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クラリオンの息吹  作者: 蒼原悠
第五楽章 奏でよ、悠久のレクイエム
155/231

C.144 病院の窓から

 




 七月二十八日、日曜日。

 本来ならば西東京大会決勝の行われるはずだったその日、立川では花火大会が開かれていた。

『大多摩祭昭和記念公園花火大会』。昭和記念公園内の広大な原っぱが射場となる、多摩地区有数の大規模な花火大会である。約六十年の長い歴史を持つ由緒正しい花火大会で、都内最大級の一尺五寸玉が打ち上げられることでも知られており、打ち上げ数は五〇〇〇発、観客動員数は実に六十万人以上。通常有料の昭和記念公園がこの日の夕方だけは無料で開放され、周辺の道路には交通規制がかけられる。まさに街ひとつを巻き込んだ一大イベントだ。

 この花火大会に、管弦楽部の部員たちは総出で繰り出したようだった。夕方になると、花音からは十数分に一枚のペースで写真が送られてきて、そこには楽しそうに出店を漁る花音や一年生の仲間たちが華やかに写っていた。誰ひとり浴衣を着ていないのを不思議に思って尋ねると、『面倒だから私服で揃えよう!』という緋菜の発案だったのだと聞かされた。もしかすると里緒に配慮しての提案だったのかもしれないが、真相は知るべくもないし、こういうとき自分に都合のいい考え方をしていると痛い目に遭うことを、里緒は全身全霊でもって知っていた。


「友達か。ずいぶんたくさんいるな」


 見舞いにきてくれていた大祐が、一緒に写真を覗き込んで微笑んだ。

 “部活仲間”と“友達”の概念を切り分ける境界線がいったいどこに引かれているのか、里緒には分からない。「友達なのかな」とつぶやいて、嘆息した。


「仲良しにはなれたのかなって思ってるんだけど」

「友達だと思えば友達になるんじゃないのか。恋人と違って、お互いに地位を確認する必要はないんだから」

「で、でも……。私だけ友達だと思ってても、向こうが友達だと思ってくれなかったら」

「不安なら聞いてみるのがいいんじゃないか。本当に友達になれてるなら、きっと教えてくれる」


 大祐はずいぶん簡単に言ってくれるが、それができていたら里緒は今頃、こんなに惨めな思いを抱えてはいない。胸の上にスマホを伏せて、やりきれない感情を押し潰すと、画面に新着のメッセージが表示された。またしても花音からだった。


【ね、電話しない?】


 里緒は身を起こした。時刻は午後七時十分。花火大会の開始まで、残り十分を切っている。

 大祐を見上げると、彼は口の端を丸い形に持ち上げた。


「談話室なら電話できるぞ。行っておいで」

「……うん。そうする」


 厚意に甘えることを決め、里緒は立ち上がってスタンドを握った。長い廊下にキャスターの音を響かせながら、【わかった】と返信を(したた)めて、談話室の場所を探した。




 花音や紅良や美琴に慰められ、少なくとも里緒は今、表面上は立ち直ることができている。だが、管弦楽部の仲間たちに向けた後ろめたい思いが完全に霧消したわけではない。

 本当は直接会って、きちんとみんなに謝りたい。迷惑をかけたことを詫びて、また、合宿の夜のように仲間として受け入れられたい。けれどもきっと謝らなくとも、管弦楽部は里緒を受け入れてくれるのだろう。謝る必要はないとでも言い含めて、謝罪の言葉を押し止めてしまうのに違いない。それを“優しさ”と捉えるべきなのか、はたまた“心の距離”と捉えるべきなのか、今の里緒には何とも区別のしようがなかった。


(前のままの私だったら、たぶん、青柳さんや西元さんの前では泣けなかった。怖くて感情なんか(さら)け出せなかった)


 握りしめたスマホの冷涼感に肌の温もりを融かしながら、談話室の窓際に据えられた椅子に里緒は腰かけた。

 さすがに時間が遅いからか、談話室は無人で、時おり廊下をよその患者や看護師が通りかかるばかりだった。目元に指を当てて、拭って、二日前の号泣を思い返した。恥ずかしさと情けなさでまた泣きたくなった。


