C.145 思わぬ届け物
里緒の消えた病室はがらんどうになった。
仄かに温もりの残るベッドの傍らに椅子を置き、大祐は窓の外へ視線を投げた。花火の打ち上がるタイミングに合わせて、向かいに建つ合同庁舎の建物の壁が艶やかな赤や緑に染まった。
(ガラスにうんと近付けば、なんとか花火も見える角度だな)
ほっと息をついて、笑ってみた。これなら、談話室に向かった里緒も無事に花火を拝めていることだろう。
里緒が入院しているのは四人部屋だったが、ちょうど患者の入れ替わる時期だったのか、里緒のほかに患者の姿はひとりも見当たらなかった。担当医に言わせれば、遅くとも翌日か翌々日には里緒も退院できる見込みだという。不自由や不安にそれほど脅かされることもなく、このまま里緒は退院の瞬間を迎えられそうだ。
(飲み物でも買いに行くか)
そう思って、立ち上がった。一階にコンビニが入居していたのを思い出して、下へ向かうエレベーターを探した。
立川ゆめのき病院では面会が二十時まで許されている。花火の終わる時間まで居残ることはできないけれど、もしも里緒が電話を終えて戻ってきても独りぼっちにならないように、時間ぎりぎりまでは病室で里緒のことを待っているつもりだった。右手に握った財布の重みを感じながらドアを開けて、新品の匂いの立つエレベーターに乗ると、姿の見えない花火の地鳴りがかすかに箱を揺らした。
里緒とともに日々を暮らす生活を始めて、早くも十日ほどが経過しつつある。
久しぶりに対面した時はどうなることかと思った。だが、里緒との生活は想像していたよりもずっと円滑で、かえって大祐の方が驚かされたくらいだった。正直に言って、里緒からはもっと拒まれるだろうと考えていたのだ。そうでなくとも年頃の娘にとって、父親は抗うことのできない生理的不快感の対象のはず。ましてや里緒と大祐は長い間、まともに共同生活も営んでこなかった間柄である。
(そのくらい、里緒は“受け止めてくれる人”の存在に飢えてたってことなんだろうか)
夜が更けて、タオルケットに埋もれながら寝息を立てる里緒の顔を窺うたび、本心を語ってくれることのない娘の言動をそんなふうに深読みしてしまう自分がいた。
いつでも必ずそばにいて、苦しいことがあっても一緒に受け止め、悩んでくれる──。かつての里緒にとって、瑠璃はそういう存在だった。意識的にせよ無意識にせよ、里緒の心がどこかで瑠璃の代わりを必要としているのは間違いないはずなのだ。
ただ、もしもそれが真実だとしても、里緒からの意思表示が何もない以上、里緒がどれだけ大祐の存在を求めているのか大祐には見当もつかないのが実状だった。
(今の俺がやるべきなのは、いつか里緒が心を開くことを選んだときのために、あの子に向き合う準備をしておくことなんだ)
そう割りきって、立川と六本木の間を往復し続けた十日間だった。
里緒が熱中症で倒れるというのはさすがに想定外の事態だったが、ひとまず里緒の命に別状もなかった。管弦楽部の活動にも一区切りがついたようだから、いつか頃合いを見計らって、ゆっくり話す時間を作りたいと思う。なにせ話しておかねばならない話題には事欠かない。最近のこと、裁判のこと、いじめを受けていた頃のこと。
『一階でございます』
──エレベーターのアナウンスで大祐は我に返った。飲み物を買いに来ようとしていたのを思い出して、右手に向かう通路に目をやった。
向こうから歩いてくる女性の姿がある。
「……あれ」
大祐は思わず口を開いていた。
はたと立ち止まった女性の目が見開かれた。彼女は紬だったのだ。
「記者さんじゃないですか」
「たっ、高松さん……。お世話になっております」
泡を食ったようにぺこぺこと紬は頭を下げ始めた。初対面の時にも同じ光景を目にしたのを思い返しつつ、「やめてくださいよ」と大祐は止めに入った。平身低頭されるのは好きではない。
「それにしても、ずいぶん偶然ですね」
訊くと、紬はどことなく居心地の悪そうな声で尋ね返してきた。
「高松さんはどういったご用向きでいらしているんですか」
「娘が……里緒が今、入院してるんですよ。熱中症で倒れて」
「大変!」
とたんに紬は青ざめた。
「だっ、大丈夫でしたか? 命に別状は……っ」
「ありませんでしたよ。もうじき退院です」
特に本人の断りも要らないだろうと考えて、野球部の応援演奏で出張った先で倒れたことも話した。紬自身も、弦国の第六試合で倒れた人が出たことそのものは小耳に挟んでいたようで、「里緒ちゃんだったんですか」と力なさげにつぶやいていた。
「記者さんは?」
