C.151 師匠の後悔【Ⅲ】
えっ、と大祐の反応が裏返った。搦め手から槍を突き出されたような痛みが里緒の脇腹にも走った。
「今日、こうして遠方からお呼び立てしたのは、もう一つばかりお伝えしたかった話があったからでもあります」
言いながら立ち上がった西成が、紅茶のお代わりを薦めてきた。とんでもない、そんな厚意には甘えられない──。ほとんど中身の減っていなかったカップに急いで口をつけながら、断りのつもりで里緒は首を振った。内心、目の前の飲み物どころではない気分だったという事情もあった。
ここまでもったいぶっておいて、西成はいったい何を明かす気でいるのだろう。
「里緒さん」
ふたたび腰を落ち着かせた西成が、問うた。
「昔のことを思い出すのはつらいですか。いじめられていた頃のこと、お母さんを亡くした時のこと」
「……はい」
里緒はうなずいた。『そのおかげで今でも過呼吸になることがある』などと付け加えれば、西成をさらに過剰に心配させることになったかもしれない。
「そうでしょう。痛ましい出来事だっただろうからね」
睫毛を二度、三度と上下させ、西成は里緒の返答を肯定した。
里緒の胸にはふたたび痺れが溜まった。痛ましい出来事だなんて思っていいのは、まったく咎のない大祐や西成のような立場の人の特権だというのに。
答えるべき語彙が思い付かず、里緒も、それから隣の大祐も、長い沈黙に陥った。それも初めから想定済みだったのか、「実はね」と西成は自分の話を切り出した。
「なかなか信じにくいことかもしれませんが……。里緒さんがいじめを受けていること、私は去年のうちから知っていたんです」
「なっ、なんでですか」
脊髄反射で尋ねた里緒は、同時に自分がとんでもなく失礼な言葉選びをしたのに気づいた。だが、さして気に留める様子もなく、西成は二度ほど瞬きを打った。その瞳は年のせいか、うっすらと黒の湿り気を帯びていた。
「電話があったんですよ、瑠璃さん本人から。あれはちょうど一年半近くも前のことだったか……。いつもの電話と思って受話器を上げたら、電話口の向こうで瑠璃さんは半泣きになっていた。こちらからわけを尋ねるまでもなく、事情を聞かされました。里緒さんが学校でいじめられ、自分もママ友いじめを受けている──と」
電話があったのは昼頃だったという。大祐は会社に、里緒は学校に向かっている時間帯であり、高松家は瑠璃を除いて無人の状態だった。『今なら何でも話せます』『先生の前でならみんな話せるんです』といって、瑠璃は泣きながら電話口にかじりつき、事の次第を西成に訴えてきたのだ。
「学校や教育委員会にも何度も解決の申し入れを行い、警察にも相談し、周りの人たちにも助力を請うたが、どうにもならない。事態は悪化する一方だといって彼女は嘆いていました。不憫に思って聞いていたんですが、そのとき、瑠璃さんは間違いなく、こう言っていたんです」
一拍の間を置き、西成は吐露した。
「『自分のせいで里緒さんはいじめられている。こんなことでは里緒さんにも、大祐さんにも顔向けができない』──と」
里緒は無意識のうちに自分の聴き間違いを疑った。「ええ」と苦しげな感嘆詞を挟んだ西成は、里緒の意図をすべて読み取ったように唇を噛んだ。
「そうです、いま報道されていることと逆です。お二人の認識も報道の内容と同じのようだし、意外に思われるのも仕方のないことだ。しかし、事実はそうではないのです。学校で里緒さんの受けたいじめは、瑠璃さんの受けていたママ友いじめが波及して起きたものだったんだそうだ。他ならぬ瑠璃さん本人の口からそれを聞かされた私が言うのです。どうか信じていただけないか」
「なっ、なんで、そんな……っ」
「瑠璃さん本人の見解では、発端はPTA内での人間トラブルだったようです。新しい環境に馴染もうとして、瑠璃さんは積極的に面倒を引き受けたり、人の輪に混じっていこうとしていたそうですね。それが裏目に出たんだと瑠璃さんは言っていた。……気づけば一年がたち、すっかり悪目立ちした瑠璃さんは、いつしか周囲のママ友から疎まれる存在になっていた、と」
そんな。
そんな話、聞いていない。
耳に飛び込んでくる西成の言葉に脳を揺さぶられながら、里緒は口のなかで「そんな」と無意味に繰り返した。
