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クラリオンの息吹  作者: 蒼原悠
第五楽章 奏でよ、悠久のレクイエム
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C.133 第二試合

 




 七月十九日、甲子園の西東京予選は第二試合に突入した。

 弦国野球部の対戦相手として立ちはだかったのは、三鷹市の私立赤星(あけのほし)学園高校である。洸に言わせれば『まるで敵じゃない』ようで、試合会場の町田市小野路球場へ向かう管弦楽部の面々からは、およそ緊張らしきものが全く抜けきっていた。

 スマホゲームに熱中する子あり、他愛のない恋バナで盛り上がる子あり、試合後に食べるアイスの種類を話し合う先輩あり。中央線、南武線、京王相模原線と乗り換えを繰り返しながら、緊張しているのが自分ひとりであることをつくづくと思い知らされた里緒は、楽器ケースを握りしめながら座席の隅っこで固まっていた。

 が、いざ球場に到着した途端、管弦楽部員たちの表情は一変した。


「荷物はみんなここに置いて! 前回と同じく、普段来てない三年の先輩がみんなの荷物を預かってくれます」


 スタンド頂部に広く確保された管弦楽部用のスペースに、はじめの指示で楽器のケースや楽譜の束が次々に置かれてゆく。荷物番を引き受けるのは、受験のために引退していた管弦楽部の三年生四名である。クラリネットの岩倉(いわくら)逸花(いつか)、トランペットの今治(いまばり)志緒(しお)、トロンボーンの川棚(かわたな)明日汰(あすた)、ユーフォニアムの大東(だいとう)美月(みづき)。入部前からクラリネットパートに釘付けにされていた里緒にとって、逸花以外の三人は顔馴染みですらない。「頑張ってねー」と励ます声を背中に受けながら、逃げるように応援部の待つ一角へ上がった。

 見ると、いつの間にか応援部のチアリーダーたちも、管弦楽部と同じドミノマスクを着用していた。野球部の応援組のなかにもちらほらと着用者が見当たる。第一試合以上に異様な弦国応援団の光景に、早くも観客たちは好奇心と不審視の入り交じったような目付きを向けつつある。


「わたしが生徒会経由で話を通したんです!」


 胸を張って報告したのはトロンボーンの佳子だった。里緒をテレビカメラに特定させないための措置であることを、目立つ効果も含めて熱弁したら、『面白い!』と言われて採用されたのだという。さすがは人脈の佳子、手の回し方が鮮やかである。

 応援席に並んで楽器のチューニングを済ませる間に、前の方の席では野球部のマネージャーたちが京士郎やはじめと曲目の打ち合わせをしていた。そこにはクラスメートの久美子や莉華の姿もある。リガチャーの緩みを直して顔を上げると、マスク姿の二人とちょうど目が合った。彼女たちは惜しげもなく手を振ってくれた。


 ──『自分に厳しく考えてると疲れるし、いいことないよー』


 いつか久美子のかけてきた言葉が耳元で踊った。思えば、立川音楽まつりの失敗で凹んでいた里緒に声をかけて励ましてくれたのも、あの二人だった。


「……(こた)えなきゃ」


 つぶやくと、隣の花音が朗らかに笑った。


「楽しいよ、応援!」




 試合は序盤から白熱した。一回の表、二年生投手の徳山(とくやま)日向(ひなた)がバントを決めて塁に出ると、続いてマウンドに立ったエースの三年生・宇都宮誠太郎が盛大にホームランを打ち上げ、弦国はいきなり赤星学園から二点のリードを奪った。遅れを取った赤星学園は二回裏で一点、続く三回裏でさらに一点を取って弦国を追い上げにかかったが、五回表を一アウト満塁に持ち込んだところで四番の捕手(キャッチャー)行田(ぎょうだ)大機(だいき)がふたたびホームランを放ち、一気に弦国は赤星学園を突き放した。徳山の投げる球は回を重ねるごとに切れ味を増し、赤星学園は点の追加を成し遂げられず、さらに三点もの差を加えた弦国の快勝で第二試合は幕を閉じた。

 二発のホームランによって観客は大いに沸き立った。管楽器に周囲を取り囲まれて演奏にふけっていた里緒の耳元から、その一瞬、自らの奏でていた音が根こそぎ吹き飛ばされたほどだった。むろん演奏中は試合をゆっくり眺めている暇もなく、ただ夢中でクラリネットにかじりつき、ときどきドミノマスクの狭い視界で球の行方を追いかけた。


「里緒ちゃんのクラ、すごい」


 一回表の攻撃が終わって楽器を口から離した途端、耐えきれなくなったように花音が喘いだ。その向こうで汗を拭いながら、美琴もうなずいた。


「前とは全然違う。なんて言うか、強烈な音の(かたまり)が飛んでくる感じがする」

「そ、そうですか。よかったです」


 いそいそと管体にタオルをかけながら、里緒は早口に応じた。

 以前の弱々しい吹き方と比べて奏法が明らかに変わっているのは里緒自身も自覚していたけれど、吹き手をやっていると聞こえ方までもは分からない。余計な飾り文句を多用しない美琴の評は、こういうときにはいくらか信用がおけた。

 対岸のスタンドでは赤星学園の吹奏楽部が応援演奏を展開していた。弦国よりも人数は多いが、音にはそれほど覇気が感じられない。「あれが弦国(うち)との違いだろうね」と、一段下でフルートを握る菊乃が言った。


「人数が少なくたって、あたしたちはせいいっぱい演奏を楽しんでるもん。赤星学園の吹部はこの時期、吹コンの方が優先なんだってさ」


 八月半ばのコンクールに向けて練習真っ盛りの季節を迎えている吹奏楽部のなかには、野球部に随伴して応援演奏へ回るのを快く思わないところもある。むろん弦国のように、勇んで積極的に応援演奏を繰り広げる部もある。重要なのは人数の多寡ではなく、吹き出された音の熱と厚みなのだ。両チームの覇気の差は、きっとそこに由来している。

