表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
クラリオンの息吹  作者: 蒼原悠
第五楽章 奏でよ、悠久のレクイエム
160/231

C.149 師匠の後悔【Ⅰ】

 




 大祐に接触を図ってきた男──西成満は、不動産会社経営で財をなした実業家の男性だった。(よわい)七十を過ぎた今は経営の一切から身を引き、豊島区の屋敷に独りで暮らしながら、趣味の楽器を(たしな)む悠々自適の生活を送っているという。

 すでに妻を亡くしていて、現在は独身。事業で得た多額の財産は、目下のところ希少価値の高い楽器の購入や保全に役立てられている。金に物を言わせて楽器を買い集め、丁寧に管理しながら自分でも使用し、さらに来客や“弟子”と認めた教え子の奏者たちにも快く使わせていることから、界隈では成金の楽器コレクターとして名高い人物のようだった。

 開設されていた個人所有のSNSアカウントには、連絡先のメールアドレスが記載されていた。おそるおそる大祐がコンタクトを試みると、たちまち彼は勇んで返信を送り返してきた。──瑠璃のことを以前から知っていた、話したいことがある。家の場所を伝えるから、どうか時間の取れる時に来てもらいたい。その際には里緒と、瑠璃の持っていたクラリネットも忘れないでほしい──という。

 西成は大祐や里緒の知人ではなく、亡き瑠璃を知る人物だったのだ。

 ひとまず素性の分かる人物だとはっきりしただけでも、不安な二人の胸を撫で下ろすには十分だった。だが、果たして彼が二人に何を求め、何を語ろうというのか、今の段階では里緒にも大祐にもまるで見当がつかなかった。

 相談の末、訪問は八月六日の火曜日と決まった。大祐は午後休を取り、管弦楽部の活動を終えた里緒を車で拾い上げ、そのまま豊島区にある西成邸へ向かう運びになった。






「──それじゃ、今日の練習はここで終わりにします。お疲れ様でした」

「お疲れ様でした!」


 昼時を跨いだ午後四時、はじめの号令に合わせて部員たちが一斉にあいさつを交わした。

 夏休み中の管弦楽部の活動は、午後一時から四時までの三時間が基本であった。もっとも、里緒たちコンクールメンバーは朝の九時に自主的に集まって練習機会を確保していたので、事実上の練習時間は休憩を挟んで七時間にわたる。他にすることのない身とはいえ、体力の乏しい里緒にとって七時間の練習は身体に(こた)える。思いきり伸びをして、突き上げた腕の先から痺れや疲労を放電していると、大きめの嘆息を漏らしながら隣に美琴が立ち上がった。

 腱鞘炎の治療で演奏が禁じられているにも関わらず、美琴は律儀に毎日、管弦楽部に足を運んでいた。右手首に巻き付いた肌色のテープが痛々しくて、彼女の隣にいると里緒も落ち着かない。


「ねー美琴、もう夏休みの宿題終わった?」

「英語表現の長文ちっとも読めなくてヤバいから教えてほしいんだけどー」


 駆け寄ってきた直央や恵が甘ったるい猫撫で声を発した。美琴は彼女たちを一瞥して、拒んだ。


「やってないし、見せないから」

「えー、ちょっとくらい見せてくれてもいいじゃん! ケチ!」

「そのくらい自分でやりなよ。……こんな手じゃ、何もできないんだから」


 吐き捨てた美琴の目が、ミイラのようにされた右手に落ちる。その言葉は、やり場のない苛立ちを同期仲間にぶつけているようにも、はたまた自らを(ののし)っているようにも聞こえた。

「ごめん」と直央が小さな声で詫びを入れる。それをすげなく聞き流した美琴はきびすを返し、さっさと音楽室の扉に手をかけた。

 今日は里緒も音楽室で油を売るわけにはいかない。立ち上がった里緒は、誰の見送りも待たずに去っていった美琴の背中を慌てて追いかけた。


「あ、あのっ」


 隣に並んで尋ねると、美琴は里緒の姿を見ないまま(うな)るように応じた。


「……うん」


 これでも十分に無愛想な態度だが、きっと以前の美琴ならば突き放すように『何?』と毒づいていただろう。美琴の人当たりは合宿の一件以来、少なくとも里緒の前では明らかに丸くなりつつある。揺れる彼女の右手首が脱力しきっているのを目に留め、里緒は二度目の「あの」を口にした。


「その、手首……まだ治りそうにないんですか」

「長くて二週間だって」


 美琴は即答した。まるで、誰かに咎められるのを予期して答えを用意していたかのようだった。


「リハビリ期間も込みの数字らしいけど、元通りにピアノ弾けるようになるまでには一ヶ月くらいかかりそうって言われてる。……ごめん、高松。サポートするって約束したのに」

「そんなっ、私は別に……」


 思わず口をついた返答が、そのままでは美琴を傷つけかねない表現であることに気づいて、里緒は途中で口を(つぐ)んだ。「そう」とつぶやいた美琴が、足を早めた。里緒も負けじと食らいついて歩いた。

