C.132 帰る場所
帰宅予定日はあっという間にやってきた。
七月十八日、夕方。管弦楽部の練習から戻ってきた里緒は、立川の家に戻るべく準備を始めた。
もっとも、立川の家から持ってきているのはスマホとクラリネット、それに着ていた制服くらいのものだ。終業式の日に返却された答案や成績表を合わせても、さしたる嵩にはならなかった。逆に言えば、残りの日用品はすべて青柳家に依存していたことにもなる。この数日間、千明と晴信には多大な負担をかけ通しだった。
「……里緒ちゃん、ほんとに帰っちゃうんだね」
見送りの玄関に立った花音はいたく悄気ていた。すぐさま「今生の別れってわけでもないんだから」と呆れ顔で紅良が彼女をたしなめたが、つい、釣られてこぼれそうになった涙を、里緒はこっそり拭って誤魔化した。同じ屋根の下で暮らす人の数が減る悲しみを、里緒は痛いほど知っている。
保護対象の里緒が家に戻るので、今日をもって紅良も自分の家に戻るという。半月もの長きにわたって世話になった青柳家の外観を見上げ、言葉にならない寂しさを持て余していると。
「さ。行きましょ」
近くの駐車場から車を回してきた千明が、ドアウィンドウを開いて声をかけてくれた。
後部座席に荷物を置いて、助手席に乗り込んだ。花音が別れの言葉を叫んでいたようだったが、ガラスに阻まれて上手く聴こえなかった。
(また明日、聞き直そう)
窓に手を宛がって、思った。
明日は西東京予選の第二試合。里緒も万を辞して、備品のB♭管クラリネットを手にスタンドへ上がることになっている。そこに『また明日』が当たり前に存在して、当たり前のように花音と会えるという事実が、どれだけの安心感を里緒に与えてくれているか知れない。
南武線を踏切で跨いだ車は、すぐに広い道へ合流して西に進路を変え、あっという間に市境を越えた。だからといって特に街並みが急変するわけでもなく、里緒はぼんやりと視線を窓の向こうに放って、流れゆく家々の景色に心を委ねていた。深呼吸をしていると、青柳家のそれと同じ香りが車の中に漂っているのに気付く。むやみに切なくなって、嗅覚を研ぎ澄ますのをやめた。
「心配することはないのよ」
ハンドルを回した千明が言った。
「里緒ちゃんのお父さんも、今はきちんと里緒ちゃんに向き合う準備をしてる。それでもどうしても上手くいかない、どうにもならなくて苦しいって思ったら、また、うちにおいで。紅茶が里緒ちゃんを待ってるからね」
「……ありがとうございます」
里緒は助手席のなかで身を縮めた。
これほどの好意、あるいは厚意に甘えてしまった以上、里緒も受けた恩の分だけ大きく育ってゆかねばならない。──否、そうなりたいと思う。義務感からではなく、自分自身の願いとして、誰にも恥じない自分になって青柳家の敷居を跨いでみたい。
強くなって戻ってきた里緒を見て、千明は、晴信は、また優しく微笑んでくれるだろうか。
「……あの」
声をかけると、「ん」と千明が鼻で返事を寄越してきた。
里緒は揃えた膝の上で、両手を強く握りしめた。
「お世話になりました」
千明は何も答えてくれなかった。
だが、青に灯った信号を睨んでアクセルを踏み込む彼女の口元には、深く柔らかいカタチのしわが確かに刻み込まれていた。
やがて、行く手に多摩都市モノレールの高架線路が現れ、大通りの交差点を渡った先で車は左に折れた。薄暗い夕刻の空に包まれて、見慣れた都営団地の建物は黒々と宵闇に沈んでいる。細い道を徐行で進むと、ヘッドライトの照らす先に、高松家のある四号棟の建物が見えてきた。
その手前に大祐が立っているのを見つけ、にわかに里緒の肌は粟立った。
