C.139 秘めた誓い
無人の音楽室でピアノを弾いていると、手元ではじける音楽に世界中のすべてが包まれているように錯覚して、胸の鼓動が少しばかり早くなる。もしも、この世界に映画やドラマのような劇半が流れていたなら、きっとそこかしこで感情を揺さぶられて大層生きにくいだろうと美琴は思う。
それは、夏休みに入ってから早朝に練習するようになって、初めて気づいたことだった。学期中は朝も夜も窓の外から他所の部活の張り上げる声が響いていたし、廊下には生徒の喧騒や足音が満ちていた。完全な静寂のなかで楽器を奏でられる環境というのは、案外、簡単には用意できないのだ。
不意に耳が誰かの足音を捉えて、美琴はピアノの鍵盤から指を離した。
間髪を入れず、背後でドアの開く音が轟いた。足音の主は菊乃であった。
「早いねぇ。まだ八時じゃん」
目を丸くした菊乃が、カバンを抱えながらピアノの傍らにやってきた。「まぁね」と適当な文句を返して、わずかに違和感の余韻を引いた手首をそっと振り、ピアノに目を戻した。
並べた譜面は〈クラリネット協奏曲〉のものだった。剥がれかけの付箋を見つけて親指で強く押し付けると、それを菊乃が興味深げに覗き込んできた。
「今日、何時からどこだっけ」
鍵盤に指を乗せて美琴は尋ねた。スマホに指を走らせた菊乃が、試合情報のページを開いた。
「昭島市民球場で十二時半から。対戦相手は都立久米川工業だって」
今日は七月二十三日。先日の熱戦で都立立国を破った弦国野球部は、いよいよ第四試合に歩を進めていた。このまま行けば第五試合が準々決勝、第六試合が準決勝となり、決勝の第七試合を勝ち抜けば全国大会への道が拓ける。
「青梅線直通に乗れば一本か。だから集合時間、遅かったんだ」
「十時半に音楽室に集合ってなってたもんね」
「……あと二時間半はやれるな」
時計を見上げて、つぶやいた。近くの椅子を引きずってきて腰かけた菊乃が「そうだね」と口角を上げて、フルートの管体を取り出した。
集合時間の三時間も前からピアノを弾いていたと聞けば、大概の人は美琴を奇異の目で見る。熱心だとか、無理をしすぎるなとか、そんな差し障りのない言葉で美琴を評する。しかし菊乃はそういうことはしない。黙って隣に腰かけ、ピアノに打ち込む美琴の背中を認めてくれる。
譜面を見つめて鍵盤を叩くと、音楽室にはふたたびピアノの音が弾けてあふれ出した。その脳裏に、里緒や自分自身の奏でたクラリネットの独奏パートの音を浮かべれば、それらは耳元で脈を打つピアノの旋律と重なり合って溶け、混ざり、ひとつの一体的な音楽を作り出す。そこには弦楽の優しく波打つ調べも、ファゴットやホルンの紡ぎ出す安定的な低音の支えもないが、曲として成立させられる必要最低限の構成要素は揃っている。低音から高音までの広い範囲の音を自在に繰り出し、あらゆる旋律に対応できる。その万能性が、“小さなオーケストラ”とも称される打弦楽器・ピアノの真価だ。
フルートの調律を済ませた菊乃が、途中から演奏に加わった。時にはピアノに上半身をのめり込ませ、時には一気に身を引いて、ペダルを何度も細かく踏み込みながら演奏を続けた。フルートの甲高く円やかな鳴き声が彩りを乗せて、八分の通し演奏はあっという間に終止線にたどり着いた。
「あー、やっぱ応援演奏とはぜんぜん違うなぁ」
白銀の管から唇を離した菊乃が訴えた。
「要求されてる音が違いすぎるよ。久しぶりにこっち吹くと、なかなか感覚が思い出せない」
応援演奏では音量と音程、それに拍子の完成度が優先して追求される。美琴の場合、応援演奏はクラリネット、コンクール曲はピアノといった具合に楽器を使い分けられるので、菊乃の感じている悩みとはまったくの無縁だった。