 “音楽の基本は『音を楽しむ』こと”。

 いつか矢巾の置いていった基本原理は、二十七名の管弦楽部員たちのあいだに着実に浸透を見せているらしい。

 まもなく赤星学園の攻撃が三者凡退に終わった。二回表、弦国の攻撃順が回ってくる。


「よし! やるぞ!」


 はじめが怒鳴った。一斉に立ち上がった部員たちの瞳が、夏の陽光を受けて眩しいほどの輝きを放っている。その勇ましさに釣られて、里緒もクラリネットにかけていたタオルを払った。






 弦国の快勝によって、日が高くなる前に試合は終わった。「お腹すいたー」などと亡霊のような語り草で訴えながら、管弦楽部の面々は楽器や荷物をまとめ、スタンドを後にした。すぐに次の試合が始まるので、応援団の面々は(すみ)やかに次のチームの応援団に場所を譲らなければならない。

 殿(しんがり)についた里緒は、制服の首もとをつまんで振りながら、おぼつかない足取りで階段を下った。


(やっと終わった……)


 口を漏れ出す嘆息さえもが熱気に満ちている。いくらクラリネットの演奏がよくても、体力の乏しい里緒には真夏の日射は厳しい。ペットボトル一本ではまるで役に立たず、回を終えるたびに直央の手から給水をもぎ取って、「旺盛だなー」と笑われた。

 汗をぬぐった花音が「楽しかった!」と朗らかに(のたま)っている。彼女の体力をこんなにも羨んだのは初めてのことだった。


「大丈夫か」


 前をゆく京士郎が里緒を振り返った。とっさに何のことだか分からず、慌てて里緒は答えた。


「わっ、忘れ物はないと思います」

「高松くんのことだよ」

「……あ、私、ですか」


 タオル越しにキイの凹凸(おうとつ)を撫でながら、里緒は小声で(うめ)いた。恥ずかしい、素で間違えた。

 今回の試合は里緒にとって、公式の演奏機会における再デビューの場でもある。調子は悪くなかったことを伝えると、「そうか」と京士郎は微笑んだ。


「僕の方にもしっかり音が届いていたよ。あれだけの音が出せるなら、普段の活動でクラを取り回す分には何の問題もないだろう」

「そうだといいんですけど……」

「きみならできるさ。今、やれているんだからな」


 芸文大出身の音楽家の口から発せられた言葉だと思うと、京士郎の言葉は実に力強くて小気味がよかった。おまけに説得力もあるのだから卑怯だ。

 ──以前の里緒の演奏を聴いたら、彼は同じ反応をしたのだろうか。

 ふと、そんな疑問が脳裏をかすめた。

 階段を下りながら里緒は顧問の後頭部を見つめた。この人が管弦楽部の顧問をしているのは知っていたけれど、里緒の見ている前で本格的に部活に顔を出すようになったのは合宿初日以降のこと。むかしの里緒が奏でていたクラリネットの音色を、彼は耳にしていないはずである。


「あの、先生」


 何気なく呼び止めると、京士郎はふたたび里緒を振り返った。


「どうした」

「その……。先生、どうして前は部活にあんまりいらしてなかったんですか」


 京士郎の頬が強張った。「ああ」と感動詞をひとつ挟んだ顧問の目は、次の瞬間には里緒を離れて眼下の部員全体に向けられた。聞いてはいけないことを聞いてしまったのを里緒は瞬時に察知した。


「あっあの、私、別にそんな無理をして知りたいわけではっ……」

「いいんだ。気になるのも分かる」


 彼はつぶやいた。


「……あまり気持ちのいい話じゃないが」


 それが、話を先に進めることの可否を問う言葉なのに気づいて、里緒はうなずいて先を促した。今さら引き返すのも失礼だと思った。


「ま、あれだ。早い話が逃げていたんだよ。むかしの僕は高松くんよりも弱かった」


 京士郎はあごを引き上げた。その目はもはや部員たちを捉えてはおらず、宏漠と広がる青空のどこかへ曖昧に焦点を結んでいた。


「ずいぶん昔、部の子たちと対立したことがあってね。以来、部員とは距離を置くようにしていたんだ。もう何年も前のことだし、もちろん今の部員たちは誰ひとり当事者じゃない。それでも、声をかけられるまで近付くことができなかった。臆病だったわけだ」

「……そうだったんですか」

「自分の役割を見失ってしまうと、敷居が高くなったように感じて踏み込めなくなる。そういう怖さを言い訳にして、僕はきみたちと向き合うのを拒んでいたんだ。恥ずかしい話だけども」


 苦笑した京士郎の背中はちょっぴり丸かった。けれども彼の口にする言葉に、不自然な引っ掛かりを見つけることはできなかった。

 そうか、と里緒は悟った。現在進行形で恐怖心を抱えているならこんな語り口にはならない。京士郎は見事、己の弱さを克服してみせたのである。


「そのへんの事情を知ってるのは三年生の一部くらいのもんだからな。秘密にしておいてくれよ」


 京士郎は唇に一本指を宛がって(おど)けた。「はい」と素直に答えながら、その手に握られた指揮棒(タクト)のきらめきに視線を奪われていると、「早くー!」と集合を急かす菊乃の声が飛んできた。くたびれた顔を見交わして、ちょっぴり照れて、里緒と京士郎は駆け足で階下の菊乃のもとへ向かった。









「理解者は高松さんだけでいい。頼りにするのは花音だけでいい」


▶▶▶次回 『C.134 雪解けの前兆』

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