(これでも私、ほんの少しずつ成長してるのかな)


 一応は前向きに振り返りつつ、納得のいかない本心のカタチを確かめた。成長しているだけでは足りない、もっと早く大人になりたい。花音のように明るく、紅良のように理性的に、美琴のように強くなりたい。目指すべき存在はそこらじゅうに林立していて、その誰もが自分の遥か上を見据えて生きているように感じられて、見上げれば見上げるほどに里緒の目は(くら)む。

 濁った味の息を床に落とすと、スマホの画面に着信を示すマークが(とも)った。花音のアイコンが浮かび上がっているのを確認して、里緒は電話に出た。


「……もしもし」


 とたん、受話器の先で無数の雑音が一斉に膨れ上がった。出店の客引きの声、行き交う小さな子の声、足音、紙袋を漁る音──。名もない無数の音をすべて弾き出す勢いで花音が叫んだ。


 ──『今ねー、みんなで買い食いしてるとこ! 私りんごあめ食べてた!』


 あまりの声量に里緒はスマホを取り落とすところだった。さすがは自由人の花音だ、冒頭に『もしもし』と口にすることさえしない。


 ──『しかも半額にしてもらえたんだよ、半額! 粘って値切り交渉したら思いっきり値段下げてくれたの!』

「そ、そうなんだ。よかったね……」

 ──『へへ、すごいでしょ! 花音様だから!』


 花音はすっかり決め台詞を放つのに凝っている。もしや、たったそれだけのことを話すために、花音はわざわざ電話をかけてきたのか。安堵するやら落胆するやらで、傍らのベンチに腰掛けながらパジャマの裾をつまんでいると、いきなり耳元で『あっちょっと!』と花音が(わめ)いた。


 ──『なになにー? これ高松さんに繋がってんの?』

 ──『スピーカーモードにしちゃえ!』

 ──『ここ離れよう、出店の呼び声が大きいよ』

 ──『あっちにスペースあったの見かけたぞっ』


 舞香たちにスマホを奪われたらしい。たちまち大人数の話し声が耳を圧迫して、心の準備のできていなかった里緒は真っ青になった。話し相手は花音だけだと思っていたのに!


 ──『ねっ高松さん、元気になった? 誰だか分かる?』


 尋ねてきた声は緋菜のものだった。一瞬で判別できたことに驚いたあまり、里緒は口を開閉させるばかりで応答できなかった。


 ──『ちっともお見舞い行かなくてごめんねっ。私、今のうちに夏休みの宿題片付けちゃおうと思ってて!』

「そっそんな、お見舞いだなんて」


 いつものくせで里緒は口ごもった。点滴を打たれながらぼんやりと時間をやり過ごしているだけの少女のもとを訪れたって、何も楽しくないに決まっている。


 ──『聞いて聞いて! あのね、さっき緋菜ちゃん八代せんぱいにリンゴ飴で口説(くど)かれてたんだよ! 失敗してたけど!』


 話の流れを無視して花音が大声で割り込んでくる。『だから違うんだって』と緋菜が声を曇らせた。話を聞く限り、いつもの調子のいいノリで智秋に絡まれただけらしい。低音セクションの仲睦まじさはどこへ行っても本当に変わらない。

 何と言葉を返したものか考えあぐねた里緒をよそに、一年生たちはスマホ越しの世界で好き勝手に盛り上がり始めた。


 ──『そういやさ、さっきあっちで徳利(とっくり)先輩と宗輔さんが射的バトルやってたの見た? 二人とも真面目な顔して笑っちゃうくらい下手くそなの、超面白かったんだけど!』

