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クラリオンの息吹  作者: 蒼原悠
第五楽章 奏でよ、悠久のレクイエム
158/231

C.147 コンクール組、再始動

 




 五日間の“お盆休み”が過ぎた。八月一日、弦国管弦楽部は音楽室に集合し、正式に活動を再開した。

 野球部の応援演奏が終了した今、九月半ばに待ち受ける『全国学校合奏コンクール』までの間に立ち塞がるイベントは何もない。ふたたび独奏者(ソリスト)に里緒を(いただ)いたコンクール組は、いよいよ本番に向けて猛進する態勢に入り始めた。


「締め切りも遠くないので、そろそろ申し込み手続きに着手したいと思います。あたしたちが出場を狙うのは高校の部、具体的な日付は九月の二十三日です!」


 冒頭で菊乃が報告を済ませ、コンクール組の部員たちの顔にはたちどころに緊張感が(みなぎ)った。こうして詳細な日付を伝えられたことで、残された時間がわずか一ヶ月半に過ぎないことが明白になる。


(九月二十三日……か)


 いつものごとくクラリネットのケースをいじくって手持ち無沙汰を解消しながら、里緒は頭に浮かんだ三つの数字の意味を噛みしめた。不思議と、焦りはなかった。一ヶ月半という期間を長く見るか、短く見るか、それは人次第。それだけの時間があれば多くのことができるはずだと、一人で高校受験を乗り越えた自身の経験に照らして考えた。

 それよりも、恐らく部員の誰も知らないであろう事実への思いが、里緒の頭に(もや)をかけていた。


(……コンクールの日って、私の誕生日なんだよね)


 九月二十三日は里緒の生まれた日なのだ。ちょうど十六年前のその日、豊島区の病院で出生した。細かいことは知らないが、いつか瑠璃が『大変な出産だったんだよ』と述懐していたのを覚えている。

 当日は忙しくなるだろうし、きっと誰にも祝ってはもらえまい。せめて、新生十六歳の女子高生として恥じることのない演奏をしよう──。決意のほどを新たにして、話の続きに耳を傾けた。

 たとえ上手に吹き奏でられる自信がなくとも、誰よりも真摯に曲と向き合う覚悟や意志に限っては、いまの里緒は人一倍以上に持ち合わせている自負があった。




 巷では全日本吹奏楽コンクールが真っ盛りの時期である。芸文附属の第二顧問でもある矢巾は、自分の指導下にある生徒たちにかかりきりになっているはず。多忙な彼女を呼びつけるわけにはいかず、演奏の指導には京士郎が当たることになった。

 矢巾と京士郎を指導力で比べたら、どう考えても矢巾に軍配が上がる。しかし京士郎には、合宿や応援演奏で養った部員からの信頼の蓄積がある。京士郎の参画に異論を唱える者は誰一人いなかったし、授業や担任として慣れ親しんでいる京士郎が面倒を見てくれることは、なにかと人見知りな里緒にとってもありがたい話だった。

 その京士郎は、まず「現状の出来が知りたい」と言って、負傷中の美琴からピアノ譜を借り、それを自らの手で弾きながらコンクール組の合奏に耳を傾けた。芸文大ピアノ専攻出身の経歴は伊達ではなく、わずかばかりの消化時間で彼は完璧にピアノパートの音色を再現してみせ、さすがの実力に菊乃たちは揃って舌を巻いていた。

 果たして、京士郎の示した現状の課題は、それまでに指摘されていた内容と大きく食い違ってはいなかった。


「弦楽器が弱いな、特にヴァイオリンだ。欲を言えばフルートの響きも増やしたい。パートの人数を純増できるのが最良なんだけども……」


 〈クラリネット協奏曲〉のヴァイオリンは、全合奏で主旋律(メロディ)を担う第一ヴァイオリンパートと、対旋律(オブリガート)に徹する第二ヴァイオリンパートに分かれている。奏者わずか二名の現状では、それぞれのパートを一人の奏者が担当する他ない。ヴァイオリンパートの人員不足は練習開始の当初から言われていたことでもあった。そもそも美琴のピアノパートが導入されたこと自体、弦楽のサウンドを底上げする目的があったからでもある。

