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クラリオンの息吹  作者: 蒼原悠
第五楽章 奏でよ、悠久のレクイエム
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C.135 夜の練習

 




 高松家の新たな親子生活は三日目を迎えた。

 二人そろって立川の家に帰ってくるようにはなったけれど、里緒は部活、大祐は会社に追われて、それぞれ多忙の身。一緒に過ごすことのできる時間は多くはないし、必要に応じて家の用事や仕事をきちんと分担しないと家は維持できない。

 その日は、一足先に帰宅した大祐が台所に立ってくれていた。

 玄関のドアを開けると、廊下いっぱいに充満した煮魚の香ばしい匂いが鼻先へ膨らんで、思わず里緒は感嘆の声を漏らした。それから忘れていた「ただいま」を告げて、後ろ手にドアを閉めた。


「おかえり」


 顔を出した大祐が里緒を出迎えた。

 手洗いを済ませて居間に向かうと、そこではすでに夕食の準備がおおむね整っていた。ご飯と豚汁、野菜の()え物、カレイの煮付け。とりたてて特徴のないシンプルなメニューではあるけれど、青柳家の食生活もこんな具合だったし、平凡なものに囲まれている方が心も穏やかに落ち着く。際物(きわもの)をたしなむにはゆとりが必要なのだ。


「お父さん、こんなに料理できるんだ」


 つい、思ったままのことを口走ると、「まぁな」と大祐はうなじを掻いて、エプロンの紐を解いた。


「昔の里緒は手のかかる子だったからな。母さんは里緒に付きっきりだったし、その間の家事は父さんがけっこう引き受けてたんだ。大学時代から独り暮らしだったし、一通りのことはできる」


 そんなところで家事の経験値を貯めていたのか。素直に感心する思いと、自分のせいで余計な負荷を両親にかけたことへの後ろめたさの狭間で不器用に揺れ動きながら、いそいそと箸や飲み物を用意して席についた。大祐が向かいに座ったのを確認して、「いただきます」と手を合わせた。

 つけっぱなしのテレビが音楽番組を映している。音楽といっても歌謡曲の番組で、里緒の知らないポップソングの歌い手が交互に出てきては、知らない歌を歌って拍手に包まれている。ただの賑やかしのつもりでテレビをつけている里緒にとって、音楽番組やバラエティ番組は特に()()なもののうちのひとつだった。むろん、その対極にあるのはニュース番組である。


「今日も吹きに行くのか」


 食卓の向かいから大祐が尋ねてきた。頬張っていたものを飲み込んで、「うん」とうなずき返すと、大祐の目は窓の向こうに広がる真っ暗な空に注がれた。里緒は里緒で、通学カバンの横に置かれた二つのクラリネットのケースに目を落とした。視線を逸らしたつもりはなかった。


「毎日やらないと(なま)っちゃうから」

「部活で毎日のように吹いてるじゃないか」

「それだけじゃ足りないかなって思って……。私、一回、吹けなくなっちゃった身だし」

「……そうか」


 大祐はつぶやいた。どこか物足りなさげな響きがした。

 夕食を食べ終えれば、腹ごなしの食器洗いが待っている。手早く食器類をかき集めて台所へ運び、洗剤を含ませたスポンジで一気に洗い流して、整頓しながら並べてゆく。残念ながら、一介の都営住宅に食器洗浄機のような文明の利器は備わっていない。「手早いな」と大祐は言葉少なに里緒の手つきを褒めてくれたが、前日に皿洗いを引き受けた大祐のスピードも負けず劣らず迅速だった。やけに身体が火照(ほて)っていたのは、家事慣れしていないとばかり思っていた大祐への幼稚な対抗心のせいか。

 終えるとすぐさま、濡れた手を洗って拭き、その足で居間を横切ってクラリネットのケースを取りに行った。

 用があるのはA管の方である。パーツ一式が揃っているのを確かめ、折った譜面もケースの中に入れたら、肉付きの悪い背中に大祐の声が当たった。


「真っ暗だからな。気を付けていくんだぞ」

「うん」


 うなずいた里緒は、ケースを手に立ち上がった。




 夏の夜の土手には人影が多かった。気温もそれほど低いわけではなく、むしろ野外で運動をするには適温といえる具合で、しかも自動車が乗り入れてこないから安全性も確保されている。そんなわけで夕方以降の時間に土手へ(おもむ)けば、ジョギングに励む人、飼い犬の散歩に繰り出す人、買い物帰りのサラリーマンや親子連れなど多種多様な町の人々が、土手上に整備されたサイクリングコースを行き交っていた。


