C.138 緊迫の取材
『仙台市立佐野中学校教諭の橿原』を名乗る人物から、日産新報社仙台支局に宛てて取材依頼の連絡が届いたのは、七月二十日のことだったという。
──『高松里緒さんが中三の時の担任だそうです。話したいことがあると手紙に書いて送ってきているんですが……』
仙台支局の幸手は電話口越しにそういって、紬へ同行の誘いをかけてきた。いつか本社の週刊誌編集部で“橿原秀樹”の名前を目にしたことがあったのを思い出して、紬は「行きます」と即答した。
仙台支局では地域面の取材しか受け付けていない。該当地域外の記者が地域面向けの取材に同行するというのはイレギュラー中のイレギュラーだが、例の事件に社内でもっとも詳しい紬を同行させるのが最善だと仙台支局は判断したようだ。背負う期待の重さが骨身に染みて、嫌でも肩が凝り固まった。
取材は二日後の昼と決まった。二十二日、拓斗をこども園に預けた紬は立川多摩支局には立ち寄らず、東北新幹線に飛び乗って仙台を目指した。
下腹に溜まる轟音と振動のなかで、二度目の仙台取材が有意義なものになることを強く祈った。そしてそれは必ずしも、紬や日産新報のためではなかったように思う。
佐野中の周囲は道が狭くて厄介だった。やや迷った末、約束の時刻ぎりぎりになって幸手の運転する社用車で校門前に乗り付けると、校舎の前には二人の男性が立っていた。ひとりは恰幅のいい背広の男、もう一方はジャージを着用した若々しい男。
「橿原さんはあのジャージの方でしょう。……嫌な予感がしますね」
ハンドルを切った幸手が目を細めた。
ともかく車を停めて、二人の前に出た。日産新報の記者であることを幸手が伝えると、ジャージの男よりも先に背広の男が「遅い」と唸った。不機嫌そうな彼の先導で、応接室に通された。
廊下を歩いていると、階段の上から管楽器の音が途切れ途切れに降ってきた。紬はジャージの男に声をかけた。
「吹奏楽部ですか、あれは」
「え、ええ……。そうだと思います」
彼の物腰は背広と違って柔らかかった。いや、弱々しいと表現すべきかもしれない。
時期が時期である。おそらく、八月頭の吹奏楽コンクール県大会に向けて練習の真っ盛りなのだろう。何度も繰り返し同じ部分を演奏しているのに気づいて、紬の口には苦いつばが込み上げた。──あれが二年前、里緒の迫害に荷担した部活なのか。
応接室には二基のソファが並んでいた。片一方に二人の男、もう一方に紬と幸手が並んで腰を下ろし、紬と幸手は改めて名刺を差し出した。向かいの二人が出すことはなかった。
「申し訳ありません、急にお呼び立てしてしまって。本校で英語の教員をやっております、橿原秀樹と申します」
ジャージの男は頭を下げた。
薄々、そうなのだろうと勘づいてはいた。唇を結んだ紬の隣で、幸手が「そちらの方は?」と背広の男を指し示した。橿原よりも先に、背広本人が口を開いた。
「本校校長の鳴瀬です。橿原先生の監督を司る者として、この取材には同席させていただきますよ」
「……そうですか」
幸手の声は冷えていた。
鳴瀬校長といえば、この佐野地区一帯に報道管制を敷いた中心人物でもある。おおかた、橿原が不用意な発言をしないように見張っているつもりなのだろう。話す側にも聞く側にも相応の覚悟が求められているのを察知して、紬は深呼吸をした。ほこりっぽい臭いで噎せそうだった。
「始めさせていただきますね」と幸手の方から切り出して、取材が始まった。手始めに幸手は橿原本人のことを尋ねていった。経歴、立場、そして今回の取材依頼の趣旨。人違いのまま取材を続けてしまっては大変なので、取材の冒頭に人定質問は必須だ。
「佐野中には二年前の四月に転属してきました。その前は若林区の方の学校にいまして、同じく英語を担当していました」
彼は終始、前屈みの姿勢を崩さなかった。幸手が質問を重ねる横で、紬は既存の情報に目を通した。二年前の四月といえば、里緒が三年生に進級したタイミング。すでに里緒へのいじめは発生していたはずである。
「三年二組の担任になって、そこに高松さんがいました。クラス替えもあったはずなのに、四月の頭あたりから何となく教室の雰囲気も険悪で……。ただ、生徒に関する引き継ぎは特になかったので、気がかりでも対処のしようがなかったんです」
橿原の応答に、「若林から移ってこられたばかりだったでしょうしね」と幸手も応じた。若林区は海沿いの平野部に位置する都市化の進んだ区だ。青葉区の山間部に位置する佐野地区とでは、住人の層も、地域の特性も、大きく異なる。
幸手は咳払いを挟み、手帳に視線を落とした。
「貴校はすでに今月二日、高松里緒さんへのいじめが実在していたことをお認めになっているわけですよね。各社の報道によって、いじめの具体的な態様も明らかになりつつあります。であれば我々としては、それに対して貴校がどういった対応を取ったのか、あるいは取らなかったのか、取らなかったとすればそれは一体なぜなのか、そのあたりをお聞きしたいと思っているんですが」
