C.140 寒くて、温かな
七月二十三日、第四試合。東村山市の都立久米川工業高校と対戦した弦国野球部は、五対三のスコアで試合を制した。
先発投手の徳山の調子が悪く、序盤の二回表までに三点を奪われたが、三回裏、満塁の状況でエース宇都宮がタイムリースリーベースヒットを放ち、一気に同点に並んだ。双方ともに白熱した応援のなか、互いに点の入らない展開が続き、ついに八回裏で弦国が二点を叩き込んで勝敗を決した。
相変わらず、スタンドには宇都宮や“仮面応援団”目当てのテレビカメラや記者が殺到していたが、さすがに四試合も同じ状況が続くと慣れが生まれるもので、カメラに睨まれた里緒も肩を縮こまらせることがなくなってきた。
(変に緊張しちゃうと、かえって目立つことになるよね)
そう考えて、スタンドに上がるときには深呼吸をする習慣を作った。おかげで指示を受けた曲の譜面がとっさに思い出せなくなっても、ファウルボールがスタンドめがけて飛んできても、深呼吸をすれば落ち着きを取り戻せるようになった。
──『強くなったね』
差し入れに来てくれた紅良にそのことを話すと、彼女はピンク色のドミノマスクをちょっぴりずらして笑った。強くなれたという事実もさることながら、紅良の口にした褒め言葉を素直に心のなかへ取り込めたことの方がもっと嬉しくて、つい、里緒も笑った。骨身に染みる夏の暑さや汗よりも、血の煮えたぎったような胸の温かさの方が苦しくて、どことなく爽快だった。
精神的にも高揚しきっているせいか、球場のスタンドに立っていると疲労を自覚しがたい。だが、炎天下で力いっぱい楽器に息を吹き込んでいれば、嫌でも大小のダメージが身体に生じる。
特に、人と比べて基礎体力の劣る里緒のことである。蓄積したダメージは嫌でも増幅され、球場を離れて一息をつくとたちまち顕在化する。今日は家へ帰りついた途端、居間のカーペットの上へ力なく倒れ込んでしまった。意識はあっても起き上がる気力が出ず、ぐったりと身を横たえながらテレビに目をやっていたら、遅れて帰宅した大祐に体調不良を疑われた。
「無理はしてないんだろうな、里緒」
「うん。してない」
慌てて顔に笑顔を刻み、立ち上がって夕食の準備に取りかかった。ひとりぼっちでなくなった途端に、どこからか立ち上がるエネルギーが湧いてくる。つくづく、不思議で便利な身体をしているものだと思う。
ひとりぼっちで囲む食卓は嫌いだ。瑠璃も大祐もいない日々を過ごしたこの一年、孤独が募るのに従って食欲もずいぶん減衰していた。けれども青柳家に保護され、こうして大祐も帰ってくるようになり、里緒の食卓はふたたび賑わいを取り戻した。おかげで今は食事が嫌いではなくなったし、食べる量も徐々に増えつつある。このまま食事量を増やしてゆけば、いつか体力も増えていってくれるだろうか。そうであってくれることを願いつつ、意識的に魚や肉を口へ運ぶようにした。
「今夜も練習するのか」
食卓の向こうから大祐が尋ねてきた。
不安げな声だった。里緒の体力を慮ってくれているのか、それともまだ、里緒がクラリネットを吹くのを快く思ってくれていないのか。どちらともつかないその言葉に、里緒はただ「習慣だから」と答えることしかできなかった。
そのまま食卓を片付けて、クラリネットのケースを取り上げた。大祐は引き留めようとしなかったが、背中に受けた視線の温度はやけに低くて、身を屈めるようにして里緒は外へ出た。
三日月の明るい夜だった。むっと強い草いきれの臭いに鼻をくすぐられ、むず痒い思いに苛まれながら、里緒は土手を下りてゆくコンクリートの階段の上端に腰かけた。いつものようにクラリネットを組み立て、調律を済ませてからロングトーンを何度か挟み、曲の練習に入る。楽器はA管、曲目は〈クラリネット協奏曲〉である。
(こことここの指摘はクリアできるようになってきたんだよね)
二枚の付箋にシャーペンを押し当てて、“克服”のチェックマークを書き付けた。むろん、たかだか二つ減ったくらいで指摘がなくなるわけではなく、譜面には新たな一枚を貼り付ける隙間もないほどの数の付箋が、新宿のビル群を彷彿とさせる勢いで並んでいる。
〈クラリネット協奏曲〉の独奏パート譜は一枚半しかない。そのたったの一枚半に、これだけの量の指摘がてんこ盛りになっていると思うと、心が暗澹として重たくなる。負けない意識でクラリネットを握り、構え、吹いた。風に乗った木管の音色は多摩川の上を吹き渡り、対岸の高層マンションでわずかに反射して戻ってきた。
里緒はしばらくそのまま、他のすべてを意識から捨て去って練習に没頭した。やがて身体の節々に乳酸の痛みが走り、強張った足や腕が限界を訴え始めたが、聞く耳を持たないふりをしてクラリネットに唇を宛がった。今、ここで中途半端に練習を投げ出せば、きっとあとになって後悔する。そんな根拠のない不安が胸を脅かしていたからでもあった。
鈍重な身体を振り絞って息を流し、口の放つ音の余韻に耳を澄ませていれば、時間の感覚は次第に失われる。ふと我に返ると、時計が午後八時を示していた。
「一時間か……」
唇を解き放って、つぶやいた。夕飯を食べ終えたのは午後七時だったように記憶していた。
