C.152 痛みを吐いて
幹線道路は車で埋まっていた。
どこを見ても前照灯や尾灯の目映い光にあふれ、視界を持ち上げれば高いビルの照明が世界を華やかに彩っている。赤や黄の信号が目に刺さって痛い。デジタルサイネージの色とりどりの電飾が瞳に瞬き、網膜に刻みつき、退屈な時間をかけてじりじりと後方へ遠ざかってゆく。その光景を、里緒も、ハンドルを握った大祐も、ぼんやりと呆けたように眺めていた。
二人がようやくまともに口をきいたのは、西成邸を出発して十五分も経ったときのことだった。
「……里緒」
いっこうに青くならない信号を見つめながら、大祐がつぶやいた。膝に乗せたクラリネットのケースを飼い猫よろしく撫でて気を紛らわせていた里緒は、「うん」と顔を上げた。
その角膜いっぱいに東京の夜景を映しながら、大祐の目は遠くなっていた。
「コンクール、挑戦するんだな。初めて聞いた」
「その、ごめんなさい……。ほんとはもっと早く言おうと思ってたんだけど」
「謝ることはない。別に責めるつもりがあるんじゃない」
大祐はハンドルを握り直した。
「昔の里緒なら、コンクールに挑戦するなんて言わなかっただろうと思ったんだ。強くなったな」
とんでもない、強くなったわけではない。それどころか里緒は今回、強硬な誘いを断りきれなくてコンクール組に入った身だ。今は納得してるとはいえ、私は弱いままだ──。大祐から視線を反らし、前照灯の照らし出すアスファルトの路面を見つめながら、里緒は唇を内側へ折り畳んだ。
知られたくないことは知られないようにしたい。知られたら最後、きっと軽蔑される。大切な人に軽蔑されるのは何よりも恐ろしい。
いつか生前の瑠璃も、里緒や大祐の前でそんな風に思ったのだろうか。
「里緒は強くなった」
大祐は同じ言葉を繰り返した。それは無意味な反芻ではなくて、続く台詞の枕詞のようだった。
「羨ましいな。母さんも、父さんも、里緒のように強くはなれなかった」
「そんなことは……」
「あったんだよ。……里緒、少しばかりでいいんだ。父さんの話を聞いてくれないか」
静かで真摯な問いかけだった。真面目な話を持ちかけようとするとき、大祐はいつもこうしてぎこちなく神妙になる。
「うん。聞く」
答えながら、里緒はクラリネットのケースをしっかりと抱きしめた。こうして胸に押し当てていると、多少の衝撃があっても心を圧壊させずに済むのだった。物理的にも、心理的にも。
信号が青に変わった。アクセルを踏み込んだ大祐は、あちらこちらと忙しなく視線を走らせながら、一瞬、淡い嘆息を漏らした。
「西成さんが言ってた話な。実は父さん、少しだけ先んじて知ってたんだ」
「ど、どの話?」
「母さんの受けていたママ友いじめが里緒に及んで、里緒もいじめられた、って話があっただろ」
里緒は息を飲んだ。そんな、先に知っていたならどうして教えてくれなかったのか。里緒が激しい自罰感情に苛まれていることを、以前から大祐は知っていたはずだ。
「分かったのはつい最近のことだった。里緒が中三に進級した頃、母さんはいじめをやめさせるように手紙に書いて、担任の先生に手渡していたらしい。その渡された手紙に、母さん自身の筆跡で、【私のせいで里緒はいじめられた】って書いてあったのが見つかったんだ。でも、それだけでは事実の経緯が何も分からなくて、信じようがなかった」
大祐は姿勢を低く下げた。ハンドルにしがみつく小さな大人の姿を、対向車の放つハイビームが煌々と照らし出す。里緒と大祐は揃って目を閉じた。
「もしも、西成さんの話してくれたことがすべて真実だったとして……。里緒は母さんのこと、恨むか。憎むか」
