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クラリオンの息吹  作者: 蒼原悠
第五楽章 奏でよ、悠久のレクイエム
161/231

C.150 師匠の後悔【Ⅱ】

 




「私と瑠璃さんの関係からお話ししましょうか。これを見ていただくのが一番早い」


 言うが早いか、彼はアルバムのページを手元でめくり、その一角に目を留めて、里緒と大祐の前に差し出した。

 二人はアルバムを覗き込んだ。見覚えのある顔がいる──。左上に挟まれた一枚の写真を視認した瞬間、記憶の回路が反応してサイレンを鳴らした。

 そこには瑠璃の姿があった。場所はちょうど今、里緒たちが通されている西成家の応接間であろうか。クラリネットを手にした瑠璃はソファに腰かけ、その背後には西成と(おぼ)しい初老の男性が笑顔を浮かべながら立っている。

 うろたえ気味に大祐が尋ねた。


「これは……?」

「今から七年ほど前ですかな。我が家で撮った、瑠璃さんと私の写真です」


 身を乗り出した西成が、これはそこ、あれはこれだと、写真に写り込んだ調度品の類いをぴたりと言い当ててゆく。思わず里緒は大祐の顔を見上げた。──本物なのだ。


「瑠璃さんは私の“教え子”でした」


 ソファに戻った西成は話の続きに入った。


「十六年前の四月か五月だったかな。瑠璃さんとは街中の楽器店で知り合いました。瑠璃さんは自前の楽器が欲しかったんだそうで、うちに余っているのがあるから貸そうかと話したのがきっかけで、我が家にも時おり顔を出すようになりました。瑠璃さんの認識としては私が“師匠”、本人は“弟子”だったようです。別に私は瑠璃さんを弟子に取ったつもりはなかったんですがね……」


 かつて高校の吹奏楽部やインカレの吹奏楽サークルに所属していた頃、瑠璃は自前の楽器を持たず、備品のクラリネットを手に演奏に励んでいた。備品であれば当然、引退の折には返却しなければならない。だから、卒業とともに部やサークルを引退した瑠璃は、楽器を持っていなかった。一本数十万円を下らないクラリネットを自前で買うのは簡単ではなく、気が進まずに悩んでいたところ、たまたま声をかけたのが西成だったというのである。

 西成は楽器コレクターであるのと同時に、趣味の奏者でもある。(たしな)んでいるのはもっぱらダブルリード楽器のオーボエなのだそうだが、クラリネットについても吹奏できないわけではないらしい。そこで、瑠璃は自ら“教え子”を名乗り、演奏を習いに通うようになった。西成家には似たような経緯で“教え子”となったアマチュア奏者が何人もいて、彼らとセッションを組んで演奏するのが瑠璃の数少ない楽しみだったのだという。

 ……西成はそれらの事情を一気に語って聞かせた。アルバムに収められた何枚もの写真に顔を出し、あの優しい瞳で笑いかけている瑠璃の姿が、西成の説明を片っ端から明快に根拠付けた。

 そして、夫の大祐はそのあたりの経緯を本当に一切合切、聞かされていなかったようだった。


「……ちっとも知りませんでした」


 (うめ)くように相づちを打った大祐の声や頬、手から、色が抜け落ちてゆく。里緒はその姿をときどき横目で観察しては、締め付けられるような痛みの走った胸をそっと(いたわ)った。「瑠璃さんも悪気があったわけではないと思いますよ」と、なだめるように西成が苦笑いした。

 ショックを受けるのも当然のことだと思った。こんな些細なこととはいえ、大切な人に隠し事をされたのだから。その経験は里緒も持ち合わせている。自殺の理由しかり、ママ友いじめの件もしかり。