 会話の途絶えたまま校門を出て、あたりを見回した。校門前の広いスペースを隔てた向こう、路線バスの停留所の脇に、見覚えのある高松家の自家用車が停まっているのが(うかが)えた。


「……あれだ」


 確認の独り言を発したら、美琴が反応した。


「あれ?」

「えと、今日はお父さんが迎えに来てくれてるんです。このあと用事があって……」

「忙しいんだね」


 カバンを肩に担いだ美琴は嘆息した。

 美琴は確かに()()()()()はずである。意外と自嘲癖のある先輩だと、楽器を持たない先輩の横顔を前にして里緒は思った。湧き出した親近感は美琴の迷惑になる前に靴底で踏み消した。

 用事といっても、今回は話を聞きに行くだけ。

 だが、その『話』は恐らく、聞き手の里緒や大祐に対して過去を受け止める相応の覚悟を求めてくるはずだ。なぜなら西成は、死んでいった瑠璃の関係者を名乗っているのである。

 国分寺駅に向かう美琴と別れて、車に走り寄った。中から大祐がドアを解錠してくれたので、助手席のドアを開いて乗り込んだ。大祐は運転席から一部始終を眺めていたらしい。開口一番「さっきのは同期の子か」と尋ねられた。


「ううん、先輩。クラパートの」

「楽器は持ち歩いてないんだな」

「あの先輩、いま手を怪我しちゃってて、ドクターストップかかってるから」

「そうか。……大変だな」


 言葉少なに感想を漏らした大祐は、里緒がシートベルトを締めたのを確認して、行くぞ、とアクセルを踏み込んだ。瞬く間に加速した車は、前方の交差点めがけて一気に坂を走り下る。飛ぶように流れ去る窓の景色に、一瞬、力なく(たたず)む美琴の姿が残像を刻み、その顔色をきちんと視認する前に消えた。




 東京都豊島区は、二十三区の北西エリアの一角を占める、人口三十万人前後の特別区である。その中心都市は、東京に君臨する三大副都心のひとつとして知られる池袋。仙台に引っ越す前の高松家は、その池袋から西武鉄道で一駅の地区にある、築年数三十年ほどの中古マンションに住んでいた。

 そして、どうやら西成家の邸宅は、その旧高松家から徒歩数分の近距離に位置しているのだという。

 東京八王子道路から環状八号線、千川通り、目白通り、山手通りを経由して、目的地までの所要時間はだいたい一時間前後である。行き交う車やバスで混雑する三十キロほどの道のりを、大祐と里緒は黙々と車に乗って移動した。大祐は目の前に連なる車列や信号の色にばかり目を配っていたし、里緒は膝の上に置いたクラリネットのケースを意味もなく撫でながら、車窓の彼方へぼんやりと視線を放っていた。小金井を過ぎ、三鷹を過ぎ、杉並を過ぎ、練馬の街へ入って、広い道路脇に立ち並ぶビルの高さはいよいよ見上げるように高くなり始めた。


(そういえば私、こんな街に住んでたんだったな)


 軒を揃えて並ぶマンションやオフィスの窓を数えながら、懐かしいやら、切ないやらで、里緒は座席に深々と沈み込んだ。

 この街に住んでいた頃、里緒はまだいじめの恐怖や痛みを知らない無垢な少女だった。瑠璃だって生きていた。自殺を企図するそぶりなど見せることもなく、帰宅した里緒を温かく迎え入れて、疑う必要のない優しさのなかへ包み込んでくれたものだ。

 そして今、その瑠璃が死の今際(いまわ)に娘を呪っていたことを、里緒は知っている。

 小学校の頃のクラスメートたちはどうしているだろう。学校の先生は、近所の人は、有名人と化した里緒のことを今も覚えているのだろうか。


(……忘れててくれたら嬉しいのにな)


 ひんやりと心地よいケースの質感を肌に押し付けて、そう思った。忘れてほしいと思った理由はよく分からない。

 車は渋滞に飲まれながらも順調に走り続けた。池袋駅前に林立する超高層ビル群の幻影が、時おり現れる背の低い建物や駐車場の向こうに見え隠れする。落ち着きどころの見つからない里緒の心象風景に、その様子は不思議とシンクロしていた。




 ナビゲーションに導かれて車を停めると、そこには道路ぎりぎりに土塀がそびえていた。その中ほどはロータリーのように内側へ向かって(へこ)み、立派な木の門が設置されている。


「……ここだろうな」


 表札を睨んだ大祐が自問自答した。あまりの大きさに里緒が言葉を失っていると、そのまま助手席で待っているように告げ、大祐は車を下りてインターホンを押しに向かった。

 周囲には低層のアパートやマンション、それに狭い一戸建てが雑然とひしめいている。お世辞にも高級住宅街の風情のある街ではない。これほどの異彩を放つ豪邸が近隣にあったことを里緒は知らなかった。もっと道草を食ったり、友達の家に呼ばれて行くような日常を送っていたら、この家の存在にも気づいたのだろうか。学校と家を盲目的に往復するばかりだった小学校の頃が(しの)ばれて、いたく寂しい思いに包まれた。

