C.142 第六試合
美琴はクラリネットパートの後輩二人にではなく、里緒に自分の代わりを求めた。
その真意を美琴は語らなかったし、もしかするとさしたる他意はなかったのかもしれない。だが、寝ても覚めても美琴の悲痛な声色が思い出されて、里緒の眠りはひどく浅いものになった。あの正体の分からないガスが胸を膨らませたまま滞留して、どこへも逃げてゆかなかった。
美琴だって立派なクラリネット奏者である。吹けなくなったことを喜んでいるはずはない。そうであってみれば、今の美琴の心境は、かつてクラリネットを吹けなくなった時の里緒のそれに似ているのかもしれないと思った。
(……寂しくて、苦しくて、情けなくて、あの頃の私は心がぐちゃぐちゃだった)
丸めた毛布を抱きしめながら、寝起きの頭で里緒は一ヶ月前の自分を思い返した。あのとき負った心の傷は今も癒えていないし、吹けない自分を想像しただけで死にたくなる。涙が浮かんで崩れ落ちそうになる。
思いのままにクラリネットを操れない苦しみに手が届くのは、里緒だけ。
もしかすると美琴はそんな期待を抱いて、里緒に期待をかけたのかもしれない。
(頑張らなきゃ)
里緒は拳を握った。
真一文字に結んだ唇が、自然と、歪んでいた。
七月二十六日。いよいよ、運命の第六試合が幕を開けた。
準決勝の舞台には例年なら明治神宮野球場が設定される。だが、今年に限っては台風で破損した設備の復旧作業が完了しておらず、代替として立川市の市営球場が会場に選ばれた。里緒の住む都営住宅からは徒歩でも向かうことのできる、ごく至近の球場である。
試合開始は午前十時。管弦楽部の一行が到着すると、すでにスタンドには多くの客が詰めかけ、ふたつの強豪校が真っ向から対決する試合の始まりを待っていた。味方側スタンドの一角に陣地を確保し、各自の楽器を取り出しにかかった。
「茨木にはしばらく裏方を手伝ってもらいます。上福岡、采配をよろしくね」
部員たちが楽器を手に揃ったのを見計らって、はじめは洸に声をかけた。「他の子より扱いやすくて助かるよ」と洸が失言を漏らして、とたんに恵や直央の激しい抗議を受けた。
当の美琴は部員の輪の一歩ばかり外側に立って、視線を地面に落としながら部長の話を聞いていた。
「心配しないでいい。高松くんの参加しなかった初戦の演奏も、その質や量に問題はなかっただろう。今回も同じ。少しばかり余力を欠くだけだ」
太鼓判を押すように京士郎が言い聞かせた。
「和大三高の吹部はかなりの大編成だそうだけども、弦国の応援団も大人数だからな。怯む必要はない。我々は我々にできるだけの演奏をしよう」
「はい!」
勢揃いした部員たちの返答が、あたりの客席の壁に反響して炸裂した。
固めた拳を左胸に当て、早くなる一方の鼓動を感じながら、いつものように里緒は深呼吸をした。供給された酸素を費やし、明晰さを取り戻した頭が、自分のすべきことを声高にささやいた。
紅良は今回も差し入れを届けてくれている。隣には花音もいる。──大丈夫。
(私はやれる。みんながいてくれる限り)
決意を込めて、青色の仮面を装着した。
階段を上って応援団席の配置に就くと、対岸に整列した大和国際大学第三高校の吹奏楽部がすでに音合わせを始めていた。殴りかかってくる大音声に耐え、深呼吸をして、怯む足を奮い立たせた。
試合は一回表から緊迫した空気に包まれた。投手の徳山とキャッチャー・行田のコンビネーションの冴えは、それまでにもましてキレを増していた。しかし、その巧みな投球を前にしても和大三高の選手が怖じ気づくことはなかった。第二打席、第三打席とヒットが打たれ、続く第四打席の選手には送りバントを繰り出された。二塁と三塁が埋まり、追い詰められた徳山は焦りのためか緩慢な球を放ってしまった。センターの首尾についていた西尾曾太郎が辛うじて打球を受け止め、大失点は回避されたものの、和大三高がこれまでのような一筋縄ではいかない相手であることを、客席の弦国応援団は痛感させられた。
──『一回裏、弦巻国分寺高校の攻撃は、一番。セカンド、多治見くん……』
