C.136 第三試合
差し入れの飲み物やゼリーを買い込み、重たいビニール袋を抱えて試合会場を訪れると、すでに試合は四回裏の中頃を迎えていた。スタンドに上がり、後攻の都立立国が弦国の守備に必死に噛み付く姿を認めた紅良は、あまりの暑さに意識が飛びそうになるのを耐えながら弦国応援団の場所を探した。
「……なるほどね」
見つけた途端、独り言が口をついて出た。
カラフルなドミノマスクを着用した弦国の応援団は、おおぜいの人で埋め尽くされた弦国側観客席の中にあってもひときわ目立っていた。こうして見ると、確かに顔の見分けはつかない。仮に里緒の担当楽器を知っていたとしても、三人いるクラリネットパートのうちから里緒を正確に見抜くのは難しいはずである。
そうこうしているうちに三アウトが取られ、弦国の攻撃が始まってしまった。急ごう──。激しい応援演奏を聴きながらスタンドの後方を回り込み、どうにか弦国応援団の背後にたどり着いた。
「あの」
声をかけると、ウォータージャグの傍らで休息を取っていた先輩たちが、駆け寄ってきて紅良を出迎えた。
「西元さんじゃん! 試合、見に来てたの?」
「差し入れを持ってきました」
紅良は不器用にビニール袋を突き出した。暇そうにしていた弦楽セクションの上級生たちは「うわー!」「ありがとう!」などと叫んで目を輝かせ、さっそく冷えたエナジーゼリーを袋の底から拾い上げた。この暑さである、急いでクーラーボックスに収納しないと温まってしまう。手分けして味を選別し、あらかじめ用意されていたクーラーボックスに飲み物とゼリーを封じ込めた。
「いやー、マジ助かる。こう暑いと買い物に行くのも一苦労だもん」
「立国なんかさっさと叩きのめしてコールド勝ちで終わらないかなぁ。そしたら早く帰れるのにさ」
汗を拭った先輩たちが笑う。紅良はスコアボードに目をやった。
「弦国、ずいぶん勝ってるんですね」
「まぁねー。四回も攻撃順が回ってくりゃ、このくらいの点差は余裕よ、余裕!」
「てか、西元さんもずいぶん半端な時間に来たことない?」
「ちょっと道に迷ってしまって」
肩の荷が下りた反動で紅良は嘆息した。汗の染みた制服が実に鬱陶しいと思った。
第三試合の会場は八王子市の上柚木公園野球場だ。最寄りの南大沢駅からは距離があるうえ、道も一本ではなく、おまけに丘陵地帯の中にあって勾配が厳しい。おかげさまでずいぶん苦労させられた。本当だったら二回表には間に合っているはずだったのである。
「ま、運動部でもなきゃ、普通はこんなとこまで足は運ばないよな」
苦笑を漏らした男子の先輩が、思い出したようにウォータージャグの蛇口をひねって、紙コップに中身を注いでくれた。
「暑かったでしょ。はい、これ」
差し出された紅良は狼狽えた。慌てて、両手で押し止めた。
「いいです。演奏してる人たちにとっておいてあげてください」
「一杯くらいどうってことないよ。熱中症で倒れたら大変なのは、選手も奏者も観客も同じだろ」
先輩も譲らなかった。上福岡洸、とか言ったか。春の定期演奏会後の打ち上げで自己紹介していたのを思い出しつつ、仕方なく紙コップを受け取った。
洸は満足げに口角を持ち上げて、グラウンドの方に視線を向けた。
空高く打ち上がった打球が太陽の光と重なって燃えたかと思うと、フェアゾーンを超えて客席側に落ちてきた。『ファウルボールにご注意ください』──。抑揚のない場内アナウンスとは裏腹に、落下地点では観客たちがこぞってボールの行方を探し始める。
野球の試合を観戦するのはこれが初めてだった。そもそも生まれてこのかた、集団スポーツに関心を抱いたことがない。紅良はすぐにグラウンドから視線を剥がして、高らかに演奏を展開する管弦楽部の方へ目をやった。構えたクラリネットに息を吹き込む里緒の背中が、やけに遠く、小さく見えた。
(……やってるね)
いささかの安堵が胸のうちに膨らんだ。こうして演奏に打ち込む姿を改めて目の当たりにすると、里緒が本当に、本格的に音を取り戻したのだという認識が新たになる。
紅良は半月前の努力を思い返した。泣いたり、笑ったり、苦しい思いもしたけれど、勇気を出して行動に移した結果、こうして里緒はふたたび紅良たちの前に姿を表すようになった。一回りも二回りも大きくなって。
あのとき、花音に声をかけてよかった。
“天岩戸作戦”を実行に移してよかった。
胸を張ってそう思えるという事実が、今、紅良にはたまらなく愛おしい。
「西元さんには感謝しなくちゃいけないな」
隣に立つ洸が何気ない言葉を発した。
「高松さんのこと、青柳さんと一緒に支えてくれていたんだってね。青柳さんから聞かされたよ」
「花音、私のことまでしゃべったんですか」
「そうだよ。高松さんを保護したことを報告してくれた時、『私一人じゃどうにもならなかった』って言っててさ」
紅良は一瞬ばかり呆気に取られたが、考えてみれば花音は手柄を独り占めするようなタイプではない。気恥ずかしさを抱えながら黙りこくっていると、洸は手すりに両腕をもたれかけて、彼方の方へ視線を投げた。
「高松さんが来てから、うちの部は変わった」
彼はつぶやいた。木々の風に揺れる音が、紅良の耳元を快さげにかすめて流れ去った。