(ここならいいかな)


 いつもの場所に誰も腰かけていないのを確かめて、里緒は草葉の茂る土手のへりに腰を下ろした。ちくちくとふくらはぎに刺さる葉の触感がこそばゆい。吹き抜けた風に顔を洗われて、促されるままに前を見上げれば、立日橋の上の高架線路をモノレールの光が渡ってゆくのが瞳に映った。多摩川の川面(かわも)には対岸の高層マンションが無数の光を落としている。不規則に(またた)くホタルのようなきらめきが、波立った心の表面に(やすり)をかけて滑らかにしてくれる。

 いつまでも余計なものに気を取られているわけにはいかない。ケースを開いて管体のパーツを取り出し、クラリネットを組み立てた。

 全長九十センチに及ぶ、あの非常識に大きな瑠璃のA管クラリネットが、見る間に手のなかで組み上がった。我ながら、慣れたものだと思う。吹き始めた頃は組み立てるのも解体するのも、瑠璃や大祐の手を借りなければ無理だった。

 リードを固定して、ネックストラップに接続する。演奏の準備が整ったのを確認してから、軽い息流しのつもりでマウスピースを口に宛がった。


『パ──────……』


 ベルから弾けた音が、辺り一面に響き渡った。

 ほっと里緒は息を漏らした。いちいち音を出すたびに、こうして胸を撫で下ろすのが、最近はすっかり里緒の新習慣になりつつあった。

 合宿三日目の夜を最後に、里緒の口に含んだクラリネットはきちんと音を発してくれるようになった。今のところ特に異常を経験したことはないけれど、いつ、何がきっかけになって、また音を失うかも分からない。不安を掻き消す意識で何度も繰り返し、息を送り込んだ。送り込んだ息の量と長さの分だけ、クラリネットは高らかに歌を唄ってくれた。ようやく心が満足を覚えたのを見計らって、〈クラリネット協奏曲〉の楽譜を開き、膝の上に乗せてスマホのライトを(とも)した。

 管弦楽部の日中の練習は、もっぱら野球部の応援演奏に特化していた。甲子園真っただ中のこの時期、さすがにコンクール練習へ浮気をしている余力はない。しかしそうはいっても、コンクール組は二ヶ月後に本番の演奏を控えている。とりわけ独奏者(ソリスト)の里緒は悠長に構えてなどいられない。いつかコンクール練習が再開するのを万全の態勢で迎えるためにも、今のうちにきちんと基礎練習は積んでおかねばならないのだ。

 欲を言えば、こんな夜中に屋外で練習をしたくはない。犯罪のリスクもある。里緒の顔写真はとうの昔にネット上に流出しているから、どこかの誰かに『高松里緒がいる!』と暴かれるかもしれない。


(でも、あの狭い家でクラなんか吹いたら近所迷惑になっちゃうし。お父さんにもまだ、コンクールのことは話せてないしな……)


 書き込みのあふれた譜面の指示を薄暗闇のなかで追いかけながら、ふと、大祐の横顔が脳裏をかすめた。

 こうして里緒が亡き妻の形見のクラリネットを吹いていることを、今の大祐はどう思っているのだろう。合宿中にクラリネットを届けに来てくれたあたり、悪いようには感じていないはずだと思いたいのだけれど、新生活が三日目を迎えた今も、里緒には娘に対する大祐の本音を見透かすことができていなかった。

 折を見て、どこかで話せればいい。焦らないでいよう──。

 そう自分を納得させて、唇の先にふたたび意識を集中させた。




 窮地を脱して仲間や家族を手に入れても、それで里緒の本質がただちに変わるわけではない。

 臆病で、後ろ向きで、頼りない。ひとたび自信を持ったとしても、ちっぽけなその自信は風前の(ともしび)のように脆い。

 いまだ自分の弱い部分が何一つとして克服されていないことを、里緒は誰よりもよく(わきま)えていた。





 ◆





 七月二十一日、西東京予選は第三試合を迎えた。

 弦国を待ち受ける対戦相手の名前は、国立市の都立立国中等教育学校。──そう、あの芸文附属と並び称せられる、多摩地域有数の吹奏楽強豪校『都立立国』である。総計百人規模の巨大な吹奏楽部を有し、その実力ある演奏はたびたび東京支部大会を超えて全国の場に轟く。弦国の管弦楽部にとっては、吹奏楽に感心のある中学生たちを根こそぎ弦国から奪ってゆく、不倶戴天の敵のひとつとさえ言える存在だった。


