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クラリオンの息吹  作者: 蒼原悠
第一楽章 春への憧れ、明日への焦がれ
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C.014 天才の衝撃

 




 たまたま通りかかった一年生の教室の前で、はたと美琴は立ち止まっていた。


(……クラだ)


 教室の扉を見つめて、息を飲んだ。教室の中からは耳馴染みの木管の(うたい)が響いていた。クラリネットだった。それも、イ長調で演奏されているところを見るとA管らしい。

 B♭(ベー)管ならともかく、(アー)管を私物として持っている子がいるのか──。

 中を覗きたい欲と、『やめておけ』と自重を叫ぶ理性の狭間で揺れながら、美琴はしっかり耳を(そばだ)てておくのを忘れなかった。美琴だって管弦楽部ではクラリネットを吹いている。奏者の顔は見ていないが、まだ見ぬ一年生の腕前がどんなものか、知っておいても損はないと思ったのだ。

 扉の外の鑑賞者の存在を知らないまま、演奏はサビのメロディを越えて二番のAパートに入る。メジャーコードの紡ぐ滑らかな旋律に、廊下を舞う灰色のほこりさえもが穏やかな熱気を帯びて、膨らむ。

 誰の声も邪魔をしない。

 雑談も雑踏も鳴りをひそめた教室の前はひどく静かで、その中をクラリネットの歌声が、確かなうねりを持ちながら貫いている。そのあまりの静謐さに、つばを飲み込むことさえ躊躇(ためら)われた。

 気付けば、美琴は廊下から生えた植物のように直立不動のまま、〈めだかの学校〉のメロディに聞き入っていた。


(違う)


 ようやく気付いた。この音楽に足を止めてしまったのは、それがクラリネットの音色だったからだけではない。A管だったから惹かれたのでもない。そのことに、気付いたのだ。

 演奏が上手いのである。お世辞にも力強いとは言えない、芯を失って漂う木の葉のような不安定な音色。自らの発する音の特徴をわきまえた上で、それを実に上手く抑揚作りに活かしている。クラリネットでなく人間の声だと明かされたとしてても、大袈裟な違和感を感じなくて済むくらいに。


(こんな悲しい歌のはずじゃないけど……)


 壁に寄りかかって、天井を振りあおいだ。


(でも、それはそれで筋の通った曲に聴こえるのはどうして?)


 分からない。美琴にできることと言えば、“この奏者()はもしかしなくとも相当の上級者かもしれない”という、直感的な推測くらいのものだった。

 昨日の練習ではクラリネットの経験者が見学に来ていた。高松と言っただろうか。あの自信なさげで主張も弱そうだった少女が扉の向こうの奏者であるとは考えにくかったが、とにかく一年生の中に相当の猛者(もさ)がいるのは間違いない。もしも、この少女が管弦楽部に興味を示していたら──。身震いがしそうになって、慌てて美琴は教室の扉から目を背けた。




 “私より遥かに上手い”。

 ──ほんの一瞬、身体を突き抜けていった冷たい劣等感が、身震いの理由のすべてだった。





 ◆





 美琴の予感は的中してしまった。

 放課後、自前のクラリネットを抱えておずおずと音楽室を訪れた里緒こそが、まさに美琴の耳にした天才的なクラリネットの音色の持ち主だったのである。

 つい数日前まで中学生だったような子がA管クラリネットを個人所有しているというだけでも異例なうえに、メーカーもブランドも不明。しかも管長は普通のA管より十五センチほども長く、下管部には通常のクラリネットには見られない謎の低音用拡張キイが配置され、それらは余すところなく金メッキを施されて黄金の輝きを放っている。

 そこまででも話題性は十分だったというのに、ひとたびマウスピースを口に含んだ里緒は表現力も豊かで音程も正確無比。音量の面さえ除けば非の打ち所の見当たらないほどの、恐るべき完成度の吹奏を見せつけてしまったのだ。

 その価値を、同じ音楽を(たしな)む上級生部員たちが見逃すはずはなかった。


 ──『すごい! プロみたいだった!』

 ──『今までどんな練習してきたの!?』

 ──『プロにでも師事してた? お手本はどんな演奏!?』


 たちまち部員たちは寄ってたかって里緒を質問責めにし始めた。称賛されたことへの喜びよりも、里緒の顔には困惑の方が色濃くにじんでいた。私、普通に吹いてただけです──。その受け応えが余計に上級生たちの驚愕と好奇を煽り、ますます感嘆の嵐は強さを増してゆく有様だった。

 もはや定演の練習どころの空気ではなかった。離れて練習に励もうとしていた部員にしても気を取られているのは明白で、ティンパニのリズムはメトロノームからどんどん外れ、トロンボーンは完全に意識が上の空で無意味にチューニング音を垂れ流すばかり。音楽室、否──二十人の管弦楽部員たちは、今や完膚(かんぷ)なきまでに里緒の音色の(とりこ)に成り下がってしまっていた。




 群衆を離れてやって来た菊乃が、興奮を鼻息に乗せて放り出しながら美琴の隣に腰かけた。


「ほんっと、すごいのが来たね! 逸材だよ逸材!」


 賛同の意を示さんとばかりに、膝の上のフルートが蛍光灯の光を反射する。美琴は肩をすくめた。さすがにこの雰囲気の中でクラリネットを吹く気にはならず、美琴のそれは抱えた膝の隣で床に淡々と影を落としていた。


