C.148 打診
熱中症で倒れた里緒の楽器は、楽器管理係の三年生・本庄詩が保管していた。
八月二日。一日遅れでクラリネットを持ってきた詩は、休憩中の里緒を「おいで」と呼んで、楽器の状態を見せてくれた。
「うわ……」
ケースを開いた瞬間、里緒は無自覚の呻き声を漏らした。一目でそれと分かるほどにキイがひしゃげ、ところどころに痛々しい擦過傷が刻まれている。ネックストラップを装着していたおかげで管体の落下は防げたものの、結局その後に里緒本人が地べたに倒れ込んだので、クラリネットはコンクリートの床に激しく叩きつけられてしまったのだ。
「トリルキイが四つとも歪んじゃってるのと、一番下の音孔の金具が若干ずれてるかな。あとはE/Bレバーの向きも変になってるかも。私が見抜けたのはそのくらい」
説明しながら詩は上管や下管を取り出して、はい、と里緒に手渡した。金管奏者の詩はクラリネットに詳しくないので、奏者の里緒が損傷個所を確認するのが早道だ、ということらしい。
しかし、さすがは楽器管理係。ベルや俵管も含めて調べてみたが、詩の指摘した箇所の他に、とりたてて里緒の目に留まった損傷はなかった。
「すみません、本当……。備品の楽器をこんなにしちゃって」
悄気て謝ると、「いいよいいよ」と詩は気楽な面持ちで笑った。
「どのみち使い古しの楽器だもの、気にしないで。だいたい屋外の球場なんかに持ち込んだ時点で、多少の損傷くらい折り込み済なんだから」
同じ三年のはじめや香織も人格者だが、彼女たちとは違う意味で詩は優しい先輩だ。どちらかといえば、あっけらかんとしていて大らかな性格の持ち主だと里緒は思う。そんな彼女は緋菜や自称“土下座芸人”の智秋を支配する低音セクションのリーダーであり、金管ならば何でも吹けると豪語する金管楽器の専門家でもある。
「それはそうなんですけど……」
無自覚に失われた自信が声に滲む。彼女は里緒の頭にぽんと手をやって、首元へ視線を落とした。
「むしろ、ストラップつけてくれてたおかげで被害が軽減できて助かったくらい。青柳さんも茨木さんもつけてないじゃん? それ使ってなかったら、たぶんもっと楽器を傷めてたと思うから」
持っていたA管からネックストラップを取り外して、里緒は紺色の紐をしげしげと眺めた。私物なので普段はA管とともに持ち歩いているが、B♭管を吹く時にも忘れずに装着するようにしている。「もっとみんなに使ってほしいんだけどなー」と、詩のささやかな嘆息が耳元を漂った。
楽器の重さを首に分散することで指の負担を和らげることができ、なおかつ演奏中の姿勢の改善にも役立つことから、首かけストラップはサックスのような重量のある楽器を中心に広く普及している。だが、クラリネットに関してはそれほど楽器が重くないために普及が進んでおらず、日本ではいまだ一部の奏者が着用しているにとどまるのが現状だった。里緒がネックストラップを使い始めたのも、あの長くて大きな瑠璃譲りのA管クラリネットが、当時小学五年生の里緒にはあまりに重すぎたからである。
「ま、大丈夫。この子はそのうち修繕に回すことにするよ。修繕費は部費で賄えるから安心してね」
里緒の気にしそうな部分を先回りして述べた詩は、ふと、里緒の手に収められたA管を見つめた。
「ね、それ持ってコンクールの舞台に立つんだよね。修繕とか大丈夫なの?」
言われてみれば一度も出したことがない。見てみよっか、と詩が促してくれたので、近くの机にクラリネットを寝かせてみた。詩が注意深い動きでキイに触れ、複雑に絡まった金属の骨格を順に動かしてゆく。
彼女の表情も複雑になった。
「うーん。若干、動きがよくなさそう」
「そ、そうでしたか……?」
「普段から使ってると気づきにくいかもね。ほら、ここのキイとか。連動部分が劣化してきてるんじゃないかな」
うろたえる里緒を前にして、詩は次々に所見を指摘していった。
動きの悪くないキイに関しても、メッキの汚れが随所に見当たる。管体の各部を連結するジョイントコルクは、経年劣化でかなり傷んでいる。音孔を塞ぐためにキイの先端に付けられた円盤状の部品を『タンポ』と呼ぶが、このタンポも劣化で変色しているものがずいぶん見受けられる。このまま放置しておくと破け、使い物にならなくなる。
「その、クリーナーで音孔の汚れ取ったりとか、キイオイル注したりとか、日常的なメンテナンスはあんまり怠ってなかったつもりなんですけど……」
あまりに指摘が多いので言い訳に走りかけたが、いや、と詩は一言で里緒の言い訳を切り捨てた。