「おお。頼んでいた楽器、ちゃんと持ってきてくれたんだね」


 不意に西成の意識が里緒の方へ向いた。びっくりして「はいっ」と甲高く叫んだ里緒は、膝の上に寝かせたクラリネットのケースをおそるおそる持ち上げた。


「これ……ですよね」

「ええ、間違いない。このケースには見覚えがあります」


 西成の声色がいくらか明るくなった。


「もう五年も前のことになるのかな。仙台へ転勤になって引っ越すので、もう我が家には来られないと瑠璃さんに相談されました。瑠璃さんとしては借りていた楽器を返さねばならないと思ったんでしょうが、なに、我が家には楽器などいくらでも転がっておりますからね。貸していた楽器は餞別代わりに、そのまま瑠璃さんに譲り渡すことにしまして」

「む、無償でですか。そんな思いきった……」

「瑠璃さんの紡ぐ音色は透き通っていて、それはそれは美しい、まさに風の唄のような代物だった。夫のあなたはご存知でしょう。彼女のものになるのなら、その楽器も本望だろうと考えたんですよ」


 汚い話をきれいな話で返されたような形になり、大祐は恥ずかしげに黙り込んだ。

 微笑んだ西成の手が、そっと里緒に向かって伸ばされた。ケースを求めているのかと思って手渡すと、西成は「ありがとう」と小声で礼を言いながらケースの持ち手を握り、しわの目立つ手で留め金を開いた。

 金色のキイが覗いた。西成の手のなかで扱われていると、見慣れたクラリネットも高級な逸品に見えてくる。


「これが、そのとき瑠璃さんに贈った楽器です」


 管体のパーツをひとつひとつ抜き取り、組み立てながら、西成は腕の中の我が子に言い聞かせるようにつぶやいた。

 完成した楽器の長さは九十センチに渡る。普通のA管と比べても十五センチ近くも長く、下管にはめったに使われることのない低音用の拡張キイが輝いている。『変だよね』とか『珍しいね』とか、これまでも周囲にはいろんなことを言われてきた。


「あ、あの」


 尋ねるチャンスは今しかないと(ひらめ)いて、里緒は口を開いた。


「その楽器、今度オーバーホールに出そうと思ってるところなんですけど、その……メーカーとかブランドとかがよく分からなくて。友達とか先輩に聞いても誰も見抜けなかったんです。西成さんはご存知ありませんか」


 西成は一瞬、きょとんと目を丸くした。


「おかしいな。お母さんからは何も聞いてませんか」

「はい、その……。A管クラリネットだ、とだけ」


 それも、中学に上がってB♭管に出会い、二種類のクラリネットを抱えて混乱に陥った里緒が自発的に瑠璃へ尋ねて、それでようやく教えてくれたことだった。


「私もA管としか聞いていませんでしたが……」


 大祐の口添えが加わった。二人を代わる代わる伺った西成は、「そうか」と何かを悟ったように独り()ちて、長細い管の表面をそっと撫でた。


「瑠璃さんにもためらいがあったのかもしれん」

「ためらい……?」

「ええ。普通ではないものを持っているという自覚が、瑠璃さんにはあったはずですから」


 むやみに不安をあおる物言いである。たまらず、ソファの上でもぞもぞと姿勢を変えると、すぐ隣の大祐も落ち着かない様子で指を組み直した。


「里緒さんの言った通り、この楽器はA管です」


 西成は管体の表を里緒や大祐に向かって掲げた。


「しかしこれはそもそも()()()()クラリネットではないんです。アルトクラやバスクラでもない。“バセットクラリネット”という言葉を聞いたことは?」

「ないです……」


 里緒は目を白黒させた。まったく聞き覚えがなかった。

 西成の口端がひっそりと持ち上がった。


「──約二百年前、天才作曲家モーツァルトとの親交があったことで知られるクラリネット奏者、アントン・シュタードラーが所有していた、低音を奏でることのできる特殊なA管クラリネットです」


 息のできなくなるような感覚が里緒を襲った。

 いつか京士郎に説明してもらったモーツァルトの半生に関する逸話が、渦を巻くように集積して脳のなかを駆け巡り始めた。──そうだ、思い出した。どこか聞き覚えのある名前だと思ったら、あのとき聞いた〈クラリネット協奏曲〉の作曲経緯の話のなかに、シュタードラーが登場していたのだ。