「もうぜったい入ってほしい! 何がなんでも逃したくない! 外部の楽団になんて行かせないんだから!」

「だからってしつこく勧誘しすぎでしょ……。引いてるよ、あの子」

「何言ってんの、当然の成り行きだよ! あんな技量を持ってる子、野放しにしておくなんてもったいないにも程があるでしょっ」


 菊乃の瞳はフルートの金属光沢にも負けない勢いで輝いていた。自分と菊乃の網膜では、そこに映る景色がまるで違っていることだろう。埋蔵金を発掘したかのような晴れやかな横顔から、美琴はそっと視線を反らした。

 菊乃は二年生部員のまとめ役、学年代表を務めている子だ。やがて最高学年になれば、彼女が部の頂点に立つ日がくることになる。自身が執行代になった時のためにも有能な奏者を確保しておきたいと菊乃が考えるのは、ごく当たり前のことである。

 だから、あらゆる意味で自分を上回る存在が唐突に現れてしまったことへの当惑など、しかもそれがあの弱そうな少女であったことへの困惑など、はなから彼女に理解されるはずはないのだった。期待する気も起こらなかった。


「なーに、さっきから黙っちゃって」


 里緒に群がる部員たちの背中にぼんやりと視線を投げていると、菊乃が脇をつついた。


「あ、もしかしてアレ? 高松ちゃんに()いてるの?」

「そんなわけないでしょ」


 とっさに言い返した言葉はひどく軽くて、菊乃の耳に届く前に床へ落ちて砕けてしまった。菊乃はやけにニヤニヤと笑っていた。


「またまたぁ、隠しちゃってー。あの子があんなに注目されてるのが(うらや)ましいんでしょ? 素直じゃないなぁ」

「だからそうじゃないって……」

「いいじゃん、去年は美琴だってあたしだって持て(はや)されたんだし! 経験者が入部するたびに大騒ぎするのなんて、うちのお家芸みたいなもんなんだからさー」


 徹頭徹尾、菊乃の口調は朗らかで、それがますます美琴のプライドにささくれを立てていく。ニヤニヤと染み出す笑いを見ていられなくて、美琴は抱えた膝に口元を埋めた。


(去年、か……)


 一年前は美琴も菊乃も新入生だった。二人とも中学では吹奏楽部にいた経験者で、入部すると言えば過剰にも思えるほどの歓待を受けたものだった。少しばかり吹いてみせるたびに『吹ける子だ!』と驚嘆された。周囲に強豪校が揃っているとこんなにも卑屈になるものかと、今、こうして新入生を迎える立場になりながら呆れる気持ちもある。

 けれど、そうではない。

 あの新入生に向かう複雑な感情の正体は、そんな些細で下らない代物ではないのだ。


「……忖度(そんたく)抜きの感想が聞きたいんだけど」


 思いきって菊乃を見上げた。


「菊乃は私の演奏とあの新入生の演奏、どっちが上手いと思った?」

「えー? そういうこと聞いちゃうー?」


 菊乃はわざとらしく(おど)けてみせた。膝の上のフルートを何気なく手のひらで転がしながら、睫毛(まつげ)の長い双眸(そうぼう)が無言で里緒を捉えて、それから美琴を捉えた。

 下された結論はシンプルだった。


「……同じくらい、かな」


 そんなことは思ってないくせに──。永遠に口にすることのできそうにない本音を、美琴は奥歯の隅に追いやって噛み砕いた。

 クラリネットはオーケストラで言うところのヴァイオリンのような存在だ。その豊かで広がりのある音色を評価され、主旋律(メロディ)から対旋律(オブリガート)、内声部に至るまで無数の演奏機会を(あて)がわれる。反面、音量が小さいゆえに数が必要な楽器でもあり、それらの演奏はぴったり整ったものでなければならない。その意味では吹奏楽でも管弦楽でも最も『調和』の必要な楽器のひとつになる。それは、言い換えれば調和を期待されているという意味でもあって、だからクラリネット奏者に関しては必ずしも個々特有の表現力は重視されない。周囲との美しい調和(ハーモニー)(かも)す協調性と、その下支えになる基礎的な演奏技能こそが、真に要求される能力なのだ。

 菊乃はそのあたりの事情をわきまえた上で評価を下している。だからこそ、胸が苦しくなった。表現力を含めた個人の技量で比べれば、里緒の方が美琴よりも明らかに上なのである。

 さも上級者のような顔をして振る舞っていた昨日の自分が懐かしい。無邪気な新入生たちの前で余裕の態度を作ることのできた自分が、その自分を支えていた確かな優越感が、今となってはすべて懐かしかった。

 あの日の自分には、もう、戻れない。


「ま、美琴は同じ楽器の奏者なんだし、いろいろと思うところはあるだろうけどさ。正直あんな即戦力が来てくれるなんて思わなかったよ。しかも、()()()()()()()()


 嘆息した美琴の横で、菊乃は微笑んだ。


「──あたしたちにとってこんなにラッキーなことってないと思わない?」


 唇の端まで染み渡っているのは、不気味に思えるほどの歓喜だったように思う。

 美琴は問いかけには黙ったまま、脇に転がる自分のクラリネットを眺めた。吹奏楽でも管弦楽でもごくありふれている、(グラナディラ)製のB♭(ベー)管クラリネット。


 教えてよ。あの子と私と、何がそんなに違う──?


 いくら眺めても(にら)み回しても、黒々と照るクラリネットの管体は美琴の顔を映し出してはくれなかった。








「あなたと同じ。高校に進学するタイミングで引っ越したの」


▶▶▶次回 『C.015 部活帰りの嘆息』

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