 ──『俺は部長がゴジラのお面つけて歩いてるの見かけたのが一番笑ったけどなぁ』

 ──『えっ何それ教えてくれればよかったのに! 今からでも間に合うよ、写真撮りに行こっ』

 ──『みんな行ってきていいよ。わたし、ここでゆっくり綿あめ食べながら高松さんの電話の相手してるから』

 ──『もえちゃん、二年の人たちと洸先輩向けのいたずらグッズ買いに行くって言ってなかったっけ?』

 ──『合流し損なっちゃったから今度でいいや』

 ──『あ、しまった。ガチャ回すライフなくなった』

 ──『祭り来てまでソシャゲかよ光貴』

 ──『祭りでやるから楽しいんだ。川西は理解が足りない』

 ──『そんな理解しなくていいよ俺は……』

 ──『見て見て! あれ松戸先輩とタッキー先輩じゃない? おーい! 何食べてるんですかー?』


 里緒が一言も声を発していないことに彼らは気づいているのだろうか。たまらない疎外感を覚えた里緒だったが、話の流れを遮るのも気が咎めたので、黙ったまま仲間たちの声に耳を澄ませ続けた。

 空間に没入するにあたって、音という要素は計り知れない効果を持つ。たとえば、立体的な音響効果の施された曲をイヤホンから大音量で流していれば、どんな場所にいようとも感覚はコンサートホールのそれに変わる。それと同じ理屈で、賑わう人々の雑踏や声が耳のなかに弾けていると、気分はまるで混雑の中へ迷い込んだように変化するのだ。たとえそこが人気(ひとけ)のない病院の談話室であろうとも。


(いいな、みんな。楽しそうだな)


 パジャマ越しの太ももに押し付けた拳を、力を込めて里緒は握った。

 目を上げれば、そこに花音や緋菜や舞香が立って里緒を見下ろしているのではないかと思った。もちろんそんなことはないのだけれど、声の大小や高低に封じ込められた受話器の向こうの空間の奥行きは、本当に里緒がそこにいるかのような錯覚を生む。現実との(ギャップ)を思うと無性に切なさが込み上げて、ゆとりの乏しい里緒の心をめりめりと痛め付ける。

 もう、我慢の限界だった。

 不用意な言葉で不快にさせてしまうことのないように、里緒は小声で口を開いた。


「あ、あの」

 ──『んー?』

 ──『何?』

「その、私、電話切った方がいいかな……」


 迅速に返事が返ってきたことにやや驚きつつ、怖々と里緒は尋ねた。電話口の仲間たちは葛藤の間も挟むことなく『なんで?』と問い返し、里緒のちっぽけな胸はいよいよ萎縮し始めた。


「だって、私と電話してたら、みんなもお祭りを楽しみにくいだろうな……って」


 蚊の鳴くような声で訴えながら、不意に目尻が潤むのを里緒は覚えた。ああ、こんなときにさえ自分の信念に自信を持てないなんて。悔しくて、悲しくて、うつむきながらパジャマの水玉模様を数えていたら、花音の咆哮が薄べったい耳をつんざいた。


 ──『里緒ちゃんはそういう余計なこと考えなくていいの!』

「でっ……、でも」

 ──『里緒ちゃんだけ病院でひとりぼっちにならないように電話したんだもん。いつもみたく隣に立ってるような感覚で話しかけてくれたらいいし、つまんなかったら聴き流してくれればいいのっ』


 凄まじい剣幕である。里緒は言葉を失った。

 考えてみると、里緒が誰にも話しかけられずに孤立しているのは、スマホを介した距離のせいではない。彼我(ひが)の空気が違うせいでもない。普段、当たり前のように隣り合って座っていても、きっと同じように里緒は孤立する。話しかけられないのは単に里緒自身の問題なのである。


 ──『そりゃ、聞いてるだけじゃ退屈なのは分かってるけど、花火の間くらい付き合ってよね。わたしら別に高松さんのことハブりたいなんて思ってないんだからさー』


 舞香の無闇に明るい声が弾けた。きっと普通に可笑しかったのだろうが、とっさに呆れ笑いを疑ってしまうのが里緒の悪い癖だ。里緒が答えに詰まっている間に、『そうそう!』と緋菜が続いた。

