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クラリオンの息吹  作者: 蒼原悠
第五楽章 奏でよ、悠久のレクイエム
157/231

C.146 逃げ場のない叫び

 




 ドアの閉まった南武線の電車が、ホームを滑り出して宵闇の中へ消えてゆく。遠ざかる二つの尾灯を見送った花音はきびすを返して、いまだ花火大会の喧騒の抜けやらぬ手で、うきうきとICカードを取り出した。

 谷保(やほ)駅の構内は浴衣姿の男女であふれ返っていた。きっと誰も彼も花音と同じように、あの花火大会からの帰り道なのだろう。見渡す限り視界を埋め尽くすカップル、親子連れ、友達同士のグループ。花音も彼らの真似をしたいが、管弦楽部の仲間たちとは立川駅で別れたので、残念ながら一緒に家路をたどるような存在は誰もいない。

 里緒ちゃんがうちで暮らしててくれたらな──。

 自動改札機にICカードをかざしながら、つくづく、里緒を高松家に帰してしまったのを悔いた。天岩戸作戦を実践していた頃のように、いつも里緒や紅良がそばにいてくれたなら、こんな風に心細い思いをしながら独り夜道を歩く必要もなかったのに。

 けれども今日の花音は機嫌がよかったので、夜道の不安に背中を撫でられることもなかった。ふんふんと思い付きの鼻唄を奏でながら足早に駅舎の階段を駆け降りて、駅前ロータリーを回り込み、家の方向を目指して歩を進めた。


(楽しかったなぁ、花火)


 自然と口をついて出た笑みが、アスファルトの上にこぼれて散った。

 ここのところ連日のように野球の応援や部活に振り回されて、まともに夏休みらしいイベントに興じることができなかった。夏と言えば花火やプールと相場が決まっている。せっかく高校生の身分を謳歌できるようになったことだし、もっと気軽に、貪欲に、楽しみを見つけて食らい付きたい。部活の仲間たちと祭りを回るというのもその一つだった。そこに里緒の姿はなかったけれども、電話越しに同じ花火を眺めて語り合うことはできた。だから、今日の花音は胸を張って、目標達成と言えるのだ。

 見上げたカーブミラーののっぺりとした面に、舞香や緋菜の浮かべていた表情が思い起こされて、ぱちんと弾ける。花音はカバンの持ち手を握りしめて、空高く振り上げた。夜空に高々と弧を描いて回るカバンは、不安や懸念を解消して軽くなった花音の心の挙動にも似ていた。

 里緒が音を失った六月末の騒動から、もうじき一ヶ月。一年の仲間たちと里緒の間に横たわっていた確執も、合宿や応援演奏を通して順調に改善されつつある。元晴や緋菜のように、里緒のことを積極的に友達として扱う子も出てきた。

 あとは、里緒本人の意識を変えてゆかねばならない。たかが熱中症で倒れたくらいで後ろめたい思いなんか抱えることなく、笑顔でまた、管弦楽部に来てほしいと思う。


(もうひと踏ん張りだ。里緒ちゃんが安心して部活に来られるように、私も頑張らなくっちゃ)


 期待と希望に膨らんだ胸が、新たな目標を見出だしてくれる。すてきな好循環を見つけて嬉しくなった花音は、サンダルの足で一気に駆け出して、高らかに足音を響かせながら青柳家の前にたどり着いた。元気いっぱいに玄関のチャイムを押すと、千明と晴信が揃って出迎えてくれた。


「お帰り」

「ただいま! どうしたの、お父さんまで」


 両親は顔を見合わせた。

 今日は日曜日なので晴信の仕事もお休みだ。しかし、そうだとしても出迎えに来てくれるのは普通、二人のどちらか一方だけである。


「花火大会、どうだった」


 取り繕うように晴信が尋ね返してきた。花音の問いへの返答はなかった。


「楽しかったよ?」


 素直に答えながら、両親の様子が不自然なのに花音はだんだんと勘付き始めた。千明も晴信も表面上は笑顔を装っている。しかし、その瞳を彩る光は静かで、明るい表情とは決して相容れない。


「そう。よかった」


 ひどく形式的な感想を述べた千明が、カバンを抱えた花音を家に招き入れてくれる。後ろに回った晴信がドアを閉め、玄関が閉鎖空間になったところで、「あのね」と千明はふたたび口を開いた。


