C.143 点滴と涙滴
目を覚ました時、里緒は真っ白なベッドの中に寝かされていた。
楕円の形をした視界がぼやけ、冴え、ふたたびぼやけて鮮明になった。真っ先に目に入ったのは一本のスタンドだった。ベッドの脇に屹立する銀色のスタンドが、横たわった里緒の姿を冷たい目付きで見下ろしている。その中頃に半透明の合成樹脂製バッグが取り付けられ、下部に接続された細い管が布団の下に潜り込んでいるのを認めて、里緒はそれが点滴の装置であることに気づいた。
「う…………」
左腕に刺さった管の感覚が気持ち悪くて、呻いた。呻く声は粘っこくて、水分のかけらも含まれていなかった。
どたばたと足音が響いた。「起きた!」と短く叫んだのは花音の声だったか。すぐさま里緒の視界いっぱいに三つの顔が並んで、里緒は飲んだ息をよろよろと吐き出した。
「青柳さん……、西元さん……、先輩」
花音と紅良と美琴だった。目のふちに涙を貯めた花音が、何度も何度も繰り返し、首を縦に振って応じてくれた。
「ここは……?」
尋ねると、紅良がベッド脇にしゃがみ込んだ。
「立川駅前の病院。いま、点滴を打ってるところ。中身はただの生理食塩水だから安心して」
「生理食塩水……?」
なんで、と続けて尋ねようとしたが声にならなかった。喉は枯れきっていて、ほんの少しの息を試みるだけでも、ひりひりと熱のこもった痛みを放った。
「何も覚えてないんだ」
紅良は静かに尋ね返してきた。うなずき返すと、彼女は里緒の左腕を取って、注射の刺さった場所を里緒に見せた。どくん、と心臓が不気味に高鳴る。里緒はとっさに耳をふさぎたくなったが、そんなことをしても何の意味もないのは分かり切っていた。
紅良は言い出しにくそうに口を歪めた。
「……演奏中に熱中症で倒れたんだよ、高松さん。介抱したけど意識が戻らなくて、大急ぎで救急車呼んで、この病院に運び込んだの。先輩と私が搬送に付き添って、花音は試合が終わってから駆けつけてきた」
里緒の全身は無の空間を落下するような感覚に包まれた。「そんな」と声が漏れた。
信じたくない。信じられない。
だって、つい今しがたまで、クラリネットにしがみついていたというのに。
里緒の指先には確かな感覚が残ったままだ。日射を浴びて高温になったキイの、焼けるように熱い触感。応援団の吼える声。スタンドの中ほどに立って感じた、あの土の臭い。振動。
この身体はまだ球場を覚えている。悪い夢でも見ているのではないかと思うほどに。
「──し、試合は」
思い出した言葉を里緒は叫んだ。
「試合と演奏はどうなっちゃったのっ」
「クラ一本で演奏は続行したよ。花音が一人で頑張り続けた」
紅良が答えた。もはや、里緒への事情説明は紅良にすっかり一任されていて、隣にしゃがんだ花音は潤んだ目を何度も腕に押し付け、美琴は睫毛の下に瞳を隠したまま、起立の姿勢で押し黙っていた。
視線をあちらこちらへ揺らしながら、紅良はためらいがちに白状した。
「でも……、試合は負けた。七回表で三点差に引き離されたんだ。八回裏と九回裏で一点ずつ追い上げたけど、足りなかった。弦国は準決で敗退した」
里緒は今度こそ答えるべき言葉を見失った。
うつむけば、純白のシーツが目に痛い。あらゆる色の中でも際立って誉れ高い、高潔さの象徴たる白色は、時として鋭い刃となって人の目に突き刺さる。そういえば弦国野球部の服装も、こんな具合に真っ白だった。度重なる試合のなかで傷み、くすみ、土気色の汚れにまみれていたが、その胸には弦国の名前を刻んだ刺繍が堂々と輝いていた。
校名の刺繍がなくとも、里緒たち管弦楽部も同じ立場のはずだった。西東京の名門校・弦巻学園国分寺高校の看板と誇りを背負って、あのスタンドに立っていたはずであった。顔バレ防止の目的で着用したドミノマスクは、いつしか弦国応援団の象徴たる“仮面”として、その存在を東京中に知らしめる役を担っていた。
それなのに、最後まで演奏しきれなかった。
野球部の進撃を支えてあげられなかった。
美琴の託してくれた願いも叶えられなかった。灼熱のスタンドに花音を置き去りにし、ひとりぼっちでクラリネットを吹かせてしまった。迷惑をかけた人の数は知れない。おそらく管弦楽部だけでは済まされないはずである。それが証拠に今、ここには部員でない紅良の姿がある。
目覚めて早々、こんなにも絶望のどん底に突き落とされるだなんて思ってもみなかった。こんなことなら目なんて覚めなきゃよかった──。深い後悔と醜い後悔がいっぺんに押し寄せて、たまらず里緒は、どす黒い息を吐き出した。
右手の窓から差し込んだオレンジ色の陽光が、無言に沈んだ三人の顔を赤々と焼いている。
「……ごめんなさい」