 頭を悩ませていた菊乃に、直央が提案を下した。


「ダメもとで洸せんぱいに頼んでみようよ。うちらの活動は三年生の人たちにも承認してもらったんだし、もしかしたら理解を示してもらえるかもだよ」

「やってみる価値はありそうだね」


 目を輝かせて立ち上がった菊乃は、直央とともに交渉を打ちに洸のもとへ向かった。

 はらはらと事の運びを見守った里緒たちだったが、二人は本当に洸の参加の確約を取り付けてしまった。洸は終始、困りげに眉を傾けながら、それでも普段通りの爽やかな顔でうなずいてくれたのだ。


「コンクール組の熱意が本物だっていうのは分かってるつもりだよ。僕でいいなら協力させてほしい」


 “僕でいいなら”などと謙遜してみせたが、洸のヴァイオリンの腕は管弦楽部随一である。おまけにコンクール組に欠けていた三年生部員の要素をも補ってくれる。強力な味方を得たコンクール組は沸き立った。

 さらにそこでサプライズが起きた。傍らで楽器をいじりながらやり取りを聞いていたアルトサックスの佐和が、「私も入りたい」と混ざってきたのだ。しかも、楽器は洸と同じくヴァイオリンである。


「佐和っちヴァイオリン経験者だったんだ!」


 驚いた菊乃を前に佐和はうつむいて、赤らんだ頬を隠してしまった。


「……うん、実は。中学二年までだけどさ」


 中学でヴァイオリンの居場所がないのに耐えられず、思いきってサックスに切り換えたのだという。新参の管楽器として後発で開発されたサックスの指使いは、長年のキイシステム開発の蓄積が功を奏してか、あのリコーダーとすら並び称されるほどの容易さを誇っている。管楽器に親しんだ経験のなかった佐和にとっても、扱うのはそれほど苦ではなかったのだった。


「で、でも佐和ちゃん、コンクールの参加には前向きじゃなかったんじゃ……」

「気持ち変わったの?」


 二年生の部員は口々に問いを重ねた。きまりの悪そうな顔で唇を結んだ佐和は、「最初はね」と答えて、彼女たちの疑いを肯定した。


「でもさ、あれからコンクール組の動きを色んなとこで見てて、だいぶ思うところが変わってきたんだ。美琴は本来の楽器でもないピアノパート任されたのに腱鞘炎起こすほど頑張ってたし、高松なんか音も出なくなったのにここまで回復してみせるし……。それ見てたら、腐って楽器投げ出した昔の自分が急に恥ずかしくなってきて、負けてられないなって思わされてさ。だからその……、もしもチャンスをもらえるのなら、むかし頑張ってた楽器(もの)、もっかい頑張ってみたいなって」


 三年生の洸が加入して上級生と対等な立場になったことも、心配性な佐和の懸念を払拭するには十分な要素だったらしい。思いの丈を語る彼女の言葉選びに、嘘の匂いは少しも感じられなかった。


「もう二年以上も触ってないし、無理かな……」


 しまいに佐和は口ごもってしまったが、菊乃は大声で彼女の懸念を打ち消した。


「だってその前は何年もやってたんでしょ? 大丈夫だよ、一ヶ月半ある。きっと間に合う!」


 その台詞は事実上、メンバーへの加入を菊乃(リーダー)が正式に認めたことを意味した。一気にヴァイオリンパートが二人から四人へ増員されたのをメンバーは喜び、輪の中に受け入れられた佐和は吹っ切れたような笑顔で顔をほころばせていた。