「アントン……?」


 まったくわけのわかっていない声で大祐が呼応した。「ご説明しましょうか」と微笑した西成はクラリネットをテーブルの上に置いて、それからカップの中身をふたたび啜り上げた。その優雅な仕草も、無数の感慨を織り込んだ小じわも、里緒や大祐にはまるで備わっていないものだった。




 クラリネット奏者アントン・シュタードラーは、世に名だたる首席奏者でありながら、とりわけ低音を好む人物だったことで知られている。演奏においても主旋律(メロディ)を務める第一クラリネットではなく、一般に対旋律(オブリガート)を担うことの多い第二クラリネットを好んで引き受ける有り様だった。したがって、彼には普通の楽器のみならず、低音域を自在に奏でることのできる楽器が必要だった。そのためにシュタードラーは、低音楽器『バセットホルン』を開発したことで知られるウィーン宮廷付の楽器制作者、テオドール・ロッツと手を組み、特殊仕様のクラリネットを開発した。──それが、現在『バセットクラリネット』と呼ばれる楽器である。

 その最大の特徴は、通常のA管ソプラノクラリネットの音域と比べて長三度低い、記音()まで吹奏可能であったこと。約四オクターブもの広い音域を持ち、それこそ低音から高音にかけて幅広い譜面に対応することが可能な楽器であった。当時は『バスクラリネット』と呼ばれており、『バセットクラリネット』という名称は後年の研究者が付けたものだが、これは吹奏可能な低音の音域がバセットホルンと同じであることに由来している。

 その開発経緯からも明らかなように特注の楽器だったため、シュタードラーの死後、このバセットクラリネットを継ぐ者はいなかった。本人所有の楽器も現存していない。しかし、やがてクラリネットが管弦楽や吹奏楽の世界で覇権を獲得し、さまざまなメーカーが勃興してゆく中で、伝説と化したこの楽器を現代技術で再現しようという気概を持つメーカーが現れ始める。瑠璃に譲り渡されたこのバセットクラリネットは、ドイツの楽器メーカー『Denner(デンナー)』によって現代に(よみがえ)った、世界初の現代型バセットクラリネットなのだという。現代のクラリネットで一般的に採用されるベーム式キイシステムを導入し、通常のA管ソプラノクラリネットとして用いることも可能という先駆的なものだった。

 製作されたのは、モーツァルトの死後百九十年前に当たる一九八一年。バセットクラリネットの研究は近年に至るまであまり進んでおらず、一九八一年の時点では当時の楽器の形状すら明らかになっていなかったはずであり、その意味でも極めて野心的で画期的な開発だったことが窺える。発売後まもなくメーカーが倒産したため、流通本数の少なかった本形式は、楽器マニアや奏者の間で高値で取引される幻の楽器となっている──。




「“Die=Sonne(ディー・ゾネ)”というブランド名があったようです。ドイツ語で太陽を意味する言葉だと聞いています。低音重視のバセットクラリネットにつけるにはおかしな名前かもしれませんが、クラリネットは本来、明るく華やかな音域を魅力に持つ楽器。Denner社はそのあたりを意識したんでしょう」


 金色の光をまぶした管体に手をかざし、愛おしげな手つきで触れながら、西成は何でもないことのようにさらりと付け加えた。


「オークションでの取引価格は二〇〇〇万円を下りませんよ」

「にせんっ……!」


 里緒の声はたちまち引きつった。何年働いても弁償できないほどの価格だ。そんな途方もない価値の楽器なら、もっと気を遣って扱うべきだったのに。


(ケースごと落として散らかしたりとか……。ああ、罰当たりなことしちゃってたな)


 頭を抱えた里緒の隣で、大祐が(いぶか)しげに問うた。


「瑠璃と里緒はネックストラップを使っているはずなんですが……。さほど新しくもない楽器なのに、装着する場所はあったんですか」

「いや。見たところ、拡張部品を使ってサムレストの部分に装着できるようになっています。瑠璃さんが自力で工夫したんでしょう」


 なるほど、と大祐は(うな)った。クラリネットのネックストラップが普及したのは近年に入ってからだが、ストラップを装着するための部品を後付けで加えれば、旧型の楽器であってもネックストラップを用いることができるのだ。