「あら。いらしてたのね」
和やかに独り言ちた千明が、ハザードランプのボタンを指で押し込んだ。左のドアウィンドウを開くと、大祐はすぐさま車のもとへ駆け寄ってきて車内を覗き込んだ。その視線は千明にのみ一目散に向けられていて、なぜか、里緒はほっと息が口をつくのを覚えた。
「すみません青柳さん、お手間をおかけして……」
「いえいえ、お気になさらないでください。ひとりで帰れと放り出すわけにはいきませんもの」
首を振った千明が、ドアを開けるように里緒に促してから、自分も運転席側のドアを開けてさっさと降りてしまった。里緒は無言のまま、大祐の顔を見つめていた。千明に向かって何やら茶封筒や紙袋を差し出した大祐は、それらをすげなく突き返され、困惑げに眉を傾けている。大人同士の付き合いに特化したその顔は、自宅で物静かに過ごす父親の顔しか知らなかった里緒の瞳にはいたく新鮮に映った。
千明が手招きをしてきた。怖々とドアを開けて、後部座席から答案や成績表の入ったクリアファイルと、クラリネットのケースを取った。
「車を転回できる場所ってありますか?」
「ああ、いえ。転回する必要はないと思います。まっすぐ進むとそのまま新奥多摩街道の信号に出られますから」
「その方がよさそうですね」
うなずいた千明が運転席に戻ってドアを閉める。ばたん、と大きな音が団地の谷間に響き渡って、里緒は反射的に身を固めた。安全装置を外されたような心持ちがしたが、手を伸ばして不安を訴えようにも、もう千明に声は届かない。なすすべのないまま、ハザードランプを消した青柳家の車がゆるやかに滑り出すのを、大祐と並んで見送った。大祐が大きく頭を下げたので、里緒も慌てて真似をした。
その瞬間、誤魔化しようのない心細さが喉元へ込み上げてきた。
「お父さん──」
「──里緒」
里緒と大祐はいっぺんに互いの名前を呼んでいた。泡を食って先を譲ると、そこでようやく大祐は里緒に向き直った。まっすぐの視線が里緒を貫いて、里緒は一瞬、息ができなくなったかと思った。
「お帰り」
大祐は言った。その声には怒りも、喜びも満ちてはおらず、拭い去りがたい硬さばかりがにじんでいた。里緒は強ばった首を縦に振って、唇を開いた。切ってもいないのに血の味が滲んでいた。
「ただいま」
大祐にも負けないほど硬い声になった。
クリアファイルとケースを抱えて、階段を上った。コンクリートの段に淡々と反響する足音はやけに冷たくて、夏の夜だというのに里緒の肌にはうっすらと寒気が乗った。視界に出入りする大祐の腕は、天井から降り注ぐ蛍光灯の白い光に照らされて、心なしか、痩せて見えた。
「お父さん」
声をかけると、「うん」と声が戻ってきた。里緒はケースの持ち手に力を込めた。
「クラリネット、ありがとう」
「…………」
「合宿の三日目に学校にこれ持ってきてくれたの、その、お父さんだったんだよね。名前は名乗らなかったって聞いたけど……」
「……気にしなくていい」
長い沈黙の末に、大祐はそれだけを答えた。
その手がドアの取っ手を掴んで、引き開ける。
廊下の先に居間が見えた。そこに段ボールの群生が見当たらないのを目にして、里緒は無意識に息を飲んだ。大祐は家の片付けをしてくれていたのか。着いたらすぐ、そこから着手しなければならないと思っていたところだったのに。
居間はずいぶん散らかっていたはずだ。ひとりで片付けるのは大変だったに違いない。クラリネットのパーツ然り、開けっ放しの段ボール箱然り。里緒は片付けなど何もせずに家を飛び出してしまった。他にも楽譜や教本、タオル、包丁、そして──。
(……しまった!)