時間を気にかけた途端、なんだか一気に身体から力が抜けた。ネックストラップを外したクラリネットを胸の前に抱え込み、里緒は体育座りの姿勢を作った。大の字になって寝転びたい気分だったが、そんなことをしたら二度と起き上がれなくなる予感がした。
耳にこびりついたクラリネットの主旋律が、わんわんと反響しながら虚空に溶けてゆく。
嘆息して、クラリネットを撫でた。ひんやりと心地のよい木の質感に、里緒は快感めいた何かが皮膚の内側で蠢くのを覚えた。
(私の音色も、このくらい誰かに“気持ちいい”って感じてもらえたらいいのに)
もういっぺん嘆息して、息の塊が階段を落ちてゆくのを眺めた。草木の揺れる音、川の戯れる音、高架線路を渡ってゆくモノレールの音。流れゆく無数の雑音が、くたびれた耳に優しい。
合宿三日目の夜に覚醒して以来、里緒はこうしてふたたびクラリネットを吹けるようになった。だが、吹けていた頃の課題は依然として積み残したままだ。今も集団での演奏となると慌ててしまうし、指揮者よりも手元の指使いに意識が向いてしまう。〈クラリネット協奏曲〉に関しても以前、『演奏に一貫性がない』と美琴に厳しく指摘されたことがあった。あれから一ヶ月が経過した今も、まだ里緒は演奏の方向性を決めきれていない。
今の里緒はただ、ふたたび立ち上がることに成功しただけ。スタートラインの上でもたついていることに変わりはないのだ。
(頑張らなくちゃいけないのは分かってるけど、頑張る項目が多すぎるよ)
里緒はうなだれて、川面の光に目をやった。
本当は、がむしゃらに手をつけるのではなくて、きちんと段取りを考えて取り組まなければいけないのだろう。けれどもそれは口で言うほど簡単なことではない。また一つ、情けない自分が浮き彫りになって、声にならない声が身体の節を染み出した。
(疲れたな……)
刹那、吹き寄せた風が制服の汗を撫でた。寒気に神経をやられ、思わず身をよじるようにして里緒は耐えた。
「そりゃ、寒いに決まってる」
男の人の声がかかった。飛び上がらんばかりに驚いて振り返った里緒は、そこに大祐が立っているのを目にして「お父さん」と声を絞り出した。
「なんでここ、分かったの」
「分からないわけないだろう、あれだけ音を発してたんだから。上着、持ってきたぞ」
つっけんどんな口ぶりで里緒の背後に立った大祐は、腕を広げて、そっと肩に長袖の服をかぶせてくれた。何かと思えば、冬用の制服の上着である。
帰宅したきり倒れ込んで、風呂にも入らず着替えもしなかったのが思い出された。汗の冷たさが染みるはずである。里緒は上着の裾を掴んで、「ありがとう」と小声で言った。たちまち吹き抜けた東向きの川風が、分厚い上着にぶつかって逸れていった。
「ここは静かでいいな」
独り言ちた大祐は里緒の隣に来て、川を眺めた。
「自分で見つけたのか、ここ」
「ううん」
里緒は首を振った。自力で探したのではなくて、瑠璃が教えてくれたのだ。四月のある日の夕方、彼女の奏でる〈アメイジング・グレイス〉の音色に乗せて。
だが、それを素直に説明したところで、大祐の理解を得られるようにも思えなかった。
「じゃ、友達か。いい友達を持ったんだな」
大祐の声が丸くなった。
いい友達を持ったというのは事実だったし、その意味で大祐の勘違いは都合がいい。それでも何となく、騙したような後ろめたさが高まって、里緒はますます強く上着の裾を握った。
「……お父さん」
声を投げかけると、大祐はすぐに応じた。
「どうした」
「ずっと聞きたかったんだけど……。その、私がクラリネット吹いてること、どう……思ってるのかなって」
怖くなって声が尻すぼみに縮んだが、やっとの思いで里緒は溜め込んできた疑問を吐き出した。尋ねるべき時があるとしたら今しかないと思った。
大祐はすぐには里緒の問いに答えず、しばらく口を結んだまま、町明かりのきらめく多摩川をじっと見つめていた。受け止める側にも相応の咀嚼時間が必要だったのだろうと里緒は考えた。
「里緒」
「うん」
「音色、変わっただろ」
「……分かるの」
「分かるさ、これでも吹部経験者だからな。むかし家の中で吹いていた頃のトーンよりも明るくなってきたんじゃないか」
「うん。部活の人たちもそう言ってくれる」
「父さんは今の里緒の音の方が好きだな」
里緒は思わず大祐の顔を振り仰いだ。長身の身体を器用に折り畳み、里緒の隣に腰かけた大祐は、いっときのためらいを挟んで静かに言葉を繋いだ。
「無理を言うつもりはない。機会があったらでいいんだ。今度、ゆっくり聴かせてくれないか」
それが大祐の下した結論だったようだ。気恥ずかしかったのか気に入らなかったのか、大祐はとうとう一度も里緒のことを視野に入れてくれず、里緒も黙って大祐から視線を外した。それから、抱え込んでいた長いクラリネットを拾い上げて、視界にかざした。
キイは暗闇の中でも金色に輝いていた。五年前から変わらぬ管の重さと、長さと、染み込んだ汗や涙を握りしめて、ようやく里緒は「うん」と言葉を返した。四肢にまで行き渡った安寧で、握る手はわずかに震えていた。
「機会、作る。約束する」
大祐の口角が、そっと丸まった。
「すみません部長。私、しばらくクラリネットは吹けません」
▶▶▶次回 『C.141 非常事態』