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クラリオンの息吹  作者: 蒼原悠
第五楽章 奏でよ、悠久のレクイエム
145/231

C.134 雪解けの前兆

 




 青柳家ではつくづく勉強が進まなかった。

 なぜって、教材を開こうとすると、目敏(めざと)く発見した花音に『ゲームやろ!』とすり寄られ、里緒もろともテレビやボードゲームの前へ連行されたから。合宿から戻ってきた後には三人でクラリネットを吹く時間まで作らされた。おかげさまで紅良の勉強はまったく捗らず、西元家に帰った紅良は宿題の問題集やワークブックの山を前に、黒々とした吐息を隠せなかった。

 だからといって、青柳家で過ごした時間を意義に乏しいと思っているわけでもなかった。


(高松さん、あんなに明るくてきれいな音が出せるようになるなんてな)


 ベッドへ放り出したクラリネットのケースが視野を横切るたび、合宿から帰還した里緒の聴かせてくれたA管の音色が、耳の内側へ大きく膨らんだ。たまらなく泣きたい気持ちに駆られた紅良は、代わりに、組んだ腕へ顔を埋めた。

 以前の里緒が下手だったなどとは思わない。

 今も昔も、里緒の演奏は才能にあふれている。

 しかし紅良には、再起を果たした里緒の放つ音こそが、里緒のポテンシャルを最大限に活かしている──いわば“里緒の音”のように感じられたのだ。

 繊細で丁寧な音遣いは従前と変わらない。そこに、腹式呼吸で鍛えられた力強い音圧と、突き抜けるような明るさが加わって、あの音が生まれた。『まだ安定していない』と里緒は自信なさげに訴えていたが、もしも安定しさえすれば、彼女のクラリネットに追い付くものはいよいよ誰もいなくなる。凄まじい衝撃で胸も、身体も、心も震えた。


(高松さんも頑張ってるんだ。私も、私にできることを頑張ろう)


 そんな言葉で自分を鼓舞して、ペンを取った。

 互いに良好な影響を与え合える関係こそが、きっと健全な友達関係と呼べるのだ。次は紅良が、里緒にインスピレーションを与える側にならねばならない。そんな日がいつか訪れるのを願って、紅良は紅良の目標を見据え始めた。




 まずは、夏休みの課題の消化である。自分の勉強をするにしても、国立WO(ウインドオケ)の練習に励むにしても、夏期休暇突入にあたって大量に課された宿題は目の上のたんこぶでしかない。

 勉強場所を求めて弦国の図書館に向かってみたが、あいにく、同じことを(たくら)んだのであろう生徒たちで自習スペースは埋まっていた。

 仕方なく外に出た。ふと校舎を見上げれば、一号棟の方から楽器の音が降ってきていた。管弦楽部は今日も頑張っているようだ。背中を押された勢いで校門を出て、駅前の飲食店やカフェを適当に当たって回った。一定時間、勉強に集中できるような環境がありさえすればよかった。『カラフル』の店内を覗くと空きがいくつも見られたので、入店を決めてドアをくぐった。

 そしてそれが、紅良の運の尽きだった。

 案内された席についた途端、通路を挟んだ向かいの席から耳馴染みの声が飛んできたのである。


「……あ、西元じゃん」


 振り返るまでもなく彼女の正体に気づいて、紅良は頭を抱えたくなった。──最悪だ。

 声の主は奏良だった。


「無視すんなよ」


 黙っていたら眼前におしぼりを投げつけられた。べちゃ、と間抜けな音を立てて腹這いになったおしぼりを拾い上げ、紅良は嘆息もそこそこに奏良を見やった。机いっぱいに教科書やノートや単語帳を広げたまま、奏良は首だけを紅良の方に向けていた。


「……何やってんの」

「期末の勉強。芸文附属(うち)、この時期だから」

「そう。頑張って」


 素っ気ない(てい)を繕って、カバンから教材を取り出しにかかった。奏良が不満げに鼻を鳴らしたのが聞こえたが、何が不満なのか紅良には分からなかったし、知りたいとも思わないように心がけた。

 あれは期末初日の夜だっただろうか。立川駅前の楽器店まで気晴らしに出かけたという里緒が、奏良から伝言を頼まれたといってこんな言葉を寄越してきた。──『あの頃、西元が言おうとしてたこと、ようやく少し分かった気がする』と。

 しかし残念ながら、額面通りに受け取るほど紅良は単純ではなかった。本当に理解するというのは簡単なことではないし、そもそも『言おうとしてたこと』というのが何を指すのかさえ判然としない。ただ単に、奏良が少しばかり丸くなったのだと解釈することにしたし、あえて紅良の側から歩み寄ろうとも思わなかった。だいたい、今さら彼女に歩み寄ったところで、紅良には何のメリットもない。


(理解者は高松さんだけでいい。頼りにするのは花音だけでいい)


 決意を再確認しながらテキストを開いて、ペンを突き立てた。せっかく集中しようと思ったのに、「そいやさ」と奏良が声をかけてきた。


「……何、今度は」

「私が西元宛に伝言頼んだこと、聞いてるよね」

「聞いてるけど」

「私が伝言頼んだあの子は誰なの? 知り合いなんでしょ?」


 紅良はとっさに声を詰まらせた。

 彼女は里緒のことを問うている。だが、彼女はまだ事件報道の渦中にいる身だ。名前を軽々しく口にするわけにはいかない。


「プリズム楽器で会って話してたとき、なんとなーく管楽器奏者っぽいなって思ってたんだよね」


 密かに肝を冷やす紅良になど少しも気づかず、奏良は組んだ両手を呑気に天井めがけて伸ばした。


「管楽器奏者なんてそこらじゅうにいるだろうけどさ。弦国の管弦楽部、今めっちゃ有名になってるじゃん。テレビとかにも映りまくってるし、あん中にいるのかなーって思っただけ」