「日常的なメンテでどうこうできる問題じゃない気がするな。一回ちゃんと修繕に出した方がいいよ」
「オーバーホールってことですか」
「そだね。オーバーホール」
詩はうなずいた。分解整備、つまり管体や部品をばらばらにして一から調整を行うような大規模修繕のことである。
とたんに里緒は尻込みしてしまった。オーバーホールには多額の修繕費が必要になるのだ。おまけに、問題になるのはそればかりではない。
「……私、この楽器のメーカーもブランドも知らないし、保証書も持ってなくて」
「あ、そういえばそうなんだったっけ」
たちまち詩の表情も曇った。保証書がなければ修繕費用は高くつくし、そもそもメーカーが分からないので下手に部品を交換できない。
さらに言えば、備品のA管と見比べてみても里緒のそれは異様に長く、キイも多い。普通のA管とは明らかに違うのだが、具体的に何が違うのかは部内の誰にも見当がついていないのだ。このまま楽器修理業者に持ち込んだとして、果たして業者が請け負ってくれるのかも定かではない。
「かといって、この状態のままコンクールの舞台に立たすわけにもいかないしな……」
腕を組んでしばらく考え込んだ詩だったが、とうとう明快な解を導くには至らなかったらしい。クラリネットを取り上げ、里緒に手渡した。
「クラのオーバーホールは長くても三週間くらいだからさ。今月中のうちに出せば間に合うよ。早いとこ修理を頼めそうな業者さんを探して、そこに持ち込もう」
「……はい」
受け取ったクラリネットを抱きしめ、里緒はうなだれた。
メーカーもブランドも知らないままでいたことが、こんな形で裏目に出るとは思わなかった。もとは瑠璃のものだったわけだし、大祐に聞いたら知っているかもしれない。帰ったら尋ねようと思い立ち、いそいそと心のメモ帳に予定を書き込んだ。
その夜、大祐はいくらか遅い時間に立川へ帰ってきた。午後九時半、食卓の用意を済ませて楽譜とにらめっこをしていた里緒は、鳴り響いたインターホンに気付いて玄関に向かった。
「おかえり」
「ただいま」
脱いだスーツの上着を小脇に抱えた大祐は、ああ、と感嘆句を漏らした。
「カレーか」
「うん。いつもの」
肉や野菜を適当に切ってルーとともに煮込めば簡単に作れるので、カレーライスは里緒のお気に入りの料理のひとつだった。香ばしい匂いが玄関まで漂ってきているのに安堵を覚えつつ、いつクラリネットの話を切り出そうかと気を揉んでいると。
「里緒」
先に大祐が口を開いた。
「西成満って知ってるか」
「人の名前?」
「ああ。人の名前だ」
「ううん、知らない……」
里緒は首を振った。政治家や芸能人の類いでもなさそうだし、知り合いに西成などという苗字の人間がいたこともなかった。
革靴を玄関土間に整頓して並べ、里緒について廊下を歩きながら、「実はな」と大祐は頭を掻いた。ファゴットやコントラバスのように低い声だった。
「その西成っていう人間から、父さんの職場に問い合わせがあったらしい。高松里緒の父親が勤めているはずだから連絡先を教えてくれないか、といって聞いてきたみたいなんだ。もちろん会社は教えないでくれたんだが……」
唐突に出てきた自分の名前に、思わず歩みが止まる。嫌な予感に包まれて大祐を見上げると、大祐も似通ったような表情で顔を覆っていた。
「真っ先に里緒の名前を出してくるあたり、どうも怪しいような気がしてな。それで調べてみたんだ。検索サイトに名前を入れたら一発で見つかった」
「ど、どんな人だったの」
「楽器コレクターだった」
楽器コレクター、と里緒は繰り返した。趣味で楽器を収集している人物なのだろうか。
「豊島区の椎名町に住んでるらしい。覚えてるだろ、里緒。むかしうちも豊島区に住んでたんだ。……別に面識があるわけじゃないが、何となく、ただの偶然のようには思えない」
大祐は落ち着き払った風を装っていたが、居間に響く彼の声は少しばかり上ずって聴こえた。カバンを下ろして食卓に腰かける大祐の姿を、里緒は強ばった目で追いかけた。大祐は嘆息混じりに続けた。
「ひとまず連絡を取るだけ取ってみようと思う。里緒も一応、そのことは心に留めておいてくれ」
「……わかった」
怖々と里緒はうなずいた。
得体の知れない相手ではあるが、今回は大祐が間に一枚を噛んでくれる。新聞報道やインターネットの本人特定騒ぎの時と比べれば、受け止める胸のざわめきもいくらか大人しかったように思う。
「そのことも含めて、お話ししたいことが山のようにあります」
▶▶▶次回 『C.149 師匠の後悔【Ⅰ】』