「……ま、あっちは宿敵だなんて少しも思ってないだろうけどね」


 冷ややかな目付きで背後のスタンドを睨んだ部長(はじめ)は、キッと視線を管弦楽部の部員たちに戻し、気勢を上げた。


「音の厚みとか完成度とか、音楽的な部分では私たち弦国に勝ち目はない。でも、今回は野球の勝負。立国の野球部は正直言って大したことない。()()()()勝てなくても()()()()勝てる!」


 いまさら鼓舞するまでもなく、すでにはじめを睨み返す部員たちの目には対抗心の炎が爛々と燃えていた。野球部同士の対戦は、同時に両校の応援団同士の応援合戦の場でもある。これは、野球という舞台と競技を借りた、双方音楽部の代理戦争なのだ。少なくとも弦国管弦楽部の側はそう捉え、今日を見据えて士気を高めてきた。


「四回戦へ進もう! 野球部を勝たせるぞ!」


 はじめが怒鳴った。部員たちは声を揃えて怒鳴り返した。


「お────っ!」


 ささやかな声だったが、里緒もそこに便乗することができた。事情(わけ)の分からない顔をしながら、チアや野球部員の中にも加わって声を上げてくれる人がいた。にわかに勢いづいた弦国応援団の様子を面白く思ったのか、テレビカメラを担いだ報道スタッフの目が里緒たちの並ぶスタンドへ一斉に向けられる。しかしドミノマスクをしている今は、里緒も少しばかり強気になれた。

 これをつけているうちは顔が発覚することはない。里緒は『高松里緒』ではなくなり、賑やかに楽器を取り回す『仮面応援団』の一員に変身する。


「始まるね!」


 花音の声で我に返ると、両チームの選手が中央に並んで礼をしているのが見えた。先攻は弦国である。クラリネットを構え、はじめや京士郎の指示を待った。久美子の掲げた曲名ボードの文字が、(たけ)る心と晴天の熱波で陽炎(かげろう)のように揺らいだ。




 野球部の猛攻は予想を大きく上回った。二回表、六番ライトの上越(じょうえつ)祐騎(ゆうき)がフォアボールで出塁したかと思うと、続いてセンター前ヒットを打った七番レフトの富津(ふっつ)(じん)が上越を二塁へ押し出し、そこに八番サードの入間(いるま)和哉(かずや)が強大な腕力でホームランぎりぎりの球を(はな)った。惜しくも客席には届かなかったが、追いかけた都立立国の外野手二人が派手に正面衝突し、キャッチに失敗。送球に遅れを取っている間に上越、富津がホームインを果たし、さらに滑り込みで入間がホームベースに帰還した。一瞬のうちに三点を先取した弦国の勢いは回を跨いでも収まることはなく、三回表では盗塁に成功して二塁に出た徳山を宇都宮のヒットが支援。あっという間に四点、五点とスコアが伸びていった。

 管弦楽部の気合いの入り方も尋常ではなかった。はじめの鼓舞に『そうだそうだ!』と小声で応じていた花音は、いざ演奏が始まるや、灼熱の陽を浴びて顔を火照(ほて)らせ、暑さを心の底から吹き飛ばす勢いでクラリネットの(ベル)から音を発し始めた。真綾と丈、それに詩の奏でるトランペットの音量は普段にもまして凄まじく、対岸のスタンドに吹き付けた音は派手に反響して、応援の歌声の波間を縫いながら管弦楽部のもとまで戻ってきた。並ぶ二基のスーザフォンの巨体は遠目に見ると異形でしかなかったが、そこから打ち出される大音響の低音は猛々(たけだけ)しく轟き、聴く者すべての耳に片っ端からすさまじい圧を加えた。

 里緒は夢中になってクラリネットへ息を吹き込んだ。ドミノマスクのおかげで視界が悪くとも、大きな動きのあるたびにどよめきや歓声の津波が観客席に沸き起こるので、それで試合の動向は十分に察知できた。さすがは弦国野球部、味方の期待を裏切らない。


(私だって、裏切らないように頑張らなくちゃ)


 曲名ボードと京士郎の指揮を交互に視認しつつ、手元の指を懸命に掻き回して、にじんだ汗と夏の匂いにつばを飲み込む。その一瞬一瞬、里緒はすべてのしがらみから解き放たれ、最大限の力をクラリネットに注いでいた。








「僕には今、高松さんを抱えて突っ走るこの部が、すごく生き生きとしてるように感じられるよ」


▶▶▶次回 『C.136 第三試合』

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