思い返せば、里緒のいじめには明確な発端がなかった。あるとき突然、理由もなく始まった。それまでの里緒はクラスにほどよく溶け込む空気のような存在で、好かれてはいなかったかもしれないが、これといって里緒を嫌悪する子もいなかった。急速に心象が悪化していじめに至るような契機は、少なくとも里緒には何もなかったのである。
「ママ友たちは瑠璃さんを効果的に痛め付けるために、子供たちを里緒さんへけしかけた。そのうえ巧妙に立ち回って、いじめがママ友からではなく、子供たちの側から発生したように見せかけている。──それが瑠璃さんの見立てでした。この構図は瑠璃さんの死後も変わっていないでしょう」
西成は三たび、紅茶を含んだ。その頬に喜びや興奮の色はもはや一滴も見えず、息の止まるような静寂が一瞬、里緒や大祐を支配した。
「自分がいじめられるのはいいが、里緒さんまでいじめの対象になってしまった。しかし瑠璃さんの苦しみの原因は、そればかりではなかったようでした。瑠璃さんがもっとも恐れていたのは……」
最後の語を引き延ばし、カップを置いた西成は、里緒と大祐の瞳の奥を交互に覗いて、言った。
「……自分のせいで愛娘がいじめられていることが、お二人に露見することだったようです」
「そんなバカな!」
大祐が立ち上がった。
「加害者ならともかく瑠璃は被害者なんですよ、そんなことを気にする謂れは……っ!」
「瑠璃さんは自分のことを、まさに里緒さんに対する加害者だと認識していたんです」
落ち着き払った西成の声が、広い応接間に残響を刻んで轟き渡った。何も言い返せなくなった大祐は、頽れるように座り込んだ。
「自分のせいで里緒さんはいじめられ、大祐さんにも迷惑がかかり、高松家は崩壊寸前に追い込まれている。このうえ自分の犯したことが発覚しようものなら、もう、この家にはいられない。私はおしまいだ──。そう言って瑠璃さんは泣いていた。離れて暮らす身の私にはどうしようもありませんでしたが、とにかく児童相談所や相談ダイヤルのような然るべき相手に話をして、対応を求めるようにアドバイスを施しました。……だが、報道によれば、その電話から二ヶ月も経たないうちに、瑠璃さんは命を絶ってしまった」
西成は力なく笑った。
「今となっては、もう少し何かしらの形で力になってやれなかったものかと、我が身を振り返って反省するばかりです」
「西成さん……」
「ですが、せめて、お二人にはどうか知っておいていただきたい。瑠璃さんは弱かったかもしれないが、同時にお二人に対して、世界中の誰よりもまっすぐな想いをかけていました。だから、お二人にはご自分を責めないでいただきたいし、瑠璃さんのことも責めないであげてほしい」
「…………」
「世間に流布している情報の大半は前提から間違っている。その誤りを誰も指摘しないのなら、真実の一端を知る者として、そのことを何としてでもお話ししなければならないと思っていました」
そこまでを一気に語り終えた西成は、長い吐息を漏らし、カップに手を伸ばした。
西成の話には一区切りがついた様子だった。だが、里緒と大祐は受動的な返事を返すことも、互いの顔色を伺うこともできないまま、しばし茫然とソファの弾力に沈み込んでいた。
瑠璃のいじめが、里緒に及んだ。
もしも、それが本当だとしたら、不可解だった瑠璃の自殺にもそれなりの理由付けができる。
膝に押し当てた両手の痛みを重く感じながら、里緒は灰色に染まった頭の隅で、天井からぶら下がった瑠璃の四肢を思い起こした。遺書のことも思い起こされた。里緒への想いの記述がいっさい省かれ、事務的な連絡も同然の内容だった、あの遺書。
もしや瑠璃は、自分が死ねばママ友いじめが途絶え、里緒がいじめに遭うこともなくなると考えたのではないか。さらに言えば同時に、自分のせいで大祐に負担をかけることもなくなる。何より瑠璃自身が、終わりの見えない苦痛を永遠に逃れられる。
一時は里緒でさえ、死ぬことですべてを解決しようと目論んだほどなのだ。追い詰められて視野狭窄になった瑠璃の目に、自殺という選択肢はずいぶん魅力的に映ったのではないだろうか。
「……もっと早く、知りたかった」
大祐が枯れ果てたような声で独り言ちた。それが、叩きつけられた暴力的な真実を受け止める時間の終わりを意味する動作だと捉えたのか、西成はふたたび件のアルバムをめくり始めた。