気付いたとたんに里緒は青ざめた。
確か、居間には首吊り用に拵えたロープを置き去りにしていた。片付けの過程で大祐の目にも留まったはずである。三たび慌てて口を挟むと、勢い余った口が声の乗らない空気を吐き出した。
「お、お父さん、あの……っ」
「言わなくてもいい。分かってるよ」
遮った大祐が靴を脱いで、先に廊下へ上がった。居間の灯りを胸に受ける大祐の背中は、夏の夜空よりも遥かに黒く、暗い色をしていた。
「……苦しかったんだな」
ぽつり、小さな声が廊下に落ちて、転々と里緒の足元まで転がってきた。
たまらず里緒はうなだれた。
「……ごめんなさい」
「父さんの方こそだ。……悪かったな、里緒」
背を向けたまま、大祐も枯れた声でつぶやいた。
妻の命を奪ったロープの輪を、娘の手でふたたび目の前に見せつけられたのである。この数日間、果たして大祐はどれほどの心痛に窶されたことだろう。その想像が里緒につかないわけはなかったが、それ以上の謝罪を口にしようとしても、胸に浮かぶのは底の見えない悲しみの感情ばかりだった。何から謝罪に手を付ければいいのか分からない。謝りたいことも、抗弁したいことも山のようにあって、心の整理がまるで済んでいない。
不遜な自分につくづく嫌気が差しながらうつむいていると、おもむろに大祐がきびすを返した。
「腹、減ったろ。何が食べたい」
「……食材、買いに行かなきゃ」
「そんなことは考えなくていい。今夜くらい、何か食べに行こう」
外食、と里緒は問い返した。廊下に落ちた視線の先で、大祐の足先が不揃いに並んでいた。
「値段は気にするな。食べたいもの、何でも言ってみてくれ。車かモノレールで行ける範囲になら、どこまででも連れていけるから」
「で、でも……」
部屋の掃除も何もかも押し付けたのに、そんな負担はかけられない──。
そう叫びかけた里緒は、続けて大祐の口にした言葉を前に、自然と息を喉の奥に落としてしまった。
「たまには父親らしいこともさせてくれ。……今まで、何もしてやれなかったんだ」
クラリネットのケースを抱き締め、大祐を見上げた。逆光でよく見えなかったが、そこに浮かぶ父親の頬には、優しい色の温もりが確かに乗っていた。
馴染みのある声と、色だ。
うっかりその印象に気を取られ、里緒は大祐の懺悔を受けたことに気付くのが遅れた。
弱々しく眉を下げ、「な」と大祐は畳み掛けた。そこには笑みもなければ力強い響きもない。しかしそれは紛れもなく、かつて甘えん坊で意気地のなかった昔の里緒をいつも受け止め、受け入れ、撫でてくれた人の声だった。見上げれば、真剣そのものの光を宿した大祐の双眸が里緒を捉え、包む。凝り固まった感情がそこへ緩やかに溶け出してゆく。
里緒は不意に、瞳が潤むのを覚えた。
そうだ──。本来の大祐は優しい人だった。幼い頃、友達と触れ合うのが怖くて家に逃げ込むたび、大祐は瑠璃と手を取り合って里緒のことを迎えてくれた。いじめが始まった頃だってそうだった。多少のブランクが空いたくらいで、その揺るぎのない優しさを忘れられるはずはなかったのに。
「じゃ、じゃあ……。お寿司、とか」
涙を堪えながら必死に案をひねり出した。不自然に声が裏返ってしまったから、きっと大祐にはすべてが見透かされていることだろうと思った。
すかさず大祐は問いを重ねた。
「回るのと回らないのと、どっちがいい」
「ま、回る方」
「日野橋のたもとに回転寿司屋があったな。車で行くか」
言うが早いか、さっそく大祐は車の鍵を鍵入れの中から引っ張り出しにかかった。
汚すわけにはいかないので、クラリネットのケースや答案は置いていかねばならない。大祐の横をすり抜け、里緒は居間へ向かった。見違えるように家らしく整った居間の景色が視界いっぱいに里緒を飲み込んで、反動で息が浅くなった。
新たな日々が始まろうとしている。
この家が、ふたたび里緒の帰る場所になる。
ふたりきりの家族で未来を探る拠点になる。
「早くおいで」
大祐が急かした。その声色が一瞬、あまりにも力強く里緒の琴線を揺さぶったものだから、里緒は見えないように制服の袖へ左目を押し付けて、拭って、それからすぐに廊下を駆けて大祐の背中を追った。
「楽しいよ、応援!」
▶▶▶次回 『C.133 第二試合』