 金色のキイ、見当たらないブランドマーク、低音用の拡張部品。あれほど得体の知れなかった瑠璃のクラリネットの特徴が、“バセットクラリネット”というキーワードの(もと)にすべて繋がった。


「……本当に、立派な楽器だったんだ」


 たまらなくなって口走ると、西成が首を振った。


「だったのではなくて現在形ですよ。里緒さんは昔、お母さんから楽器を習っていたそうじゃないか。今でも吹いていますか」

「い、一応ですけど……。この楽器()のこと、何も知らずに吹いてました」

「それはよかった。吹き続ける人のいる限り、楽器は現役だからね」


 楽器コレクターの西成の口から発せられると、その言葉は不思議な重みを帯びて響いた。彼を含め、コレクターの手元に眠る楽器の過半は、いつか日の目を見るのを待ちわびてケースの中で眠っている。

 弦国の音楽準備室にも同じ光景が広がっていたのが思い出された。


「……私、高校では管弦楽部に入っているんです」


 告白すると、すぐさま西成が「おお!」と嬉しそうな声を上げた。


「管弦楽部ならばA管にも生きる道がありそうだ。しかし珍しいですね、オケのある学校はそう多くないだろうに」


 A管とB♭管の使い分けについても知っているあたり、西成はやはり()()のようだ。この人が相手ならば隠し立てをしなくとも済むように思って、里緒は近況をすべて話すことにした。


「今は弦国……あ、いえ、弦巻学園国分寺高校に通っています。部活ではこの子と、備品のB♭(ベー)管ソプラノクラを吹いてて、こないだの甲子園予選にも出ていました」

「それじゃ、あの話題になった“仮面応援団”のなかにいたわけですか」


 西成はしっかりニュースにも目を通していたらしい。ちょっぴりまごつきながら、「そうです」と里緒は応じた。


「今まで部活の方ではB♭管ばかり使っていたんですけど、今度、この楽器()を持ってコンクールに出ることになりました。なので、その……西成さんの楽器はきちんと私なりに活用しているつもりです」

「──待て、聞いてないぞ。コンクールだって?」


 大祐が慌ただしく里緒を振り向いた。

 ちょうどいい折だ、大祐にも事の次第を説明しよう。思い立った里緒はカバンを開いて、コンクール用の譜面の入ったクリアファイルを引っ張り出した。


「モーツァルトの〈クラリネット協奏曲〉、きっと西成さんならご存知だと思うんですけど……。私たち、コンクールでそれを演奏することになってて」

「〈クラリネット協奏曲〉だって!?」


 目を見開いた西成が曲名を繰り返した。反応のよさにたじろぎつつ、このバセットクラリネットで独奏(ソロ)パートを奏でることになったと説明すると、立ち上がった西成は里緒の両肩をつかんで揺さぶり始めた。「ひっ」と里緒は息を詰まらせた。


「とんでもない巡り合わせだ! 本当に偶然ですか! いや、素晴らしい!」

「め、メンバーが足りなくて、それしか選べなかったんだって先輩からは言われたんですけどっ」

「曲のことはよく調べたかね。およそ二百年前、本物の〈クラリネット協奏曲〉でも、バセットクラリネットが独奏(ソロ)を吹いていたんですよ!」

「え…………」


 とっさに言われたことの意味が分からず、里緒は目をぱちくりさせた。

 それからやっと、京士郎に受けた曲の説明の内容を思い出した。

 そうだ。〈クラリネット協奏曲〉は、シュタードラーの友人だったモーツァルトが彼のために作り上げた曲だった。だとすればモーツァルトは作曲当時、シュタードラーの保有するバセットクラリネットによる演奏を想定していたのではないか。