めくりながら、彼は幾度も瞬きを繰り返した。
「まだ東京にいた頃から、瑠璃さんには始終、お二人のことを自慢されたものだった。『うちの夫は優しくて誰よりも思いやりが深いんです』、『娘は素直すぎて手放せないくらい可愛らしいんです』──といってね。会うたびに写真を見せてきては、頼んでもいないのに大祐さんや里緒さんの話をしてくれました。お二人の話をする瑠璃さんは、本当に心の底から幸せそうで、つい、私も身を乗り出して耳を傾けたものだった」
「…………」
「瑠璃さんは真実、お二人のことを愛していたと思いますよ」
西成は断言した。ため息にも等しい声だった。
それでも言葉を発しない里緒や大祐を見て、西成はか細い笑みを漏らした。それから、あの金色のクラリネットを取り上げて、里緒に向かって両手で差し出した。
「さ、この楽器は里緒さんに返そう。瑠璃さんの意思で遺されたのなら、これは里緒さんのものだ」
細長い漆黒の管体が視界いっぱいに広がった。バセットクラリネットの真価を知った今、その不自然な長さに疑問を持つ余地は少しもない。震える手で管を受け取った里緒は、そこでようやく、聞きそびれていたことを思い出して我に返った。
「あの、この楽器……」
「オーバーホールに出すと言っていたね」
すべて切り出す前に西成に先を読まれた。すぐさま、ポケットからスマホを引き出して何事かを入力した西成は、表示されたページを里緒に向かって突き出した。
『楽器修理工房Cheers』とある。修理業者の公式ホームページのようだった。
「ここがいいでしょう。安いし、そう長期間に及ぶこともない。何よりバセットクラリネットの修理実績のある業者だからね」
「お詳しいんですね」
「この楽器を手に入れたばかりの頃、私もここに修理に出しておるんですよ」
だからですか、と大祐が唸った。なんのことはない、すでに一度修理をしているから“実績がある”というだけのことである。しかしその保証は、修理を頼む当てのなかった里緒にとって、計り知れない価値を持つものでもある。
「ありがとうございます……。その、いろいろ、教えていただいて」
押し頂いたクラリネットを胸に抱え、里緒は頭を下げた。
この胸に滞留する感情をどう表現すればいいのか、語彙力の足りない里緒には分からない。それでも今、少なくともひとつ言えることがあると思った。この人がいなければ瑠璃はバセットクラリネット『Die=Sonne』と出会わなかったし、それが里緒に引き継がれることもなかった。下手をすれば里緒はクラリネットそのものに触れる機会もなく、いじめに耐えきれずに命を落としていたかもしれない。
目の前の年老いた男の背中には、目には見えない有形無形の恩義が無数に重なりあっている。
「私こそ」
西成は首を横へ振って、憂いの残された顔で優しく微笑んだ。
「里緒さんと大祐さんがこうして元気に生きておられるのを確かめられただけでも、今日の私は十分に幸せ者だ。しかし今日はもう遅い。またいずれ、ゆっくり時間を取って、今度は互いの他愛のない話でもすることにしましょう」
言われて腕時計を見ると、すでに時刻は午後七時を過ぎようとしていた。二時間以上も居座って話をしていたことになる。
「……お言葉に甘えようか。支度しよう、里緒」
かすれた声で大祐が言った。
促されるまま、里緒はクラリネットを分解しにかかった。管の接続を切り離し、ケースの所定の位置へ収め、ふたを閉じて留め金をかける。その間に西成はカップの類いを片付けてくれた。緊張と衝撃のあまり紅茶をろくに味わえないまま立ち去ることになったのが、今となっては心残りだった。
来たときと同じように廊下を歩いて、玄関に向かった。外はすでに真っ暗で、門を出たところでは高松家の車が主人の帰りを待ち詫びていた。リモコンキーを手にした大祐が、車の前に立ってきびすを返す。例にならって里緒も、真似をした。
「すみませんでした。お忙しいところ、長々とお邪魔してしまって」
二人が律儀に頭を下げても、西成は決して悲しい顔をしようとはしなかった。ただ、ふたたび会うことだけを固く約束して、「喜んで」と大祐が答えるのを待ち、顔を綻ばせた。
「母さんのこと、守ってやれなくて……ごめんな……っ」
▶▶▶次回 『C.152 痛みを吐いて』