C.141 非常事態
七月二十四日、第五試合。弦国の前に立ちはだかった対戦相手は、あきる野市の菅生大学秋川高校だった。例年のように西東京大会の上位に食い込むことで有名な野球の強豪校である。いよいよ準々決勝を迎え、弦国の周りに残っているのは本格的に野球の強い学校ばかりになってきた。
しかし弦国の二大エース、宇都宮と行田の存在は相変わらず強大だった。三回裏、バントとフォアボールで出塁した二人の選手を見送った宇都宮が、自らも切れのよいヒットを左中間に放って一塁へ。満塁を迎えた第四打席で、四番の行田が豪快に球を打ちかました。打球は悠々とサード頭上を越えてファウルポール手前に落下、その間に宇都宮を含む三人がホームインして、弦国は一気に三点を挙げ優位に立った。さらに四点を取られて逆転された後半の七回裏、九番ショートの余呉晴臣がデッドボールを見舞われて一塁に出ると、すかさず続いた宇都宮がランニングホームランを放ち、二点を返して再度逆転。投手徳山の活躍で菅生大秋川にさらなる点を与えず、試合は五対四で決着した。
第五試合を突破すれば、その先には準決勝となる第六試合が待ち受けている。
対戦相手は町田市の大和国際大学第三高校と判明した。愛称は“和大三高”。弦国と並んで全国大会への豊富な進出経験を持つ、名実ともに多摩トップクラスの野球強豪校である。
翌日の音楽室には湿度の高い空気が立ち込めていた。午後一時の集合時間がやって来ても、部員たちはそれぞれの椅子に深々と腰かけたまま、ぐったりと会話や自主練に取り組んでいた。
「はいはい、もっとしゃきっとしなさい。もう部活始めるよ」
はじめが手を叩いて急かしたが、まともに元気な返事を返したのは花音や元晴のような一部の例外だけだった。その花音にしても、普段と比べれば声に張りがなく、目に見えない疲労の重たさが里緒にもつくづく実感させられた。
第五試合はそれほど苛酷だったのである。
「あの、茨木せんぱいがまだ来てません」
花音が手を挙げて進言した。見ると、普段ならばとうの昔に腰かけて、無言で部長や菊乃の言葉に耳を傾けているはずの美琴の姿が、今日はいまだに見当たらない。
ほんとだ、などと二年生たちがざわついている。はじめの眉が曇った。
「変だね。あの子、いつも誰よりも早く音楽室に来てるはずなんだけどな」
音楽室の鍵の貸出記録を見ると、いつも美琴が最速で借りに来ているのだという。「連絡は来てるんですか」と恵が尋ねたが、はじめはスマホに目を落とし、首を横に振った。
妙ではあるものの、数分の遅刻であれば練習に差し障りはない。問題視しないことにしたのか、はじめと洸は練習の進行の説明を始めた。膝に置いたケースの表面を撫でて、凹凸の触感を愛でながら話に耳を傾けていたら、花音が里緒の方に椅子を寄せてきた。
「ねね、里緒ちゃん……。昨日の第五試合、茨木せんぱいの様子ちょっと変じゃなかった?」
「変?」
思い当たる節がなくて里緒は問い返した。試合中の美琴の様子なんて覚えていない。きちんと合奏に加われるようにはなったものの、周囲の様子を観察して気に留めるほどの余力があるわけではないのだ。花音も、美琴も、互いに競い合うように大きな音を発していた。思い出せることはそのくらいだった。
「なんか茨木せんぱい、手の動きが変だったっていうか……窮屈そうに見えたんだよね」
花音は声をひそめた。彼女にしては珍しく、ぴたりと几帳面に揃えられたふたつの膝に、花音の不安げな心のうちがどことなく表現されていた。
「運指で指でも痛めちゃったのかなぁ。音は普通にパーって出てたけど、ちょっと心配だよ」
「でも、クラの運指で指を痛めるなんて話、私はあんまり聞いたことないけどな……」
「そうなの?」
自信を欠きながらも里緒はうなずいた。クラリネットのキイは基本的に、可動が極めて滑らかになっている。よほど整備不良の楽器を使っているのでなければ、指を痛めるような負荷が奏者にかかることはない。仮に本当に痛める場合があるとしても、あの経験豊富な美琴に限って、指を痛めるような雑な演奏をするはずはない。
「だけど痛そうだったのは事実だしなー……」
花音が哀しげにつぶやいたそのとき、はじめが紙から顔を上げて「そこの二人!」と声を張った。里緒と花音は飛び跳ねるように姿勢を改めた。声をひそめていたつもりが、声量が上がって周囲に会話が漏れ始めていたらしい。
「いま私たちが話を──」
厳しい声で始まったはじめの説教は、いきなりそこで尻切れとんぼになった。
音楽室の扉の開く音がそこへ重なった。振り返ると、控えめに開いた白いドアの向こうに、カバンを提げた美琴がうつむきがちに立っていた。