眩しい光のなかで大祐が尋ねてきた。
ほんの一時ばかり、里緒は返答を考えることができなかった。
自分のせいで瑠璃がいじめられたのではなくて、瑠璃のせいで自分がいじめられた。里緒には何の罪もなく、ただ、母親たちのトラブルに巻き込まれ、悲惨な中学生活を送らされる羽目になった。
それでも結論は「否」だと思った。たとえ真相がそうであろうとも、里緒には瑠璃を恨めないし、憎みたくなんてない。その程度の減点要素では引っくり返せないほどの温もりを、優しさを、瑠璃はひとりぼっちの里緒に与え続けてきてくれたのだ。その恩を仇で返すような真似など、里緒にはできない。したくもない。
「ううん……。ぜったい恨まないし、憎まない」
首を振り回して言い切ると、そうか、と大祐はつぶやいた。目に見えない安堵の吐息が口元を漂っていた。
「父さんも同じだ。母さんのことを恨みもしないし、憎みもしない」
「……うん」
「それでな、里緒。父さんからもひとつ、謝らなくちゃならないことがある」
大祐が切り出した瞬間、前の車がブレーキランプの赤い閃光を放った。
前方の信号がまたも停止の色に染まっている。落ち着いてブレーキペダルに足をかけ、滑らかに車を停止させた大祐は、肩で大きく息をしながら足元の暗闇に目を落とした。里緒の目にはそれが、口を開く覚悟を決める儀式に見えた。
「父さんもな……」
大祐は喘いだ。
「会社でいじめられてた」
里緒は思いっきり息を飲み込んだ。強張った身体が震えを帯びて、鼻についた排ガスの臭いとともに痛みを放った。
思ってもみない告白だった。
瑠璃のみならず、大祐も──。
「い、いじめられてた、って」
「正確にはパワハラだろうな、いじめとはちょっと違うかもしれない。……会社の仲間とか上司に、仕事場で村八分にされていたんだ。とうとう母さんにも一度も話さなかった」
なんで、と里緒は震える声で尋ねた。どこかの車がけたたましくクラクションを鳴らしたせいで、発した声は自分の耳にさえ届かなかった。
大祐は自嘲気味に笑って、窓の外を見つめた。
「学校では里緒がいじめられて、ママ友同士の間では母さんがいじめられていた。あの頃、我が家で無傷なのは父さん一人だった。二人に寄り添うことができるのは父さんだけだった。だから、無理をしてでも会社を休んで家に残って、家事をこなしたり、母さんの話を聞いたり、学校に出向いたりして、なんとか二人のためになることを頑張ろうとしてきた。それが裏目に出たんだろうな……。多分、休みすぎたおかげで目をつけられたんだ」
「それじゃ……!」
「里緒のせいじゃない」
里緒の叫びを大祐はきっぱりと断ち切った。ハンドルを握りしめる手の甲に血筋が浮かんで、痛みに耐えるかのように蠢いた。
「里緒のせいでも、まして瑠璃のせいでもない。要領よく仕事を回せなかった父さんが悪いんだ。……もっと言えば、苦しみをぜんぶ独りで抱え込んで、大切な家族と共有しようとしなかった、父さん自身の責任なんだ」
その瞬間、大祐の口にした『父さんも同じだ』という台詞の意味が根元から覆ってゆくのを、里緒は明確に悟った。
大祐は瑠璃と同じ道を選んだのだ。真実を暴露せず、脆い自分の心のなかに閉じ込めて、漏れ出る沈痛な感情を必死に隠し通そうとし続けた。だからこそ大祐は、瑠璃を責められないと言ったのである。
大祐は噛んだ唇を解き放った。ふたたび滑り出した車は、広い交差点を渡って、赤や黄色の光の渦巻く川のなかへ飛び込んでゆく。無数の光が視界の端でにじみ、丸くつぶれて輝くのを、里緒は茫然と見つめていた。