攻守交代のアナウンスが流れ、京士郎が指揮棒を振りかざした。曲名ボードを掲げる久美子や莉華の眼差しは真剣そのものである。トランペットが火を吹き、トロンボーンの怒号が弾け、打楽器の二人の打ち鳴らすペットボトルに応援団のツインメガホンが共鳴した。移りゆく視界の彼方を、味方の声援を受けながら多治見が歩いてゆく。天に翳したバットの塗装がきらめいて燃えた。
乱れ飛ぶ爆音に身を委ね、快晴の日差しを全身に浴びながら、里緒は目を見開いてクラリネットにかじりついた。いつもと同じ質の音を、いつもの二倍の音量で出す──。息継ぎのたびに熱気が肺へ入り込み、くゆる土の臭いが喉を抜けて身体の内側に染み付いた。隣の花音の吹き出す音がやけに大きく聞こえて、負けないように腹筋に力を込めた。
あっという間に一回裏は終わった。エースの宇都宮が辛うじて二塁打を決めたものの、得点はなし。
リードにかぶせていた上唇を剥がすと、たちどころに喉の痛みが這い上がってきて、里緒は「げほげほっ」と盛大に噎せた。花音が背中を擦ってくれたが、なかなか症状は鎮まらない。見かねたように美琴が紙コップを持ってきた。
「水、あるから」
その右手に巻き付けられた肌色のテープを見て、里緒は冷たい水もろとも息を喉に押し込んだ。
噎せたくらいでめげるわけにはいかない。
(茨木先輩のためにも、野球部のためにも)
彼らの敗退はすなわち、管弦楽部が演奏の機会を失うことを意味する。そうなれば美琴のリベンジの機会もなくなる。どんなやり方に手を染めようとも、野球部には勝ってもらわねばならないのだ。
甲高い金属音が炸裂した。泡を食って空を見上げると、和大三高の打ち上げたファウルボールが視界の上端をかすめたところだった。ほっと胸を撫で下ろして、クラリネットにタオルがかかっているのを確かめた。
二回表、得点なし。
二回裏、弦国が一点追加。
三回表、和大三高が二点追加。
三回裏、得点なし。
四回表、得点なし。
四回裏、弦国が一点追加。
一進一退のまま試合は続いた。弦国の攻撃開始と同時に楽器を手に取り、渾身の力で息吹を込めた。回を重ねるごとに周囲の音量が大きくなってゆく感覚に囚われて、必死の思いで胸いっぱいに息を吸い、吹いた。無茶な使われ方をした肺胞が不穏な痛みを発したが、逐一そんなものを気にしてはいられなかった。
含んだ飲み物は片っ端から口腔にへばりついた。
肌の焼ける臭いが鼻腔にこびりついた。
身体の内側から、外側から、強い熱が燃え上がって里緒の体力ゲージを焼き尽くし、じりじりと押し下げてゆく。
──『三番。ファースト、宇都宮くん。ファースト、宇都宮くん。背番号……』
響き渡るアナウンスの声が遠くなった。今は何回の裏だろう。いや、それとも表か。頭が朦朧として思考が進まない。
曲名ボードの文字が思うように読み取れない。【あすという日が】とでも書いてあるのか。深呼吸をしようにも、熱せられた空気に溺れるばかりで上手くいかない。霞んだ目を力任せに拭ったが、視界はちっとも改善されなかった。無我夢中でアンブシュアを整え、クラリネットをくわえ、指揮棒の放つ閃光を睨んで、管体に這わせた指を動かして、息を──。
(あれ)
里緒はつぶやいた。
不意に頭の中が真っ白に塗りたくられた。回路の導線が残らず引き抜かれ、いっさいの思考ができなくなった。
つんと目の奥が痛み、四肢の感覚が朧になった。クラリネットの感触が溶けて消え、里緒はたちまち、たったひとりで白亜の空間に立ち尽くしているような錯覚に襲われた。
バランスを失った平衡感が静かに砕け散った。もう、立っているのか座っているのかも分からなくなり、見開いた目から入ってきたはずの光景は網膜に映らなくなった。正常に機能していたのは耳くらいのもので、その耳からは異常を報せる声や音が次々に脳内へ殴り込んできた。何かの崩れ落ちる重たい音。割れるような金属質の衝突音。聞き覚えのある誰かの声が何かを叫び、喚き、遅れてやってきた痛覚が地響きのように里緒の精神世界を揺るがした。
(私、)
里緒は問うた。
(どうなって──)
周波数の高い音が強烈に響き渡った。それが耳鳴りであることに気づいた時には、里緒の意識は支えを失った斜塔のごとく倒壊し、白亜の世界から漆黒の闇の中へと沈んでいった。
「私のせいで無茶させちゃったんだね。ごめん、高松。……ごめん」
▶▶▶次回 『C.143 点滴と涙滴』