「あ!」
「美琴が来た!」
菊乃たち二年女子が嬉しそうに声を上げた。が、美琴は無感情のまま、いっこうに顔を上げようとしない。
よく見ると、その手にはいつものクラリネットのケースが握られていない。利き手のはずの右手は、身体の後ろに器用に隠されている。
にわかに里緒の胸は不穏なざわめきに満ちた。
「どうしたの茨木さん、珍しいね」
洸が尋ねた。ようやく顔を上げて部員たちを眺め回した美琴は、不自然な作り笑いを浮かべながら、隠していた右手をゆっくりと掲げた。
「すみません。病院、ちょっと長くかかって」
その手首には見覚えのないテーピングが施されていた。肌の色と同じ色をした、幅の太い粘着質のテープ。整骨院や接骨院で処方されるものである。
真っ先に呻いたのは打楽器の徳利だった。
「おい、それ、もしかして腱鞘炎じゃ……」
作り笑いを拭い消した美琴がうなずいた。静かな動揺が波を成し、部員たちの間を伝わってゆく。その意味を花音が理解していたかは定かではないが、いち早く事の重大さに気づいた里緒は瞬く間に青ざめた。
骨と筋肉を連結する組織を“腱”といい、複数の腱を収納する鞘の役割を果たす組織を“腱鞘”という。身体の特定の部位を激しく、かつ反復継続的に動かしていると、この腱と腱鞘が摩擦を起こして損傷し、炎症を起こしてしまうことがある。それが、“腱鞘炎”と呼ばれる症状である。特に打楽器奏者に現れやすいものとして、吹奏楽や管弦楽に取り組む者の間では有名な症状なのだ。
「しばらくは手首を動かすなと言われました」
美琴は力なく釈明した。
「すみません部長。私、しばらくクラリネットは吹けません」
「そんな……!」
菊乃が泣きそうな顔で立ち上がった。前へ出てきたはじめが、滝川、と声をかけて彼女をなだめた。
「原因は何だって言われたの」
「クラじゃないです。……ピアノです」
「……そう」
はじめの声にも力はなかったが、彼女は美琴の答えを初めから何となく予想していたようだった。ピアノは打楽器やギター同様、最も奏者の指や手首を酷使する楽器のひとつである。
しかし応援演奏でピアノなんて用いていないはずではないか──。
そこまで思ってから里緒は息を飲んだ。違う、応援演奏ではない。里緒がそうしていたように、美琴もこっそり〈クラリネット協奏曲〉の独奏パートを練習していたのだ。誰よりも早い時間に音楽室に駆けつけ、遅くまで居残り練習に励んでいた美琴なら、それは十分に可能だったはずである。
「まーその、あれだな……。痛めちゃったのは仕方ないと思うけど」
腕を組んだ洸が苦々しい声で言った。
「それ、コンクール練か何かで痛めたってことだよね。時期が時期だし、ピアノはもうちょっと控え目にしておいてほしいところではあったかな……」
「すみません」
美琴は深々と頭を下げた。見ていられなくなって、里緒は無我夢中で目を伏せた。正体の分からないガスで胸の中が満たされ、今にもはちきれて壊れそうだった。
いつの間にか音楽室からは、漫然と漂っていた疲労の臭いが跡形もなく消え失せていた。しんと不吉に静まり返った部員たちの中を美琴が歩いて、自分の席につくのを、里緒は伏せたままの目で見つめ続けた。この重たい沈黙こそが、美琴の謝罪に対する部員一同の返答なのだとしか思えなかった。
「……よし。じゃ、各セクションに別れてパート練ね。滝川と下関はちょっと私のところに来て」
はじめの号令で楽譜管理係の二人が呼ばれてゆく。残りの部員たちはいっせいに立ち上がって、それぞれの教室に向かい始める。よろめくようにして起立した里緒の向こうで、青くなった花音が美琴に声をかけた。
「せんぱい、それ、もしかして昨日から……」
「なんだ、バレてたのか。……うん、昨日の時点でもう、痛めてた」
苦笑した美琴は肩をすくめた。強気とは言わないまでも、確かな芯のある言動で周囲に力強い影響をもたらしていた先輩の存在感は、もはやそこには影も形も見当たらない。
なんと声をかけてよいのか分からず、ケースを握りしめたまま立ち尽くした里緒のもとへ、美琴は苦笑を拭いながら歩いてきた。
「高松」
「……はい」
「ごめん」
里緒は息を詰まらせた。
「腱鞘炎が治るまでの間、私の分までしっかりクラ、吹いてほしい。……お願い」
美琴は睫毛の向こうに瞳を伏せ、淡々と言葉を重ねた。感情的ではなかったが、その姿勢はあまりにも真摯で、あまりにも弱々しくて、あまりにも深い悔恨に満ちていた。言葉にならない感情が込み上げ、里緒の喉を瞬時に詰まらせる。ホースを押しつぶしたような声で「はい」と答えるのが、里緒にはやっとだった。
「私、どうなって──」
▶▶▶次回 『C.142 第六試合』