「怖かった。弱っている里緒や母さんに弱みを見せるのが、あの頃はひたすらに怖かった。確かに、プライドが邪魔したんだって言ってしまえばそれまでなのかもしれない。父親として強くいなければならない、家族を支えられる一家の大黒柱でなければならないって、取り憑かれたみたいに信じ込んでいたんだろうな……。情けない話だ」
ハンドルに食い入るように指を立て、大祐はうなだれた。
「すまん、里緒」
「…………」
「父さんが弱くなかったら、母さんはもっと父さんのこと、頼ってくれたのかもしれない。ママ友いじめが里緒に波及したことも、素直に打ち明けてくれたのかもしれない。そうすれば、母さんがつぶれて自殺に追い込まれることも、今、こうして二人で苦しむことも、何もかも防げたのかもしれない……。取り返しのつかないことになる前に、何とかできたかもしれないのにな……」
ハンドルの姿をした円形の藁にしがみつき、かすれた声を絞り出す大祐の目尻からは、いつしか、透き通った色の涙が流れ出していた。
渋滞で前が詰まっている。尾灯のきらめきが眼前に迫り、胸に抱えたクラリネットのケースがブレーキの衝撃で里緒の身体へ体当たりしてきた。痛みに目を閉じ、開けたとき、視界の彼方を飛び散っていった心の欠片を見て、そこで初めて里緒も、自分が泣いているのを自覚した。
だって。
謝ってほしくなかったから。
里緒に謝るのは何かが違うと思うから。
なのに、自分の立場に立って考えたら、大祐のように無様に謝ることしか思い付かなかったから。
「里緒」
涙を拭った大祐が声を震わせた。
「母さんのこと、守ってやれなくて……ごめんな……っ」
歯止めの効かなくなった涙腺からぼろぼろと涙があふれ出して、里緒の頬を滝のように流れ落ちた。ケースを固く抱き寄せ、痛む下腹部に懐かしい瑠璃の温もりを思い返しながら、夢中で里緒は首を振った。砕けた心がさらに飛び散った。
「私こそごめんなさい……っ。お父さんのこと、お母さんのこと、ひとりぼっちにさせちゃってっ……」
今はただ、悲しくて、苦しくて、灰色の自己嫌悪が堆く募った。いじめられる人の痛みは誰よりも里緒がよく知っている。それなのに、いちばん近くで同じ苦痛に顔を歪めている人がいたことに、こんなに長いあいだ気づけなかったなんて──。
バカ、と大祐が涙混じりに毒づいた。
「親なんだぞ」
「家族なんだよ」
里緒も泣きながら言い返した。
反論の文句はついに浮かばなかったようだった。大祐は鼻を啜り上げ、目を真っ赤に染めながら前方を睨んだ。里緒は胸元のクラリネットケースをますます強く抱きしめ、砕けた心が散らばるのを懸命に防いだ。支えたままになっていた感情の栓がようやく抜け、互いの言葉で本心を語り合えたことの安堵と、それをも遥かに上回る巨大な悲哀や喪失感に全身を包まれて、抵抗のすべが思い付かなかった。
里緒だけではない。
瑠璃も、大祐も、みんな苦しかったのだ。
どうして苦しまねばならなかったのだろう。いったい何の因果があって、今もこんなに苦しまなければならないのだろう。
(いつまでこんな風に泣き続けるんだろう……)
掴んだ不都合な真実を里緒は噛みしめた。粘り気のある塩の味が、喉に絡み付いて痛みを発した。
そのまましばらく、車は波に乗って走り続けた。カーナビを見るという発想が浮かばなかったので、今、車がどの街にいるのか、里緒には見当もつかなかった。
はっきりしているのは、自分が助手席でだらしなくしゃくり上げていること。
それと、手の届く距離に隣り合って座る大切な父親が、同じように涙を流していることだけだった。
「どうしてモーツァルトは、こんな優しい曲を友達に捧げようと思ったんだろう」
▶▶▶次回 『C.153 オーバーホール』