「それが──」
わずかに身を乗り出した橿原を、不意に口を開いた鳴瀬が左腕で制した。
「お話しできないこともある。よろしいですね」
「橿原さんに伺っているんですが」
幸手の声に呆れが混じった。だが、鳴瀬は譲ろうとしない。橿原を一瞥して、無言のうちに何かを伝えると、下ろした手を膝の上で組んだ。
「あなたがた報道は信用なりませんからな。発言の一部を恣意的に切り取って心証を操作するような真似を、ごく平然とやってのける。うちには通学している生徒がいるんです。生徒たちに悪影響を与えかねないような情報は、我々の方で取捨選択させていただく。当然だろう」
「……分かりました」
抵抗しても無駄だと判断したようだ。首を振った幸手が、ソファに深くかけ直した。
かくなる上は、橿原の良心にすがるしかなさそうだった。
「私がいじめのことを明確に知らされたのは五月のことでした」
ようやく語り口を解禁された橿原が、弱々しい声で話し始めた。
瑠璃の死亡を電話で伝えられた際、父親の大祐から電話口で詰られたのが、いじめを知った直接のきっかけだったという。里緒はいじめに遭っているんじゃないのか、瑠璃が自殺を図ったのはそのせいだ──などと言い募られ、事情を知らない橿原はまともに応対もできなかった。
しかし里緒本人にその旨を問おうにも、里緒は瑠璃の自殺を契機に不登校になってしまった。いくら電話をかけても繋がらず、やっと本人に繋がったのは年明けの二月のことだった。高校受験はどうしているのか、様子はどうかと質問をぶつけてみたが、里緒はまともに返事を返してくれず、仕方なく『卒業式にはおいで』とだけ伝えて電話を切った。
結局、里緒が卒業式に出席することはなく、数週間後になって他の教員から、高松家が無人で放棄されているという噂を聞かされた。三年生の過半を不登校で過ごした高松里緒は、父親経由で手渡した卒業見込証明書とともに忽然と姿を消し、その後の行方はいっさい分からなくなった。
……それが、橿原の目から見た、“仙台母子いじめ自殺事件”の全貌だという。
「お父様とは何度かお話をすることができたんですが、里緒さん本人と向き合って話をする機会はほとんど設けることができなかったんです。もっとコミュニケーションが取れていれば何らかの手立てを講じることができたのかもしれませんが、私には、できなかった。……何も知らないでいる間に、何もかもが起こってしまったという感覚でした」
「それは、橿原さんご自身には何ら対応の瑕疵はない、したがって責任もない、というご主張に基づくお話という理解でよろしいですかね」
間をおかずに幸手が問うた。声を詰まらせた橿原は、視線を左右に動かしながら、蚊の鳴くような声で「はい」と応じた。
徹底してひ弱な印象を受けるやり取りだが、橿原が嘘や偽りを口にしているようには感じられない。彼は今、どこまで本心をさらけ出しているのだろう。紬は黙ってメモを取りながら、二人の話に耳をそばだてていた。
と、鳴瀬が急に割り込んできた。
「責任云々に関しては学校全体、ひいては管理者たる私が被るものと思っとります。橿原先生個人をあまり責めないでいただきたい」
「責めることはしておりませんよ」
幸手の声も大きくなった。鳴瀬のことを眼中に入れる気はないようだった。
「続きを聞かせていただけますか。瑕疵はなかったとのことですが、高松里緒さん本人と接触するすべは電話以外にもあったんじゃないですか。高松さんのお宅がどこにあるのかはご存知だったんでしょう。仮に知らなくとも、そういった情報は学校の方で管理しておられるはず。あなたの立場ならば知ることができたと思いますが」
「それは、その……。何ともお答えのしようが……」
「お話を聞く限り、橿原さんの対応には相当な怠慢が見られるように思いますが、その認識はおありですかね。安全配慮義務という言葉はご存知ではないのですか」
小さくなる一方の橿原とは対照的に、問いを重ねる幸手の語気は徐々に鋭くなってゆく。はらはらしながら紬はやり取りを見守った。取材情報を集めるのが主目的なら、相手を追い詰めるというのは邪道でしかない。相手が心を閉ざしてしまうからだ。
「幸手さん、そのへんで……」
小声で耳打ちしたが、幸手は文字通り聞く耳を持たなかった。まっすぐに橿原だけを見つめ、淡々とした口調を装って言葉を押し付け続ける。
「以前、ここ仙台市で別のいじめ事件が発生した際、わたくしども日産新報仙台支局の方で、設置された第三者委員会に報告書の開示を請求したことがありましてね。結果は開示不可項目で真っ黒でした。今回も真っ黒なんではないかと我々は危惧しているわけです。学校側としては、すでに解決したことだと認識されているわけでしょう。ならば本当のことを教えていただけませんか。もしも解決しているなら、あなたがたが世論の追及を受ける理由もないんですから」