「ちょっと相談というか……。花音の気持ちを聞いておきたいことがあるんだけど」

「なに?」


 サンダルを脱ぎ捨てながら、花音も真似をして笑みを繕った。そうしなければならない気がして。

 だが、千明はあっさり笑顔の仮面を取り払って、艶の乏しい唇を開いた。


「夕方、花音の出掛けたあとに『ひかりの家』から電話があったの。むかし施設(あそこ)で仲良くしてたっていう子が、花音に連絡を取りたがってる。連絡先を教えても大丈夫か、花音の気持ちを聞きたい、って」

「へ…………」


 干からびた笑顔のまま花音は立ちすくんだ。

 とっさに脳裏をよぎったのは、七月二十一日に行われた西東京予選の第三試合だった。都立立国に大差をつけて勝利したあの日、試合後に花音は自動販売機の前で都立立国の吹部の少女と出会った。むかしの知り合いを名乗った彼女の風貌を、声の音色を、正体を、花音は今も鮮明に覚えている。あの子もまた、施設で暮らしていた頃の旧知の子だった。

 偶然にしてはタイミングができすぎている。

 まさか──。


「……誰、それって」


 青汁も泣いて逃げ出すような味のつばをそっと飲み込んで、訊いた。千明は一瞬ばかり、名前を口にするのをためらった。


「市原清音……って言ってたわ」

「ダメ」


 ほとんど脊髄反射に等しい速度で、返答が喉を飛び出した。

 花音は首を横に振り回した。

 ダメだ、清音だけはダメなのだ。他の子だったら許してあげてもよかった。


「ぜったい教えないで。『ひかりの家』の人にもそう伝えて」

「そう言うと思ってたの」


 千明の頬にようやく色が乗った。もしや、晴信ともども花音の帰りを待っていたのは、この話を穏便に持ちかけるためだったのか。遅まきながらすべてを察した花音は、よろめきかけの足取りで床板を踏みしめて、二階の自室へ続く階段を目指した。

 晴信が階下から控えめに尋ねてきた。


「夕食は食べてきたのかい。風呂は沸いてるから、いつでも入っていいぞ」

「そうする」


 やっとの思いで答えを返すと、力んだ肩が(きし)むような痛みを発した。

 ああ。

 心ゆくまで花火大会を堪能して、せっかく胸のなかも明るく燃えていたところだったのに。

 両親を責めるつもりは毛頭ない。だが、こんな仕打ちが待ち受けていると知っていたなら、もっと心の準備を整えてから家に帰りつきたかった。じゅくじゅくと傷んだ胸が苦しくて、歪んだ目元が決壊しそうになる。体重をかけて部屋の扉を開くと、ベッドに向かって花音は崩れ落ちた。

 誰かの声が聞きたくてたまらない。

 どす黒い思いの丈を暴露して、泣き喚きたい。

 その相手にするには花音の両親は優しすぎる。取り出したスマホの画面にメッセージアプリを起動させ、並ぶ友達の名前を花音は必死に探して回った。真っ先に里緒の名前とアイコンが見当たったが、


(里緒ちゃんはもっとダメ)


 叫んで、親指で振り払った。

 スクロールされた画面には紅良の名前とアイコンが浮かんだ。余計な遠慮をする必要のない相手をやっと見つけた花音は、迷うことなく通話ボタンを押し込んだ。

 数回のコールとともに紅良は出た。不機嫌な声が耳元を舞った。


 ──『何。どうしたの』

「西元、いま暇でしょ」

 ──『暇だけど……。さっきまで花火に行ってて、今は知り合いと別れて家に向かってるところ』


 その口ぶりからして、紅良も立川の花火大会を見に来ていたのだろう。花音はスマホを五本の指で固く握って、無我夢中で右耳に押し当てた。


「お願い。話したいことがあるの。ちょっとだけでいいから付き合って」


 花音にあるまじき低姿勢が違和感を掻き立てたのだろうか。受話器の向こうで、紅良の口調が変わった。


 ──『分かった。付き合う』


 ほっと息をついた花音は、「あのね」と場を繋ぐ言葉を挟んだ。そうしてその間に、どこから事情を説明すべきかをすばやく思案した。

 都合の悪い部分を上手く隠すような才能は花音にはない。清音のことを話すには、まずは花音の生い立ちから明かさねばならないことになる。

 今から紅良に暴露するのは、里緒の前でさえ頑なに知られるのを拒んできた、“花音”という人格の最大の暗部だ。紆余曲折を経て紅良に信頼を置けるようになった今でも、その暗部に自ら触れることは、絶大な痛みを伴う苦行に他ならない。


