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クラリオンの息吹  作者: 蒼原悠
第五楽章 奏でよ、悠久のレクイエム
148/231

C.137 出会いたくなかった子

 




 五回裏の攻撃が始まって以降も、戦況は弦国側の一方的有利で推移した。六回表、第二試合に引き続いて行田がホームランを放ち、二塁にいた宇都宮をホームベースに押し出して二点を奪取。さらに七回表でも一点が追加され、両チームの点差は七点に拡大した。追い詰められた都立立国はここでついに一点を返し、七回コールドによる敗退を防いだが、続く八回表で一気に弦国が四点を奪い取り、都立立国の敗退は決定的となった。八回裏で都立立国は三者凡退に沈み、第三試合は十一対一の八回コールドゲームとなって幕を閉じた。

 その間、都立立国の応援団は懸命な応援演奏を繰り広げた。吹奏楽コンクール上位常連校の看板は紛い物ではなく、総勢六十名を超える大編成の楽団が放つサウンドは、弦国のそれとは比べ物にならないほどの迫力と音圧に満ちていた。だが、いくら立国側の野球部が奮い立とうとも、全国常連の弦国野球部の前には無力でしかない。むろん弦国の応援団も負けてはおらず、管弦楽部の奏でる応援曲は応援部員や控えの野球部員たちによって声と拍手でカバーされ、広い球場いっぱいに力強く轟いた。

 試合勝利の決まった瞬間、弦国側スタンドは爆音のごとき大歓声に()ちあふれた。菊乃など、その場から立ち上がって「よっしゃあ────!」と勝ち(どき)を上げた。管弦楽部にとって宿敵以外の何者でもない都立立国を、まったく無関係の野球ではあるが打ち破ったのである。上級生たちの浸っているカタルシスの大きさは想像すべくもなく、狭間に腰かけて菊乃や部長を見上げる一年生たちの顔も総じて晴れやかだった。

 熱を持った呼気を、花音は思いっきり肺から送り出した。

 精一杯、やりきった。

 こんなに演奏に熱中したのは初めてだった。ただ夢中で、ただ猛然と、続く限りの息を尽くして音を紡いだ。立川音楽まつりの時でさえ、これほどの労力を費やしてはいなかった。


「ね、里緒ちゃん」


 隣で放心していた里緒に話しかけると、彼女は海老のように背中を()らせた。


「は、はいっ」

「楽しかったね!」


 花音は笑いかけた。疑ってみるまでもなく、それが花音の本心だった。

 うつむいた里緒は少しの間、上気した顔でクラリネットを握りしめていた。かぶせたタオルのパイル地を指でなぞりながら、彼女はやっと、小さな声でうなずいてくれた。


「……うん」


 自分と他者の間で同じ感情が共有されてゆく感覚は、たまらなく心地がよくて癖になる。「だよねだよねー!」などと大して値打ちのない返答を叫んでから、花音はクラリネットを抱えて立ち上がった。誰よりも早く平静に戻った部長のはじめが、荷物を持ってスタンドを出るように大声で指示を発していた。

 音楽の基本は『音を楽しむ』ことだと、いつか矢巾が言っていた。そしてまさに今日、花音たち管弦楽部はその教えを実践に移していたと思う。強いられて行う演奏というのもあるのだろうが、きっと窮屈で仕方がないに違いないし、そんな演奏機会など欲しいとは思わない。いつまでも“ただ楽しいだけの演奏”に浸っていたいものだと、つくづく花音は思うのだ。

 野球の応援演奏が終われば、その先には文化祭のステージが待ち受けている。始業式での校歌演奏も管弦楽部が担うことになるし、地区音や中音のような他校との交流イベントも控えている。山のような演奏機会のなかで、いったい今度はどれが花音を心の髄から楽しませてくれるのだろう。スタンドの通路を抜け、管弦楽部の荷物のまとめられた一角に向かいながら、温かな期待で胸が膨らんだ。


(もっともっと吹いていたい。楽しい音だけを、いつまでも)


 そう願っているうちは夏の暑さも気にならない。弾む心を追いかけて、一番乗りでカバンの前にたどり着いた。


「お、早いね。お疲れ!」


 引退済みの先輩たちが花音を出迎えてくれた。調子よく敬礼をしたら、「元気だね」と苦笑された。


「どうよ、向こうの吹部はすごかったでしょ」

「とってもかっこよかったですけど、応援の勢いに関して弦国(わたしたち)が負けてるなんてことはなかったと思います!」

「おー。言うなぁ」


 感心げに顔をほころばせた先輩たちの横をすり抜けて、自分のカバンとケースを探しに入った。「花音早すぎるよー!」などと汗まみれの声を発しながら、追い付いてきた舞香や真綾たちもカバンを漁り始めた。