 一年生のみんなは優しい。

 里緒が何を恐れ、何に心を痛めているのかを知った上で、敏感に言葉や態度を整えてくれている。

 申し訳なさが喉を突き抜けて口元へ上ってきた。ついでにそこへ第六試合の失敗の記憶が重なり、気づくと里緒は(うめ)くように声を絞り出していた。


「ごめんね、ごめんなさい……。勝手に倒れて入院した私のこと、こんなに気遣わせちゃって……」

 ──『()()なんだから当たり前だろ』


 怒ったように元晴が言い返した。

 さりげなく織り込まれていた聞き慣れない単語に、里緒の脳幹は鈍く反応した。


「……友達?」


 里緒は彼の口にした文句を無意識に反芻した。その拍子に目尻の涙が砕けて、すっと頬を流れ落ちた。


 ──『あんな暑さの中で演奏してりゃ誰だって熱中症になるし、それを()()()()()()なんて言われちゃ、俺らだって敵わないよ。そんなことでいちいち怒られてたらやってらんねーもん。なぁ?』


 元晴は威勢よく周囲に同意を求め、『そうだよ!』などと似たり寄ったりの言葉が耳元に折り重なった。元晴が里緒を()()呼ばわりしたことへの異議を唱える声も、疑義を呈する声も、そこにはひとつも聞き取れなかった。さも当然の事実を口にしたかのような反応だった。

 刹那、大祐の助言が胸をよぎって、心の(うろ)を照らすように強く(またた)いた。


「私」


 里緒はつぶやいた。


「──友達なのかな」


 電話口に向かって問いかけたのではなくて、独り言のつもりだった。元晴は本当に心の底から、里緒を友達として認識してくれているのか。それともあくまで飾り文句に過ぎないのか。高校入学以来、花音や紅良以外の子から「友達」だなんて呼ばれたのはこれが初めてで、どこまで楽観的に捉えていいのか里緒には分からない。

 すかさず答えたのは緋菜だった。


 ──『友達だよ』


 たった四文字の台詞を聞きつけた途端、身体の奥が染み渡るように熱を持った。

 血の巡りに乗って熱は身体中に行き渡り、里緒の心も頭も見る間に飲み込んで、氷のような孤独感の(かたまり)を跡形もなく打ち砕いた。


「……そっか」


 応答を口に出したら、また、ひとつぶの涙が目元を転がり落ちて、パジャマの水玉模様をいたずらに増やした。

 もしかすると緋菜の気配りの賜物なのかもしれない。実際のところ里緒は友達でも何でもなくて、ただ里緒に余計な心配をさせないために方便を用いただけなのかもしれない。物事を疑い始めたらきりがないのだ。

 今は緋菜の人柄を信じていたい。

 だから、緋菜の言葉も信じて、受け入れる。

 同じようにして元晴の言葉も受け入れる。小難しい理屈なんか、それで十分だと思った。


 ──『あ、気づいたらこんな時間じゃん!』


 舞香が慌ただしく叫んで、里緒は我に返った。


 ──『あと三十秒くらいで花火、始まっちゃうよ!』

 ──『えっ嘘! ほんとだ!』

 ──『もうちょっと見やすい場所行こう!』


 にわかに受話器の向こうでばたばたと移動が始まった。見ると、画面の時計は午後七時十九分を指している。開始時刻は二十分を見込んでいたはずである。

 スマホを握っているのは花音だろうか。足から伝わる振動も、吹き寄せた風が画面に当たって割れる衝撃も、すべては音の情報に変わって里緒の耳元にあふれ出した。音は世界の在り方を知る手がかりになる。今、花音たちがどこをどんな風に走っているのか、流れ込んだ音を頼りに脳裏へ思い浮かべてみる。すぐに、花音の隣に並んで駆け足になっている自分の輪郭が見え始めて、ついに里緒の胸からは寂寞(せきばく)の思いが完全に消失した。

「焦らないでね」と小声で案じてから、里緒は談話室の大きな窓に張り付いて外を窺った。

 真っ赤な閃光が夜空に放たれた。『やばいやばい!』『始まっちゃった!』──耳元で繰り広げられる滑稽な会話に黙って聞き入りながら、漆黒の夜空に消えた閃光を追って里緒は目を細めた。次の瞬間、地響きとともに巨大な火の玉がきらめき、同じ赤色の輝きを里緒の瞳に刻み付け、墨塗りの空へと華やかに消えていった。






「……もしかすると私たちは、何か大きな認識の(あやま)ちを犯しているんでしょうか」


▶▶▶次回 『C.145 思わぬ届け物』

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