「私ね……。養子なんだよね」


 前置きのつもりで口にすると、案の定、胸に鋭い痛みが走った。

 紅良はいきなり絶句した。


 ──『……うそ。知らなかった』

「普通養子縁組とかいうんだって。小五のとき、今のお母さんとお父さんと出会った。それまでの私は青柳花音じゃなくて、合川(あいかわ)花音(かのん)って名前だったの」


 合川、と紅良は反復した。唐突に示された真実を受け止めきれずによろめく(さま)が、その圧し殺されたような声にはありありと聞いて取れた。


「うんと()っちゃい頃、私、産みの親のお母さんに……捨てられてね」


 声に震えが混じるのを肌で感じながら、花音は空いた左手で布団のカバーを握りしめた。


「それで施設に入ったの。物心ついた時には施設で暮らしてたから、ほんとのお母さんのことは何も知らない。顔も、声も、何一つ覚えてない。覚えてるのは『捨てられた』ってことだけだった。それで、私は捨てられた子なんだ、()らない子なんだって思いながら成長していったら、誰かに捨てられるってことが、どんどん、怖くなって」


 うん、と紅良が相槌を打ってくれた。表面張力の弾けた涙が一気に流れ出したが、花音は意地でも話すのをやめなかった。


「それでね……、もう捨てられたくない、独りぼっちになりたくないって思って、施設の子たちとはうんと仲良くしたんだ。みんな一つの家族みたいなものだもん。もしも迎えが来なければ、長いあいだ一緒に暮らしていかなきゃいけないから」

 ──『…………』

「そしたらね、ひとつ年下の女の子が、妹みたいに私に(なつ)いてくれたの。花音お姉ちゃん、花音お姉ちゃんって私の名前を呼んで、いつも私の後ろをついてきてくれた。私もその子のことが大好きになって、何をするのもみんな、一緒だった」


 言葉にするたび、当時の面影が脳裏を横切って高笑いする。花音は台詞の合間に浅い息をして、目を閉じた。頬を伝う涙が鬱陶(うっとう)しくなって、ぐいと腕を頬に押し付けた。

 そう──。

 その少女の名前こそが、市原清音。

 第三試合の球場で花音に声をかけてきた女の子だったのである。


「だけどその子ね、私よりも先に、()()()お父さんお母さんに連れられて、施設を出ていったんだ」

 ──『預けられてただけだったってことか……』


 紅良が静かにつぶやいた。「うん」と肯定の返事を発すると、痛みに胸が歪んで、たまらず花音は涙味の息を飲んだ。

 児童福祉法に基づいて設置される児童養護施設──いわゆる“孤児院”は、親を亡くした子どもばかりでなく、花音のように親が育児放棄(ネグレクト)を起こして養育不能に陥った子ども、あるいは親の虐待によって家庭で暮らせなくなった子どものように、行き場のない事情を抱えた子どもたちの(つど)う世界だ。中には、過労や病気療養のような事情によって一時的に子どもを育てられなくなった親が、“ショートステイ”と称して一定期間のあいだ我が子を預けに来るケースもある。

 花音の入所していた児童養護施設『ひかりの家』は、そういう特殊な需要にも対応していた施設のひとつだった。そして清音はまさに、そのショートステイを利用して預けられた子だったのだという。あとから施設の人にわけを聞かされるまで、当時の花音はそれらの事情を少しも知らなかった。

 妹同然の存在を失うことになった花音の悲しみは計り知れなかった。当時、花音はまだ物の分別もつききらない小学五年生。無理もなかったのだろう。

 だが、花音の本当の地獄(トラウマ)は、清音と引き離されることによって生じたのではないのだ。


「あんまりにも悲しくて、寂しくて、私、別れ際にその子の前で泣いちゃって……。そしたらその子、笑ってね。無邪気な声で言ったんだ」


 花音は不器用に唇を震わせた。


「『花音ちゃんのお母さん、戻ってくるといいね』ってっ……」


 親がいなかったから寂しかったのではない。()()()いなくなってしまうのが寂しくて、つらかったから、花音は清音の前で泣いたのだ。それなのに、花音の苦しみの根元など何も知らないそぶりで、彼女はやすやすと言ってのけた。同時に花音は、清音にとって自分が両親ほどの価値を持たれていない程度の存在だったのだと、骨の髄から思い知らされた。

