばっかりだ──。

 天才作曲家と平凡なクラリネット奏者の自分では、持ち合わせている情緒の深みも違いすぎるのだ。虚しさを胸いっぱいに抱え込んだまま、握った小石を足元にそっと置いて、里緒はふたたび歩き始めようとした。


 そのとき。


(なんで悲しくなるんだろう)


 ふと、疑問符が脳裏をかすめた。


 死の接近を悟ったうえで、大切な友人に想いを込めた作品を届けようとすれば、きっと悲しい気分で制作にあたることになる。それは、二度と想いを伝えられなくなるからだけではなくて、友人のことを心から敬愛しているからに他ならないはずだ。大好きな人、大事な人への想いというのは、たいてい種類が多いうえにカタチも重みもばらばらで、ちょっとやそっとの言葉や音で簡単に表現することはできない。

 そうでなかったら誰も、別れの言葉を考えるのに苦労しない。伝えたいことは山ほどあるのに、無数の感情で胸がいっぱいいっぱいにあふれて、かえって何も書けなくなる。だから誰もが別れ際に苦しみ、喘ぎ、伝えきれなかった想いを抱えて泣きながら離れてゆくのだ。


(──そうか)


 里緒は立ち止まった。

 その瞬間、それまでまったく無関係だったはずの事象と事象が、頭のなかですんなりと結ばれた。


(もしかして、お母さんの遺書がほんの数行で終わってたのって……)


 見上げた空をプロペラ機が舞っていた。半径の大きな(わだち)を描き、里緒の遥か頭上を旋回した飛行機は、見る間に漆黒の影を引きながら南西の方角へと飛び去っていく。プロペラが空気を掻き回す(かしま)しい爆音のなかに浸りながら、里緒はしばらくの間、今しがた思い当たったことの意味を考え続けた。






 誰かに聞いてほしい。

 (ひらめ)いた真実への手掛かりを誰かと共有したい。

 一緒に考えてほしい。

 そう思った。

 そのとき里緒の頭に浮かんでいたのは、花音でも、紅良でも、はたまた菊乃や京士郎や矢巾でもなかった。








「私に相談することなんてあるわけ?」


▶▶▶次回 『C.154 二人だけの朝【Ⅰ】』

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