 増員はその後も続いた。これだけ弦楽器が増えると、わずか一本しかないフルートは音圧で()り負けて聴こえなくなりかねない。しかし菊乃以外のフルートパートは二人とも未経験者で、演奏技術はだいぶ低い。かくして菊乃が人選に悩んでいると、なんと、二人とも自ら名乗りを上げてきたのだ。

 特に舞香の士気が高かった。フルートを固く握りしめた舞香は、何度も里緒の顔を伺いながら熱心に意欲をまくし立てた。


「コンクールの舞台に立つ力がないことくらい分かってます。だけど、ほんの少しの実力不足なんか、努力できっと補ってみせる。だから入れてください。もう二度とないかもしれないチャンスを、一時の実力不足なんかでみすみす失いたくないんです」


 舞香に言わせれば、同じ美化係の里緒がコンクール練習に懸命に励む姿を見て、いつの間にか触発されていたというのだ。香織は香織で、美化係の後輩二人が心配だから自分もコンクール組に加わりたいという。思わぬ提案を受けた菊乃はしばし呆気に取られていたが、やがて嬉しそうに口を歪め、「びしばし鍛えるよ」と忠告した。


「望むところです。ね、香織先輩」


 すかさず強気の言い返しを見舞った舞香は、背後の香織と、やり取りを見守っていた里緒を振り仰いで、ニッと不敵に笑った。好奇心と強固な意思を糧にしてずんずん突き進もうとする舞香の逞しさに、こういう時、里緒はいつも舌を巻きたくなる。ともかくこれで、美化係の三人がコンクールメンバーの中に揃うことになった。

 洸や香織のような先例ができたことで、コンクールメンバーに三年生を加えるという選択肢のハードルは一気に引き下げられた。ここに至って、それまで唯一のホルンパート要員だった郁斗が「一人でやるの寂しいから」と言って立ち上がり、まもなく三年の実森を口説(くど)き落として帰ってきた。

 最終的に決定した増員数は五人。ここでついに、全十五人のコンクールメンバーが確定した。


「うん。個々のメンバーの技能を考え合わせても、これでいい案配の人選になったんじゃないかな」


 京士郎の墨付きを得た菊乃は「やったー!」と叫んで、ところ構わず佐和や舞香に抱きついていた。もとよりパート人数の増える見込みのなかった里緒にとっても、木管セクション所属の仲間が増えたことは素直に喜ばしかった。合宿二日目の夜にわだかまりを解いて以降、舞香はずいぶん積極的に里緒に関わるようになってきている。お掃除組の二人や緋菜、それから小萌がそばにいてくれる限り、里緒はひとりぼっちにならなくても済む。


 それよりも──。


「…………」


 里緒は黙って美琴の方を窺った。

 部屋の隅っこに置いたパイプ椅子の上で、美琴は小さくなっていた。その手首にはテーピングが施されたままになっている。

 腱鞘炎の治療に目処(めど)がつくまで、美琴は練習に参加することができない。そしておそらく美琴の肩を小さくしている要因は、練習に加われないことそのものだけではないはずなのだ。


(弦楽器が増えて底上げの必要がなくなっちゃったから、茨木先輩のピアノパートは要らない……なんてことになったりしないのかな)


 視界の隅に並んで腰かけるヴァイオリンパートの四人を見つめるたび、不穏な予感が里緒の胸に引っ掛かって揺れた。美琴がメンバーを外される事態なんて想像したくない。したくはないが、その余地は十分に残されてもいる。

 美琴がいても、いなくても、里緒は独奏(ソロ)クラリネットを投げ出したりはしない。それは自分のためでもあり、コンクール組の仲間全員のためでもあり、『どんなことでも手伝うから』とまで訴えて期待をかけてくれた美琴のためでもあるのだけれど──。

 ともかく不安で仕方なかった。どうか杞憂で終わってくれるようにと祈る他に、今の里緒にできることは何もないのだった。








「覚えてるだろ、里緒。むかしうちも豊島区(そのあたり)に住んでたんだ」


▶▶▶次回 『C.148 打診』

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