絶え絶えの声で謝ると、花音の目が丸く見開かれた。三人の顔が歪んで、揺らめいて、それで初めて里緒は自分が泣いていることに気づいた。
「心配かけて、迷惑かけて、野球部の人たちも負けさせて……、そのうえ……先輩の分まで吹くこともできなかったなんてっ……。ごめんなさい……。弱い私でごめんなさいっ……」
あふれ返った涙が頬を落ちてシーツに染みを描いた。激しくしゃくりあげてしまって、そこから先の弁明は声にもならなかった。
花音の目からも見る間に涙があふれた。唇を震わせた紅良が何かを言おうとしたが、それまで黙っていた美琴が口を開いて紅良に先んじた。
「高松」
「うっう……っ。ごめんなさい、先輩……ごめんなさいぃ……っ!」
「高松!」
美琴は叫んだ。殴られたような衝撃に言い訳を遮られ、里緒は涙を拭うこともできないままに眼前の先輩を見上げた。
美琴の言葉は圧し殺したように低く、静かで、里緒の身体と同じように痙攣を帯びていた。
「お願い、頼むから聞いて。高松は最後まで精一杯やってた。野球部が負けたのは高松のせいじゃないし、私たち管弦楽部のせいじゃない。高松と青柳は最大限の力を尽くして応援演奏を盛り上げていた。ずっとそれを後ろで聴いてた私が言うんだから間違いない。卑下する必要なんかないし、してほしくない。するべきじゃない」
ぐずぐずと泣きながら、美琴は損をしていると里緒は思った。普段から仏頂面ばかりで取っつきにくいけれど、その内にはこんなにも熱い優しさが秘められている。彼女は自分を魅せるのが下手なのだ。
その優しさに溺れ、甘え、許しを得ようとしている己の卑劣さがどうしようもなく嫌になって、里緒はいよいよひどく泣き崩れた。せっかく流し込んでもらった生理食塩水を、片っ端からシーツの上にぶちまけてしまった。
うずくまって嗚咽に沈む里緒の無様な姿を、半泣きの顔で紅良は見つめていた。横から身を乗り出した美琴が、力を失った里緒の左手を握ってくれた。傾いた眉の下に覗く瞳が、声が、濡れていた。
「私のせいで無茶させちゃったんだね。ごめん、高松。……ごめん」
握られた手が熱くて、温かくて、よけいに悲しみが込み上げて、里緒は塩味の満ちた唇を強く噛みしめた。
◆
弦国野球部の第六試合敗退に伴って、管弦楽部は応援演奏の任を解かれた。
里緒のクラリネットは楽器管理係の本庄詩が回収してくれた。持参していた荷物は美琴が救急車に持ち込み、そのまま病室の隅に保管された。緊急入院と聞き付けて会社から飛んできた大祐は、ひとまず里緒の無事を見届けると家に向かい、入院中の衣服を簡単に用意してくれた。
脱水症状の激しかった里緒は、大事を取って数日間ほど入院することになった。
ここは『立川ゆめのき病院』という、駅の北口に立つ総合病院らしい。里緒の病室は六階で、窓の外を窺えばモノレールの高架線路が斜め下に見え、向かいに建つビルの窓には大きな空が映っていた。
意識はすっかり元通りになって、翌日にはおぼつかないながらも立ち歩けるまでに回復した。しかしどこへ行くにも点滴のスタンドを飼い犬よろしく連れて歩かねばならず、気ままな出歩きは困難を極めた。必然、暇つぶしの手段はベッドに横たわりながらでもできることに限定されてしまったので、里緒は大祐に頼み込んで家からスマホの充電器や楽譜を持ってきてもらった。たったそれだけの欲を出すのにさえ罪悪感がひどくて、昼も、夜も、焦げた胸が苦しかった。
スマホのニュースアプリには、悔し涙に暮れながら球場を後にする弦国野球部の姿が繰り返し映し出されて、それがまた里緒の心を激しく抉った。里緒の件と野球部の敗退は無関係だと美琴には言われたが、今の里緒ではその言葉を鵜呑みにはできない。庇われることしかできない自分が惨めで、いっそ野球部の部員たちに病室に押しかけられて弾劾されたいとさえ思った。
敗退に伴って、野球部や応援部と部長たちとの間でどういうやり取りが交わされたのか、里緒は知らない。ただ、管弦楽部のメッセージグループからは、七月三十一日までの五日間を早めの“お盆休み”にするという通達が送られてきた。その間、部活は一切なし。厳しい暑さの中で負ったダメージを回復させ、次の活動に備える期間にしてほしいというのが、はじめたち管弦楽部中枢の考えだという。
【私の体調管理が行き届いていなかったばかりに、皆さんに大変な迷惑をかけてしまいました。本当にごめんなさい】
──悩んだ末、里緒は長文の謝罪メッセージをグループチャットに投下した。はじめと菊乃からは個別に慰めの返信が送られてきたが、それ以外の音沙汰は何もなく、里緒の心細さはいや増しになった。
「私、──友達なのかな」
▶▶▶次回 『C.144 病院の窓から』