 時刻はまだ、日の沈む気配のない十二時半前。暑いのはともかく、息を使いすぎて喉が痛い。こればかりは体力のある花音でもどうにもならないことだった。


「喉カラカラ……」


 ぼやくと、逸花が「今のうちに飲み物買ってくるといいよ」と声をかけてきた。近くに自動販売機があったのを思い出して、花音はカバンから財布を引っ張り出した。

 急がないと置いていかれてしまう。駆け足でカバンのもとを離れ、スタンドを駆け下り、自動販売機を探して走った。どこにあったっけな──。あやふやな記憶を当てにして走り回りながら、頬に吹き付ける風が無性に(こころよ)くて、汗の粒と一緒に笑みがこぼれた。


(今、私はきっと幸せなんだ)


 そう思った。


 自動販売機は球場のスタンド裏にひっそりと立っていた。ひっそりとしていたが、近寄ってみると大半の商品の下にはすでに品切の赤い文字が輝いていた。出遅れたのを悟った花音は、とっさに腕時計を見て、残された時間がわずかであるのを確かめた。次の入荷を待ってはいられない。

 仕方ない。駅で何か買おう。

 きっぱりと見切りをつけ、自販機に背を向ける。

 背骨に声がかかったのはその時だった。


「あの、もしかして……」


 今の声は花音に宛てたものだろうか。きびすを返すと、そこには見覚えのないブレザーの夏服をまとった少女が立っていた。弦国生と違ってスクールベストを着用していない。タイミングからして都立立国の生徒かと思ったが、よくよく顔を視認した瞬間、『どこの生徒か』などという些細な疑問は花音の脳裏から跡形もなく消し飛んでいた。


「あ…………!」


 花音は声を喉に詰まらせた。無意識に一歩、二歩と後退したが、開いた距離を埋めるように少女は花音へ駆け寄ってきた。その表情は余すところなく晴れやかで、真夏の陽光のように暑苦しい(きら)めきを放っている。


「やっぱり! 花音お姉ちゃんだよね! ね、覚えてる? ひかりの家で一緒だった清音(きよね)だよ!」


 逃げ切れない。腹を決める暇もなく、花音は目を()らしながら答えた。


「う、うん。覚えてる……っ」


 少女の名前も、出自も、性格も、反らす動作の合間にいっぺんに思い出していた。市原(いちはら)清音(きよね)。むかし花音のいた児童養護施設で、ひとつ年上だった花音のことを実の姉のように(した)っていた少女だった。


「その制服って弦国だよね? 花音お姉ちゃん、弦国に通ってるんだね!」


 うきうきと尋ねる清音の瞳はどこまでも澄んでいて、まるで好奇心旺盛な幼子を思わせる。今、制服を脱いでキャミソールの後ろをめくれば、花音の背中は(たぎ)った冷や汗で白々しい輝きを放っているだろうと思った。


「よ、よく分かったね、弦国だって」

「そりゃ分かるよー。あ、わたしね、立国なんだ! 吹部でクラ吹いてるのっ」

「そっか……。吹部……クラ……」

「ね、花音お姉ちゃんも弦国で吹部やってるの? 楽器はなに?」


 興味津々の様子で清音は問いを重ねてくる。せっかく広げた距離をぐいぐい縮められてしまい、花音はさらに数歩ほども後退した。無邪気な風体の清音とは裏腹に、もはや花音の心は大きな歪みを生じて破裂寸前だった。

 清音は花音のトラウマなのだ。

 そして恐らく清音本人は、そんなことなど何も知らない。


「わっ、私そろそろ友達のとこ戻らなきゃ!」


 無理して大声を上げ、花音は清音を振り払った。他人に振り払われたのと同じ痛みが胸に走ったが、構わずに方向転換して、管弦楽部の待機している方を目指してがむしゃらに走り出した。

「待ってよ!」と清音の声が追いかけてきて背中を叩く。(しぼ)んだ胸の前に薄っぺらい財布を押し付け、聞こえなかったふりを貫き通した。頬に感じる風が冷たかった。


(嫌だ。いやだ。会いたくなかった)


 無言の叫びが息に変わった。荒くなる一方の息を肩で押さえつけ、花音は無我夢中で走り続けた。

 もう二度と出会うことはないと思っていたのに、まさかこんな近くにいるだなんて。こんなカタチで再会を果たしてしまうなんて──。自動販売機を探しに来たことを心の底から後悔しつつ、いよいよ乾ききった喉の痛みをこらえながら、花音はどうにかスタンドの階段を駆け上がり、管弦楽部の群れのなかに逃げ込んだ。


「うわわっ」

「何、どうしたの」


 受け止めてくれた里緒と紅良が目を丸くしたが、花音は何も言わず、ただ、危機から逃げ切ったことへの無限の安堵に全身をぐったりと()けるばかりだった。









「里緒ちゃんのいじめがお母さんに波及したって話だったんじゃ……?」


▶▶▶次回 『C.138 緊迫の取材』

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