万を辞して尋ねると、紬はうつむいて大祐から視線を逸らした。どんと重たい音が腹に響いて、向かいの窓の外が深紅の色に染まった。
「その……。私、夫が鬱病で入院しているんです。以前ちらっとお話ししたこともあったかと思うんですが」
「もしかして、ここに?」
「そうです。五階の東病棟なので、里緒さんの目に留まることはないかと思うんですけど」
とんでもない偶然もあったものである。返事に困った大祐は、ただ「そうですか」などとありきたりの文句を口元に浮かべ、誤魔化してしまった。
鬱病といっても程度がある。通院ではなく入院治療で、しかも以前“夫を失いかけている”とも語っていたところをみると、どうもあまり穏やかな病状ではないのではないかと感じられる。事情を知らない大祐が下手に言及すべきではないと咄嗟に思った。
「息子とお見舞いに来たところだったんです。息子は今、病室の窓から看護師さんと一緒に花火を見てると思います」
乾いた声色でそこまでの言葉を言い切った紬は、不意に、顔を上げて大祐の姿を見つめた。
「──そうだ。高松さん、お時間はありますか」
「ありますが」
飲み物ならばいつでも買える。様子の変わったのを訝りながら答えるや、すぐさま紬はスマホを取り出して、焦ったように画面をスクロールし始めた。瞳の光が一枚の画像を射抜くのを、わけも分からず大祐は見つめていた。
「私、先日、取材で仙台に行ったんです。里緒さんが三年生の時に担任をしていたという方に会って、お話を聞くことができたんですが……」
紬はスマホを差し出した。
「こちら、見覚えはありませんか」
手書きの手紙らしきものが、写真数枚に分割して撮影されていた。大祐は眉を曇らせた。
「……これは?」
「元担任の方がコピーをくださったものです。里緒さんが中三に進級してすぐの四月、瑠璃さんが学校に来て里緒さんへのいじめをやめさせるように訴え、これを置いていったと」
「いや……、初めて見ました」
大祐はうろたえ気味に首を振った。まったく身に覚えがなかったのだ。
四月といえば、瑠璃の死去する半月前。その時期に瑠璃が学校を訪れたのは本人から聞いていたが、こんな手紙を手渡したというのは聞かされていなかった。
「中身、ご覧になっていただきたいんです。必要であればお送りします」
紬の声は息を飲むほどに真剣だった。うなずいて、文面に目を通した。
そこには大祐の知らない情報が無数に列挙されていた。いじめの具体的な態様から、主犯とみられる子どもの名前、いじめの始まった時期、経過に至るまで。まるで初対面の人間に事情説明をするためのもののように、懇切丁寧な書きぶりだった。
驚くと同時にすさまじい興奮が全身を包み込んで、大祐は夢中で文字の羅列を追いかけた。これは今後、裁判を起こして損害賠償を訴える上で大いなる味方になる、特一級の重要証拠である。
だが、最後のページに目が入ったところで、その激しい興奮は急に消し飛んだ。
【里緒がいじめを受けるようになってしまったのは私のせいなんです。】
そこにはそう書かれていたのだ。
見間違うはずもない、瑠璃本人の筆跡で。
「……ご覧になりましたか」
紬が静かに尋ねてきた。彼女が本当に見せたかったものが何なのかを、大祐はようやく理解した。
“私のせい”とはいったいどういうことだろう。里緒がいじめられるようになったのは、よもや瑠璃のせいだと言いたいのか。大祐の知っている事実はそうではない。
(そんなはずは……。里緒の受けていたいじめが、ママ友いじめの形で瑠璃にも及んだんじゃなかったのか)
一気に頭がこんぐらがって、スマホを握りしめた大祐は長い廊下の真ん中に立ち尽くした。まるで、物語の終盤に差し掛かって急に展開を丸ごと引っくり返され、すがるものを失った読者の気分だった。
「今のところ、ご本人の書かれたこの手紙を除けば、瑠璃さんの抱えていたトラブルが里緒さんに飛び火したことを示す証言や証拠は確認できていません。……ただ、実は私たち、学校関係者や周辺住民への聞き込みは進んでいるんですが、瑠璃さんを取り巻いていたはずの母親グループについては、いまだに何も話を聞くことができていないんです」
紬の声は喘ぐようだった。
「……もしかすると私たちは、何か大きな認識の過ちを犯しているんでしょうか」
その長い睫毛が瞳にかかって、瞳孔の奥が暗くなるのを、大祐はぼんやりと見つめていた。
また一つ、二つ、雷鳴のような爆発音が立て続けに轟き渡って、窓ガラスを艶やかなオレンジや青の色に染め上げた。
「お願い。話したいことがあるの。ちょっとだけでいいから付き合って」
▶▶▶次回 『C.146 逃げ場のない叫び』