 まもなく引き返してきた大祐の手で、車はロータリー状の空間に後進(バック)で入り、駐車された。カバンやクラリネットのケースを一通り手に取って車を降りた里緒は、門の外に出てきた背の低い老人を目の当たりにして、あれが、と息を飲んだ。

 彼が西成満。瑠璃の過去を知る楽器コレクター、その人である。


「初めまして、西成さん」


 隣に立った大祐が頭を下げた。既視感を覚えながら里緒も真似をすると、老人は頬周りに刻まれた無数のしわを歪めて、穏やかに笑った。柔和な声が里緒の平たい胸にぶつかって跳ねた。


「長旅だったでしょう。すみませんな、遠くから()させてしまって」

「いえ……。車でしたから」

「そんなところにいらしていないで、どうぞ、中へ。何もありませんが」


 言うが早いか、西成の姿は門のなかに吸い込まれた。息の詰まるような気分で大祐を見上げると、大祐も里緒と同じ顔をしていた。

 西成のあとを追って門をくぐれば、平屋の木造邸宅が眼前に立ちはだかった。玄関で靴を脱ぎ、長い廊下を歩き、応接間のような部屋に通された。床の間には水墨画の掛け軸がかかり、腰かけたソファには複雑な紋様の刺繍が施され、天井の照明器具は小振りなシャンデリアのように豪華絢爛だった。西成は一体どの口で“()()ありませんが”などと言い放ったのだろう。(はなは)だしい謙遜に寒気がする。

 高松家の内装がこんなに飾り立てられていたことはなかった。掃除が大変だろうな、借りるとしたら家賃はいくらなんだろうな──。居心地の悪いあまり、下世話な事情にばかり思慮を巡らせながら、ともかく大祐と二人でソファに腰を下ろして、西成が飲み物を用意してくれるのを待った。


「本物の金持ちだな……。あいさつ代わりの菓子折りくらい持ってくればよかった」


 ぽつり、大祐がつぶやいた。

 せめて大祐に恥をかかせることのないよう、失礼な態度は見せないように心がけねばならない。「うん」と応じながら背筋を伸ばしてみたら、凝り固まった肩や背骨に薄い痛みが走った。


「そんなに気張らんでください。瑠璃さんはもっとラフにしていましたよ」


 苦笑しながら入ってきた西成が、どうぞ、と言葉を添えながらティーカップを二人の前に置いた。

 里緒と大祐は顔を見合わせて、それが毒薬の類いには見えないのを互いに確かめた。『瑠璃さん』などと彼は気安く言ってのけたが、この老人と瑠璃がいかなる関係にあったのかも含め、二人は西成のことを何も知らないのである。


「さて……。申し遅れましたね」


 向かいのソファに腰かけた西成が微笑んだ。膝の上で組まれた手の形にも、丸みを帯びた肩の輪郭にも、ひよっこの里緒では決して醸し出すことのできない優雅な大人の貫禄が見てとれた。


「西成満と申します。つい五年ほど前まで、株式会社東上ビルの代表取締役社長を務めておりました。ごらんの通り、今はこうして独りで隠居の身です」

「高松大祐と申します」

「たっ、高松里緒です……」


 大祐と里緒は深々と頭を垂れた。大祐の声は(はた)から聴いても分かるほどに震えを帯びていたし、里緒に至っては頭を下げた拍子に喉を詰まらせ、派手に噛んだ。


「堅苦しくしないでいいんですよ。私が自分の都合で一方的にお呼び立てしたに過ぎないんだから」


 とりなすように柔らかい声を上げてから、西成は目を細めた。

 瞳の奥に投影したイメージと、眼前に現れた実物を重ね合わせて観察しているかのような仕草だった。とっさに里緒は確信を抱いた。──初対面のふりをしているが、この男性は里緒の顔や素性を知っている。それもおそらく、かなり前から。


「あなた方の状況は報道やネットを見聞きして知っていました。特定されたという()()()のなかに瑠璃さんの名前があったものですから、もしやと思って。……里緒さん、と呼んだらいいかね。仙台(あちら)ではずいぶん大変な目に遭ってきたそうですね」

「えっと、その……。はい」

「うちの瑠璃をご存知だったんですね」


 肩を縮こまらせる里緒の隣から、遮るように大祐が疑問を発した。大祐の配慮に里緒は無言で感謝した。

 ええ、と西成は寸分の迷いもなく応じて、カップの中身を啜り上げた。


「そのことも含めて、お話ししたいことが山のようにあります」


 流体を飲み込んだ彼の喉が器用に跳ね上がり、縦向きの筋を刻んだ無数のしわが脈打つのを、里緒も、大祐も、まったく同じそぶりで見つめた。気づかないうちに息も飲んでいた。ごくん、と頭蓋骨に反響した間抜けな嚥下(えんげ)の音に合わせて、西成は脇に置かれた一冊のアルバムを取り上げた。








「さぞかし天国の瑠璃さんも喜んでいることだろう」


▶▶▶次回 『C.150 師匠の後悔【Ⅱ】』

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