「あの子がうちに入部していなかったら、こんな風に仮面つけて応援演奏することもなかった。あのタイミングで合宿を開くこともなかったし、きっとコンクール組の身の振り方も今とは違うものになってた。そう思うと、なんだかちょっぴり運命的なものも感じるんだよな」
「いい変化ばかりでもなかったんじゃないですか」
鎌かけのつもりで意地悪な質問を転がすと、「そうかもね」と洸は爽やかに応じてのけた。それは少なくとも肯定の返事ではなかった。
「善し悪しってのは立場とか見方によって変わるからさ。高松さんは入部した時からそのへんの高校生奏者以上のものを持ってたし、もしかしたら彼女を見て入部をためらったり諦めた子もいたかもしれないわけだろ。視界に入らなかった可能性にまで考えを及ぼしてると、きりがない」
洸の言葉は楽観的ではあるが、決して惰性的ではなかった。「善し悪しですか」とつぶやいてみながら、紅良はグラウンドを走り回る大小の白い影をぼんやりと眺めた。
紅良の人生だって、里緒の登場に大きな影響を受け、変化した。その変化をどのように捉えるかで、紅良にとっての里緒の価値は変わる。管弦楽部でも同じことが言えるのかもしれない。
「あの子は難しいね。他のみんなも言ってることだけど、あんなに実力はあるのにメンタルが脆すぎる。それで色んな人と上手くいかなくなって、歪みが生まれて、それが大きくなりすぎると壊れてしまう。高松さんはそういうタイプの子だと思う。この半年近く、うちの部はずいぶん高松さんの扱いに関して迷走し続けた」
洸は屈託のない笑みを浮かべた。
「でも、たまにはそういう子がいてもいいと思うんだ。周りがどう思っているのか僕には分からないけど、僕には今、高松さんを抱えて突っ走るこの部が、すごく生き生きとしてるように感じられるよ」
「どういうところが生き生きとしてるんですか」
「急に合宿やったりとか、高松さんが音を取り戻した瞬間に立ち会ったりだとか。この仮面だって」
目元の仮面を指で弾いた洸の横顔は、過酷な日照りですら拭い去れないほどの充足感に満ちて見えた。「そうですか」と紅良は足元に声を落とした。
洸のいう“生き生き”というのは、きっと愉悦感のことではなくて、『天岩戸作戦』と称して里緒を笑わせることに躍起になっていた紅良や花音の在り方に近い概念なのだと思う。急な合宿も、出せるはずの音が出なくなるのも、仮面をつけて演奏するのも、すべては“非日常”という魅力的な言葉で括られる。目の前に現れた非日常の出来事に立ち向かうことは、日常的な行動の反復の範囲を飛び越えて、たまらない充足感をもたらしてくれる。
(……私も管弦楽部に入っていたら、同じ充足感を得ることができたんだろうか)
ちょっぴり唇を結んで、紅良は吹奏に励む里緒や花音の姿を窺った。
管弦楽部を蹴ったのも、国立WOを選んだのも、他ならぬ自分自身の意思だった。そんなことまで後悔するつもりはない。ただ、漠然と、他の生き方もあり得たのかもしれないと考えただけのこと。他意はないのだ。
「ちなみに洸せんぱいだけじゃなくてうちらも生き生きしてますよー」
「ねーっ」
洸の向こうからひょっこり顔を覗かせた弦楽の上級生たちが、白い歯を見せて笑う。何気なく紅良の顔を見た彼女たちの目は丸くなった。落書きでも発見したかのように引き返したかと思うと、二人は「これ着けて!」と叫びながら紙袋を持ってきた。
嫌な予感を押し隠して中を覗くと、案の定、そこには管弦楽部員たちのものと同じドミノマスクが詰め込まれていた。
「……私まで着けるんですか」
「そりゃもう! 身バレ対策だからね」
「応援部の人も野球部の控えの人もみーんな着けてるよ。あと、希望があったら観客にもあげてる」
私は試合観戦に来ただけですけど──。喉元まで反論の文句が上がってきたが、紅良はその反論を、紙コップに残っていたスポーツドリンクもろとも胃に落とした。
着けてやるのも吝かではない。
なぜか素直に、そう思えたのだった。
「何色があるんですか」
尋ねると、二つ結びの上級生が勇んで「んっとねー」と紙袋の中身を漁り始める。
「あ、しまったな。青と緑が枯渇してる。オレンジもあんまりない」
差し出されたのはよりにもよってピンク色の仮面だった。しかし今さら断るわけにもいかず、思いきって開封して目元に押し付けた。マスクのおかげで頬の火照りもバレない。「おおー!」などと口々に薄っぺらな感嘆を漏らす上級生たちを目の前にして、これも楽しむべき“非日常”の一環なのだと紅良は思い直すことにした。
──『五回裏、都立立国の攻撃は七番、キャッチャー……』
攻守交代の場内アナウンスとともに京士郎の指揮棒が止まり、管弦楽部の部員たちがいっせいに口を楽器から解放した。すかさず、洸たちが水分補給に動き出す。機敏さを取り戻した彼らの動きを眺め、紅良の存在に気づいて手を振ってきた花音に応えると、すっかり存在感を失っていたセミの鳴き声が、汗ばんだ鼓膜にようやく馴染み始めた。
「その制服って弦国だよね? 花音お姉ちゃん、弦国に通ってるんだね!」
▶▶▶次回 『C.137 出会いたくなかった子』