「いま出回っている譜面の大半は普通のA管ソプラノ向けに書き換えられたものだが、それでも実際に演奏にバセットクラリネットを用いることの意義は大きいはずだ」


 やっと里緒を解放してくれた西成は、呆気に取られたままの里緒や大祐の視線を一身に受けながら、なおも収まらぬ興奮を声のビブラートに乗せて吐き出した。


「そうですか、里緒さんがコンクールの舞台で〈クラリネット協奏曲〉の独奏(ソロ)を……。しかもバセットクラリネットでか……」


 里緒と大祐は顔を見合わせた。感嘆に包まれる眼前の老翁とは対照的に、瞳に映った互いの顔には困惑の色が深々と染みていた。

 シュタードラー本人が墓場からよみがえって演奏するならまだしも、今回、独奏(ソロ)の場に立つのは里緒。しかも未だに周囲からのダメ出しを受けながらの演奏である。西成を打ち震えさせるほどのサウンドを響かせられる自信も、根拠も、里緒にはない。


「……里緒」


 不安げに大祐が尋ねた。


「大丈夫なんだろうな。協奏曲の独奏(ソロ)って、曲中ずっと舞台の真ん中に独りぼっちってことだろうけど……」

「……今のところは、大丈夫」


 里緒も不安げに答えを返した。きっと西成が見れば、つくづく似た者同士の親子に感じられることだろう。

 その彼はようやく興奮を鎮めて、自らのソファにゆっくりと腰を下ろしたところだった。


「いや、申し訳なかった。血が騒ぐのを押さえつけられなかったものでしたから」


 咳払いをして喉の具合を見ながら、彼は伏し目がちにクラリネットへ視線を落とした。机上で交わされる会話が自身を話題にしていることになど少しも気を払わないかのように、テーブルの上のクラリネットは穏やかな金の光を淡々と湛えている。

 彼は満足げに言葉をこぼした。


「里緒さんの写真は瑠璃さんに何度も拝見させてもらっていました。あの小さかった女の子が、いまや私の背丈ほどに成長して、しかもこうしてコンクールでクラリネットの独奏(ソロ)を引き受けるまでになるとは……。大祐さん、娘さんは立派に育ちましたね」

「そんな、滅相もない」


 泡を食ったように大祐は手を振ったが、きっぱり否定の言葉を口にしないあたりに大祐の思いやりがにじんでいた。すかさず西成は「本当のことですよ」と続け、大祐の謙遜を塗り潰した。


「仙台母子いじめ自殺事件、とか名付けられてましたかな。報道やネット言論のなかに瑠璃さんや里緒さんの名前をお見かけした時は、正直、必要以上に慌ててしまった。ともかく真偽のほどが知りたかったし、こうして連絡を取るのに成功するまでにずいぶん遠回りをしましてね……。でも、こうして二人とお会いして、あのとき手渡したクラリネットも無事に受け継がれているのを確かめて、いくぶん肩の荷が下りた気がします」


 背筋を伸ばした里緒をまっすぐに見つめ、西成は微笑んだ。


「さぞかし天国の瑠璃さんも喜んでいるだろう」


 瞬間、里緒の身体を重たい痛みが突き抜けた。形ばかりの笑顔をどうにか繕いながら、その仮面の下で里緒は一転、込み上げる感情に喉を詰まらせかけた。

 この老人は仙台で起きたことの真相を知らないのだ。瑠璃は里緒の生存を喜んではいない。むしろ里緒は被害者どころか、瑠璃の自殺の契機になったママ友いじめを間接的に誘発した存在ですらある。


「あの」


 大祐が細い声を発した。細かったが、決して千切れることのない声だった。


「いじめ事件と瑠璃の自殺の件は、まだ、私と里緒の方でも受け止めきれていない部分が大きいんです。あまり話せることも多くありませんし……」


 “できればあまり触れないでほしい”とでも続ける心積もりだったのだろうが、その試みは西成によって破られた。彼はやんわりと首を振り、それとなく大祐の発言を遮ったのだ。


「瑠璃さんは喜んでいるはずですよ」

「いえ、ですから──」

「失礼な物言いだというのは分かっておるんですが、許していただきたい。……新聞やテレビで報道されていること、お二人は事実だとお考えですか」








「瑠璃さんは真実、お二人のことを愛していたと思いますよ」


▶▶▶次回 『C.151 師匠の後悔【Ⅲ】』

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