「コンクール練は当分お預けだからね。こうやって自分でちゃんと、やっとかないと」
美琴は鍵盤に視線を落とした。
意味もなく指でいじくっていた鍵盤が、ぽーん、と間延びした音を跳ね上げた。響きの伸びは悪くなかった。こうやって一音、一音、素敵な音だけを拾い上げて、パッチワークの要領でひとつの音楽に仕上げられたらいいのにと思う。
「まーね。今は応援演奏が優先されるってのは分かってるし、異論を並べ立てるつもりはないよ」
ため息を机の上にばら蒔いた菊乃が、「でもさー」と自信なさげの声色を吐いた。
「あんまりコンクール練を疎かにしてるわけにもいかないし、だけど試合終わりはクタクタで練習にならないし。時間のやりくりが地味にムズい」
「今日の私みたいに朝早くからやったらいい」
「それはそうなんだけどねー……」
その返答からして、菊乃は別に具体的な解決策を求めているわけではないようだった。
“感覚が思い出せない”と本人は言ってのけるが、今しがた二人で合わせてみたのを聴いていた限り、菊乃の吹くフルートの演奏の質はそこまで落ちていなかった。ただ漫然と聴いているだけならともかく、演奏している側に立ってみるとわずかなミスも格段に気づきやすい。それでもなお、そう思う。
(なんだかんだ言いながら、どっかでちゃんと練習の時間は確保してるんだろうしな)
フルートの面に自分の顔を映している学年代表の姿を横目に眺めて、美琴は嘆息した。
美琴だってコンクール向けの練習をしているのを誰かに殊更アピールしたことはない。菊乃にしても、ふたたび独奏の座についた里緒にしても、きっと見えないところで努力を重ねている。だから美琴も負けてはいられないのである。
「美琴さ」
飽きたようにフルートを放り出した菊乃が、身も投げ出して机にもたれかかった。
「最近、すごいよね。試合なくて部活だけの日も、いっつも夜中まで残ってやってるじゃん」
「……うん」
「美琴が努力家だってのは元から知ってるけどさ、あの合宿の三日目くらいから急に変わったなーって気がする。……ぶっちゃけさ、あの時、クラちょっとスランプ気味だったでしょ」
美琴は背筋に嫌な温度の血が巡るのを覚えた。「図星だなー」と菊乃が嬉しそうに指摘してきた。
「ね、そろそろ教えてくれてもいいんじゃないの。三日目の夕方、何があったの? あれを境にスランプも脱したっぽかったし、練習してるときの目付きも変わったし……」
「何もなかった」
きっぱり断じて、背筋を伸ばした。
むろん、何もなかったわけではない。しかし菊乃や他の部員たちに話せるようなことは何もなかった。だから嘘をついたわけではないのである。
落胆した顔の菊乃が美琴を睨む。固い心の殻の内側を少しだけ削って、美琴は言い添えた。
「高松の隣で恥ずかしい音は出したくないって、あの日、誓った。それだけ」
きょとんと目をしばたかせた菊乃は、「誓った?」と尋ね返してきた。それ以上のヒントを与える気にはなれなくて、美琴は頑なに沈黙を保った。菊乃もしばらく黙りこくっていた。
やがて、隣席に放ったままのフルートを取り上げ、彼女は小さく微笑んだ。
「そっか。……だからあの夜、高松ちゃんは音を取り戻したのかな」
菊乃がいったいどのような順序で情報を組み立ててその結論に帰着したのか、美琴にはさっぱり分からなかった。
応答の言葉を考えるのをやめて、ピアノの鍵盤に指を並べた。今はとにかく最善を尽くして、堂々たる顔で里緒の隣に座っていられる未来を描くのだ。「いいよ」と菊乃が応じたのを待って、力を込めた指を鍵盤に当て、ゆっくりと押し込んだ。
「父さんは今の里緒の音の方が好きだな」
▶▶▶次回 『C.140 寒くて、温かな』