「有名なんだ」


 そのつもりもなかったのに尋ね返してしまった。「はぁ?」と眉を傾けた奏良は、手元ですばやく操作したスマホを放り投げてきた。慌てておしぼりを広げてキャッチすると、そこには日産新報のニュースサイトのページが開かれていた。

 表題は【甲子園西東京 謎の“仮面楽団”活躍】。一様にドミノマスクで目元をおおった管弦楽部のメンバーが、カメラに向かって楽器を構えている。


「自分の学校のことも知らないわけ?」


 呆れた口調で奏良が説明を加えてくれた。


「昨日の第二試合なんか、応援部とか野球部のメンバーもその仮面つけてたんだってよ。応援団のいる一角だけスタンドの景色が異様だったって話題になってる」

「……そう」

「何考えてんだかね、あれ。あんなもん付けてたら楽譜読めないじゃん」

「ぜんぶ暗譜してるはずよ」

「ぜんぶ? 正気なの?」


 紅良が口を挟むと、奏良はますます変な顔をした。

 試合終了後に急いで撤退する上で、かさばる金属製の譜面台は邪魔になる。楽譜を暗記すれば譜面台は省略できる。なので、甲子園常連校の多くは、演奏曲の譜面を丸ごと暗記してしまうのだという。これは合宿から帰ってきた花音に聞いたことだった。

 事情を一通り話してやると、「へぇ……」と奏良は鼻白んだ。弦国管弦楽部の意外な努力に驚いたらしい。


「やっぱ面白いなー弦国。吹部もない弱小校かと思ってたけど、そんなところで頑張ってるんだ」

「当の弦国生の前でずいぶんな言い草ね」

「事実でしょ、吹部がないのも弱小校なのも。ま、あの仮面楽団のなかに私の話した子がいるなら、一回くらい聴きに行ってやっても悪くないかなって思うけど」

「行けばいいじゃない」

「軽々しく言わないでよ。ほいほい球場まで足伸ばせるほど暇してるわけじゃないから、私」

「…………」

「だいたい別に、演奏に興味があるってわけじゃないし。物珍しさ目当てで行きたいだけだし」


 紅良から外した視線を床に落とし、奏良は言い訳がましく早口でまくし立てる。

 行きたいなら素直に行きたいと言えばいいではないか。『守山の事情なんかどうでもいい』とでも言い返してやろうかと思ったが、あまりに生産性がないことに気付いて紅良は唇を閉ざした。別に喧嘩を売られたわけではないのだから、そんな言い回しで奏良を不必要に苛立たせる必要もない。


(……喧嘩、か)


 気まずげに眉を曇らせる奏良を横目に見ながら、ふと、その二文字が脳裏に強く(またた)いた。

 そういえば今日は喧嘩を売られていない。

 言葉の節々に棘はあっても、それは日頃の癖以上のものではない。

 いつもの(よこしま)な心の臭いを、今日は少しも感じない。案外、本当に彼女は丸くなっているのだろうか。里緒経由で伝えられたあの言葉は、嘘ではなかったのだろうか。

 きっと、そうなのだ。今の奏良は紅良の敵になろうとしていない。

 そう思い至ったら、無抵抗の相手に向かってファイティングポーズを取るのをやめようとしない自分の姿が、不意にひどく滑稽に思えてきた。

 ふふっ、と息が口から漏れた。すぐさま「何が可笑しいわけ」と叫んで奏良が消しゴムを投げつけてきた。

 奏良の発言が可笑しかったのではない。こんな相手に我を張り続けるのが馬鹿らしくなって、その虚脱感が笑みとなって口からあふれ出した。それだけのことだった。

 奏良は今、紅良と積極的に対立しようとしていない。敵性を持たない状態の奏良は、ただ、ごく当たり前に巷の話題に関心を惹かれて、ごく当たり前に勉強に苦労して、ごく当たり前に他人の話をする、ごく当たり前の女子高生に過ぎない。

 敵意のない人に敵意を向ければ、今度は自分が悪者になってしまう。


「マスクで目元防護、か。……頭いいな」


 答える代わりに写真を眺め、紅良は目を細めた。

 きっとこれは里緒の特定防止のための対策なのだろう。現に、会って間近で話をしたはずの里緒の姿を、奏良はこの写真の中に発見できていない。効果はてきめんのようだった。


「そろそろ返してよ、スマホ」


 焦れたように奏良が立ち上がった。消しゴムとスマホをおしぼりに包んで放り返そうとすると、「バカ!」と彼女は紅良の目の前にすっ飛んできた。

 そう、バカ。

 紅良も奏良もバカの仲間である。

 虚しくなって桃色と白の入り交じった吐息をつきながら、紅良は胸のうちに浮かんだひとつの案を、言葉に換えて頭の隅へ並べた。


(次の試合、差し入れにでも行ってあげるか)


 夏休みに入って暇も増えたことだし、それこそ仮面を装備した管弦楽部の姿を拝んでやるのも悪くない。

 何を買っていってあげたら喜ぶだろう。

 頬杖を突き、思案を深めていたら、スマホを受け取った奏良がどこか気味悪そうな目付きで紅良を見下ろしてきた。








「毎日やらないと(なま)っちゃうから」


▶▶▶次回 『C.135 夜の練習』

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