 花音は二度、捨てられた。

 一度目は実の親、二度目は“妹”に。


 ──『……だから花音、あんなに高松さんを大事にしようとしてたのか』


 紅良の嘆息が耳元にひときわ強く共鳴した。上手く噛み合わない歯を強引に噛みしめて、「うん」と花音はうなだれた。

 まさに紅良の推察の通り、それこそが花音が里緒の離別を懸命に食い止めようと尽力した理由でもあった。花音は何が何でも()()()を経験したくなかったのだ。


「結局、その子を失って少しした頃になって、今のお父さんとお母さんが私を養子にしたいって申し出てくれた。不妊治療がうまくいかなくて子どもができなくて、それで私のこと、気に入ってくれたんだって。よく分かんないけど家庭裁判所とかのお世話になって、私は()()花音から()()花音になった。それで、今もここにいるんだけど」


 語っているうちに涙の流出は止まっていたが、話しながら立ち上がった花音はティッシュの箱をつかんでベッドに放り投げ、その傍らにふたたび沈み込んだ。不穏な気配を察知したように、『けど……?』と紅良が聞き返してきた。

 花音は鼻水混じりの痰を飲み込んで、言った。


「その子とね、こないだ偶然、会った」

 ──『…………』

「どう向き合ったらいいのか分かんなくて、私、怖くなって逃げ出しちゃった。そしたら今日、その子が施設経由で私の連絡先を聞いてきた。さっき花火から帰ってきたら、玄関先でそれ、聞かされて」

 ──『……だからか』

「私、どうしたらいいのか分かんないよ」


 訴えた途端、ふたたび涙が膨れ上がった。塩水でぐしゃぐしゃの顔を必死に拭い、花音は胸に貯まった黒ずみを紅良に向かってぶちまけた。


「どんな風にあの子と接したらいいのか分かんないよっ……。だって、私、その子のこと、自分を捨てた子としか思えないんだもんっ……。その子は未だに私のこと、大切な人だと思ってくれてるのに……っ。しかもその子、立国の生徒だったんだよ。立国のキャンパスって国立にあるんだよ。私の住んでる街に、毎日あの子は通ってきてるんだよ……。いつかどこかで鉢合わせしちゃうかもしれないのに、その子の前でどんな顔してたらいいのかも分かんないよぉ……っ」


 紅良は文句のひとつも口にせず、花音の言葉に耳を傾けてくれている。

 きっと相手が里緒でも同じことをしてくれただろうと思う。それでもやっぱり、紅良を選んだ自分の判断を花音は褒めたくなった。里緒は自分自身の苛酷な過去と対峙している最中なのだ。こんな重たいものを白状して、共感を求めるわけにはいかない。

 里緒の前で無様な姿は見せられない。『花音様だから!』と笑って胸を張れる救世主として、花音は里緒の隣に君臨していなければならない。

 それがどれほど過酷で孤独なことなのか、今の花音には少しだけ分かるような気もする。


「あの子が怖いよ、苦しいよ……! 助けてよ西元……っ。う……ぅう……っ!」


 ついに言葉が出尽くしてしまった。思うままに苦しみを言葉に置き換えることのできない悲嘆に暮れ、花音は押しつぶした嗚咽に身を委ねた。


 ──『花音』


 受話器の向こうで紅良がぽつりと言った。一筋の(しずく)のきらめきのように、その声は素直な軌跡を描いて花音の胸に落ちてきた。


 ──『ごめんなさい。……何かアドバイスしてあげたいけど、私、何も浮かばないや』


 とんでもない。無茶な要求をした花音が悪いのだ。「ううん」と夢中で首を振ったが、首の動きに本心が上手くついてゆかなくて、花音の息はまた少し苦しくなった。『だけど』と紅良は続けた。


 ──『これだけは分かっておいてよ。花音には高松さんがいる。それに、私のことをどう思ってるのかは知らないけど、少なくとも私は花音のもとを離れるつもりはない。友達をやめる気はない。もう二度と、永遠に、花音をひとりぼっちにはさせない。だから元気、出して』

「うん……っ」

 ──『……それと、話してくれてありがとう』


 紅良の優しい声には無数の感情が圧縮され、耳元で解き放たれて花音に殺到する。瞬く間に、花音の喉には有形無形の思いが詰まって塞がった。

 どうやっても返答が声にならず、花音は風に打たれた稲穂のように首を無力に振るばかりだった。








「……コンクールの日って、私の誕生日なんだよね」


▶▶▶次回 『C.147 コンクール組、再始動』

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