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クラリオンの息吹  作者: 蒼原悠
第一楽章 春への憧れ、明日への焦がれ
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C.015 部活帰りの嘆息

 




 ──『すっごい上手いね! さすが経験者って感じ!』

 ──『ぜひうちの部活に入って! 高松さんくらい演奏技術があるならすぐにでも、なんなら明日にでも第一線に立って活躍できる! もっと練習すれば、もっともっとよくなるよ!』

 ──『私たち、全力を挙げて高松さんのこと歓迎するからね!』


 ……投げ掛けられた甘ったるい言葉たちが、飽きもせずに頭蓋骨の内側を調子よく跳ね回っている。

 (ほお)を叩いて彼らを黙らせた里緒は、視線を向ける先を求めて頭上のLED発車標を見上げた。次の電車は十七時三十五分発、各駅停車八王子行き。


「まもなく電車が参ります、か……」


 明滅する赤色の文字を読み上げたら、はたと嘆息が漏れた。

 慣れない電車通学も今日で三日目が過ぎようとしている。この“参る”というのは“来る”の意か、それとも人が乗りすぎて電車の側が参ってしまいそうという意か。無論、前者に決まっているのだけれど、ホームに滑り込んでくる鮨詰めの満員電車を前にしてそんなことに思いを馳せてしまうのは、まだ里緒がこの巨大都市(とうきょう)の一員になりきることができていないからなのかもしれない。

 見上げた時計は午後五時半過ぎを指していた。弦国では四月中、新一年生は必ず午後五時までに下校することと定められていて、そのルールに従って管弦楽部を送り出されてきたところだった。

 都心と多摩地区を一直線に結ぶ天下の大動脈・中央線は、乗り込むことさえもが軽い苦行の様相を(てい)する。背中からぐいぐいと車内に押し込まれて、痛い。とにかく痛い。東京の社会人は強引だと思う。クラリネットのケースが万が一にも圧壊してしまっては大変だから、硬い角が食い込むのを覚悟して、必死に腹に抱え込んだ。そうしたら、クラリネットの持つ重さが(じか)に腹へ伝わって、身体がじんわりと熱を帯びたように痛みを放った。

 次は西国分寺だとアナウンスが告げている。それがどこだか里緒には分からない。

 路線図に載る駅名も、学校や部活のことも、里緒を取り巻くクラスメートたちのことも、今はまだ知らないことばかりだ。いつか、それらすべてが既知の存在に成り上がった時、里緒も少しは幸せな日々を送れるようになっているのだろうか。


(先輩たちも青柳さんも、それからクラスのみんなも、クラリネットを吹いた途端にすっごく興味、持ってくれたな)


 ドアの上に貼り出された路線図を見上げながら、少し強めに唇を結んだ。

 ごく普通に、当たり前に吹いているだけで、誰かに関心を抱いてもらえる。それはきっと恵まれていて、幸せな環境なのだと思う。中学ではクラリネットの腕前で褒められたことなど一度もなかった。それが当然なのだと思って、今日まで生きてきた。

 あの賛辞はどこまで信じていいものだろう。褒められたら喜ぶのが礼儀というものだろうが、素直に礼賛を受け取ってもいいのかよくないのか里緒には分からなかった。人混みの圧を横向きに受け流すケースがひどく重たく感じて、抱える手に力を込めながら、戸惑いの治まらない心にもそっと手を伸ばした。

 こういうとき花音が横にいたなら、迷わず里緒の手を(つか)んで『喜んじゃいなよ!』とでも言うのだろう。あの天真爛漫な同級生くらい前向きに、変な脇道に思考を()らすことなく生きられたなら、多少は里緒も生きやすい半生を送ってこられたのに違いない。

 このまま(おだ)てに乗じて管弦楽部に入部するべきか。それとも、不自然なくらいの褒め言葉の嵐を警戒して、管弦楽部には入らないでおくべきか。

 新学期二日目にして突き付けられた究極の選択を前に、里緒はため息を隠さずにはいられなかった。──そんなの、選べるはずがない。

 昨日の花音と紅良の前でさえ、選べなかったのに。

 煩悶しているうちに立川に着いたらしい。どっとあふれるように電車を降りる人々の波に乗って、里緒も駅のホームに吐き出された。ぐったりとした身体では流れに逆らうこともできなくて、そのままずるずると引きずられるように階段の方へ向かった。

 まともに(ひと)の流れに逆らうこともできない。こんな里緒では、やっぱり“めだかの学校”への仲間入りは厳しいか。

 底に沈みかけた肩を、不意にとんとんと誰かの手が叩いた。


「なに……?」


 何気ない気持ちで振り返ると、真後ろに立つ少女がちょうど手を引っ込めていたところだった。見覚えのある弦国の制服を着た彼女は──西元紅良であった。


「うわわっ!」

「高松さんよね? 人違いだったらごめんなさい」


 肩を跳ね上げた里緒に、紅良は平坦な声で尋ねる。里緒は縮こまりながら(こた)えた。


「あ、合ってます……」

「よかった」


 紅良は機械的につぶやいた。言葉の割に顔付きには感情が乗っていなかったが、これで紅良にとっては自然体のようだ。つくづく、花音とは正反対の在り方を示してくれる少女だと思った。


「大丈夫? 人波に連れ去られそうになってるけど」

「……私、あんまりこういう混雑、馴れてなくて」

「仙台出身って言ってたものね」


 首をすくめる里緒を前に、紅良はうなずいた。声の調子がいささか柔らかくなった気がした。

 仙台は人口一〇〇万人を数える東北地方随一の大都市である。だが、里緒が住んでいたのは西部の山間(やまあい)にある人口規模の小さな地区で、都心の猥雑さとは無縁の世界だったのだ。

 自己紹介、覚えててくれてたんだ──。ぽっと心が温まったのを覚えた里緒は、そのとき、自分の側にも尋ねたいことがあったのを思い出した。


「その……西元さんって、家は国分寺じゃないの? 自己紹介の時、出身は国分寺って言ってたような……」

「ああ、それね」


 紅良はうつむいて、鬱陶しそうに髪を掻き上げた。ふわり、雑踏の合間に舞った長い艶のある黒髪を、行き交う客たちが反射的に避けていく。やはり里緒とは存在感の大きさが違う。


「あなたと同じ。高校に進学するタイミングで引っ越したの。だから今の住所は、立川(ここ)。南口を出て少しのところ」

「そ、そうなんだ……」


 里緒は(かす)れた声で応じた。それ以外の返しようが思い付かなかった。

 花音の前でも似たようなものだが、誰かと会話をするのは苦手だ。こういう時、沈黙の時間を短くするすべを、里緒は何一つとして持たないから。

 紅良が里緒の前に立った。臆することなく人混みを掻き分け、目的地の改札に向かって黙々と歩く紅良に、里緒も懸命について歩いた。まるでイージス護衛艦の後ろに随伴するゴムボートの気分だった。私もこれくらい堂々と振る舞えたらいいのに──。大きく見える背中に吹き掛けた細い息は、あっという間に帰宅ラッシュの人波の間に紛れて消えてしまった。







「もしも、私がクラリネットを持ってなかったなら、西元さんがこうして私に話しかけることもなかったのかな、って」


▶▶▶次回 『C.016 彼女は笑って』

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