「記者さんね──」
ついに業を煮やした鳴瀬が立ち上がった。
それでも幸手は動じない。
紬はついに最悪の事態を想像した。
そして、その想像は、「待ってください!」と叫んだ橿原の声によってかき乱され、冷房の空気に混ざって消えた。
幸手と鳴瀬の視線が橿原に向いた。身を乗り出した橿原は、食い入るような目付きで眼前の記者二名を睨み、声を震わせた。
「先ほどの話、いくつか訂正があるんです」
「橿原!」
「お静かになさってくれませんか鳴瀬校長」
怒鳴り付けた橿原に幸手が声を放った。低く、落ち着き払ったその声には強い圧が込められ、鳴瀬はたちまち黙り込んだ。
「私が里緒さんへのいじめを初めて知ったのは、その……お父さまからの電話の時ではありません。新学期の始まる段階で、他の先生方から知らされていました」
橿原の顔からは血の気が感じられなかった。「引き継ぎはあったわけですか」と幸手が問い返した。
「……そうなりますかね」
「ちなみに、その“他の先生方”とは?」
「鳴瀬校長などです」
その返答で、紬は幸手の取った行動の真意をようやく悟った。幸手は初めから、橿原が鳴瀬の威圧に屈していると予想したうえで、あえて鳴瀬の目の前で責任を煽ることで橿原を追い詰め、退路を断ち、強引に真実を引きずり出そうとしていたのではないか。本当ならとんでもない賭けである。
鳴瀬は全身の血液が煮えたぎったような顔をしていた。だが、幸手は特に気に留める様子もなく、うなずいて橿原に先を促した。
「高松里緒という生徒がいじめを受けているらしいが、その件にはいっさい関わるな、口を出すな──。そう言われました。それ以上の事情を私は知りません。ただ、従わなければ大変なことになると思って、従いました」
橿原は膝に両手を押し付けた。うつむいていたが、伸びた前髪の下には眼光が静かに燃えていた。
「それと、実は里緒さんのお母さまが、自殺される前に相談にいらしていまして……。里緒さんがいじめられている、お願いだからやめさせてくれと、深々と頭を下げて頼まれました。私と、鳴瀬校長と、この応接室でお会いしたんです。四月の中頃のことだったと思います」
「それじゃ、里緒さんのクラスを持たれた当初から、いじめを明確に認識する機会は何度もあったということですね」
「はい。……その時、お母さまは直筆の手紙も持参されまして」
鳴瀬の血相が変わった。
「おい、橿原──」
「原本をコピーしたものです。差し上げます」
言うが早いか、立ち上がった橿原はジャージのポケットから折り畳まれた数枚の紙を取り出し、奪い取る隙を与えずに幸手へ手渡した。
「お前!」
鳴瀬が橿原につかみかかった。止めに入ろうとした幸手が、手紙を後ろ手に紬へ回してきた。
「神林さん。中身、確認してみてください」
言われるがまま、紬は紙を開いて中を見た。もとはB5サイズのルーズリーフだったのだろう。整然と並ぶ罫線の上に、女性らしい丸みのある文字がびっしりと書き込まれている。最後のページに【高松瑠璃】と記載があるのを認めて、紬の心臓は急激に高鳴った。本物の証である。
文面には見たこともないような情報が並んでいた。瑠璃の手で調べ上げられたいじめの態様、主犯格とみられる子供たちの名前、通院の記録や物的損害の細かい一覧など。日産新報の地道な証拠集めが一瞬で無意味と化すほどの記録が、確かな意志を持って網羅的に残されている。
新たな担任にすべてを伝えることで、瑠璃は何としてもいじめを食い止めてほしいと願ったのに違いない。
胸の締め付けられる思いで読み進めていくと、ふと、最後のページの一文に視線が引っ掛かった。
【里緒がいじめを受けるようになってしまったのは私のせいなんです。】
刻まれた一文を前に、紬は思わず、我が目を疑った。いくら見返しても同じことが書いてあった。
(里緒ちゃんのいじめがお母さんに波及したって話だったんじゃ……?)
既出の情報ではそのようになっていたし、大祐だってそのように語っていたはずだ。だとすれば、これはあくまで、“瑠璃が母親として責任を感じている”という意味に過ぎないのか。もしも字面の通りの意味だとすると、里緒のいじめに関する今までの認識が、ことごとく覆ることになる。
「今日は引き下がりましょう」
息の上がった幸手が口を歪めた。
「橿原さんの目的は初めから、我々に手紙を手渡すことにあったようです。これ以上は埒が明かない」
橿原はソファを挟んで鳴瀬と対峙しているところだった。そこにはもはや初対面の虚弱な面影はなく、ただ、打つことのできたはずの手を打てなかった男の激情が、行き場を失ってだくだくとあふれ返っていた。
「……だからあの夜、高松ちゃんは音を取り戻したのかな」
▶▶▶次回 『C.139 秘めた誓い』